三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

『補給戦』の近世期の記述について

はじめに

マーチン・ファン・クレフェルトによる著書、『補給戦―何が勝敗を決定するのか』(原題:SUPPLYING WAR)は2023年に第二版が翻訳され、海上自衛隊の幹部学校のリーディングリストに載るなど、高い評価を得ている*1

しかし16〜17世紀を対象にした第一章前半部の内容には極めて問題が多い。近世ヨーロッパ軍事史研究の進展によって『時代遅れ』になった部分だけではなく*2、当時の研究水準を考慮に入れたとしても違和感を抱く記述は少なくない。

本稿では主に第一章前半部の記述からその誤りを指摘し、ついで補給戦の論述全体に存在する問題点について指摘する。

なお日本語圏ブログでにはすでに旗代太田氏による優れた批判記事が存在する。

しかしまずは本題に入る前に、『補給戦』がどのような目的で書かれた本であるかを解説する。

『補給戦』の目的と実態

著者の前書きによれば『補給戦』は

抽象的な理論化よりも、むしろ最も現実的な諸要因───食糧や弾薬、輸送───に注意を払う

ことで、

軍隊を動かし、軍隊に補給する際生じた問題が、技術や組織あるいはその他の関係諸要因の変化によって歴史的にどう影響を受けたかを理解すること

最近数世紀間にわたって、兵站術が戦略に与えた影響を調査すること

が目的であると述べている。
興味深いことに、タイトルが「補給戦」であるのにも関わらず、「兵站*3」が戦略に与えた影響を調査することを目的としている。

クレフェルトは兵站術を以下のように定義している。

兵站術とは、「軍隊を動かし、かつ軍隊に補給する実際的方法」

ここで軍隊に補給されるものとは「最も現実的な諸要因」である食糧・弾薬であろう。



では実際にクレフェルトは以上の目的をどの程度達成できたのか。

『補給戦』の出版後に、海戦史家のClark G. Reynoldsによって寄せられた書評の中に、以下の記述が存在する。

非の打ち所のない学識と多くの新規解釈───それらがこの本が軍事史の古典となることを運命付けている───がこの本を特徴付けているが、その例示の幅はとても選別されていることを理解する必要がある。この本はヨーロッパの陸戦のみを論じており、故意にいくつかの歴史的かつ壮観な機動作戦に集中している。 この本は制限戦争やヨーロッパ方面以外での戦争、海軍、空軍、恒常的な防衛軍、または退却中の軍隊の補給については何も語ってくれない。*4


Reynoldsの指摘通り、『補給戦』で扱われる補給の範囲は極めて狭い。包囲戦下の攻囲側、防衛側双方の補給や、要塞の駐屯部隊への補給について何も語られていない。軍隊が機動しながら海上部隊より補給を受けたケースや、あるいは軍隊が自国や友好国、中立国内を移動する時の補給方法について語ることもない。


つまりクレフェルトは「実際的方法」について記述すると言いながら、極めて限られたシチュエーションについて、さらに一部の事例を抽出し議論を行っている。 当然ながらこの方法では事例の抽出方法が果たして適切に行われているのかといった検証は欠かせないものになるだろうし、議論を一般化できるかどうかも疑わしい。 クレフェルトが目的とした「兵站術が戦略に与えた影響を調査」が達成されていたとしても、ごく一部、極めて限定的な状況においてのみ達成したといえるだろう。

『補給戦』の近世期の記述とその問題

クレフェルトは近世ヨーロッパに対しても議論を行い、いくつかの評価を下している。 以下ではそのうち二つの評価に対して検証を行い、実際の事例を挙げて反論する。

『無秩序な略奪』という神話

クレフェルトは近世期の軍隊の補給について以下のように語る。

一般的に各国の軍隊は傭兵から成っていた。そのような軍隊は兵卒に対して給料以外にほとんど金を支払わなかったが、兵達はその給料のうちから、日々の食糧のみならず、しばしば隊長からあらかじめ援助を受けていたものの、被服や装備、兵器、そして少なくともある例では弾薬を購入することが当然だと思われていた。財政当局が金を送り将校達が正直にそれを分配している限り、この補給制度は十分に働いていた。

しかし、ひとたび軍隊が駐屯地*5を離れて行動しなければならなくなったとき、事態は甚だしく異なってくる。

他方当時の補給制度は、敵地で作戦行動に移った軍隊を維持することはできなかった。そのような制度を作る必要性は、実に現代に至るまで感じられなかった。太古の昔から軍隊にその欲するものをすべて奪取させることによって、この問題は単純に解決されてきた。(中略) しかしながら十七世紀初期までに、古くから尊重されたこの「制度」は、もはや機能しようとはしなかった。軍隊の規模があまりにも大きくなったので、この制度は効かなくなったのだ。一方、統計資料や管理機構は、後世になって掠奪を組織的搾取に変えることにより兵員増加に対処する一助となったものだが、まだこの頃には存在していなかった。その結果、恐らく当時の軍隊は史上において最も補給が劣悪だった。

著者は続いていわゆる「軍税制」についての解説*6を述べた後、以下のように記す。

補給制度が戦略に及ぼした影響を調査する際、いちばん目立つ事実は、ほぼ永久的に一つの町に駐屯しない限り、軍隊というものは食っていくためには常に移動を続けねばならなかったということである。どんな方法を用いようと──ヴァレンシュタイン式の「軍税」であれ直接的な掠奪であれ──軍隊という大集団、あるいは軍紀のゆるんだ家臣団が存在すれば、ある一つの地域はたちまちのうちに疲弊したものだった。

クレフェルトの主張は以下のように要約できる。
近世の軍隊は「敵地で」*7「作戦行動」*8中の軍隊を維持する「補給制度」*9を持たず、代わりに「欲するものをすべて奪取させること」*10、つまり略奪により軍隊を維持していた。

しかし17世紀初頭に至るまでに、略奪による補給は「軍隊の規模があまりにも大きくなった」*11ために機能しなくなっていた。同時に、後世に誕生する「統計資料や管理機構」*12も未だ存在しなかったため、「史上において最も補給が劣悪」*13な状態であった。

つまり補給が戦略に与えた影響を調査すると、軍隊は「ほぼ永久的に」「一つの町に」駐屯しない限り「常に移動を続けなければならな」かったという事実がわかる。また軍隊がある地域に存在すれば、その地域は「たちまちのうちに疲弊」することとなった。

このクレフェルトの主張によれば、近世ヨーロッパの軍隊は補給のための管理機構を持たず、補給を掠奪に依存し、常に移動を繰り返し、ある地域を疲弊させたら次の地域へ向かう、イナゴのような組織であった。

しかしこの主張は史実の近世ヨーロッパ軍隊の実態とは乖離している。

近世ヨーロッパにおいて攻城戦はごく当たり前に行われており、都市への包囲が数ヶ月に及ぶことは珍しくなかった*14。3年間にわって攻囲が続けられたオーステンデのような例すらある。 従ってクレフェルトの主張するような「常に移動を繰り返す軍隊」という軍隊像は近世において一般的であったとは言えない。

補給を略奪に依存していた、という言説も誤りである。 当然ながら補給を略奪に依存していては数ヶ月に及ぶ攻囲中に軍隊を維持することは困難である。
近世期の軍隊は補給という問題に対して現代でもしばしば見られる解決方法を取った。 民間業者からの購買である。 クレフェルトは近世の軍隊に対して駐屯地を離れて行動する際は購買を行うことができないとしているが、明らかに誤りである。

近世のごく初期の段階から根拠地を離れた場所で購買による補給が行われていたことは明らかだ。 いわゆるイタリア戦争において、シャルル7世は占領地のミラノにおいて食糧及び弾薬を現地において購入している*15

16世紀における兵士の購買の実態を知ることができる資料は多い。例えば16世紀後期、イングランドにおいて出版された『The arte of warre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession』は、著者であるWilliam Gerradが低地地方における経験に基づいて執筆されたが、以下のような記述がある。

彼(兵士個人を指す)が中隊長及び出納係より受け取る給与・賃金は、命を繋ぐための食料、衣服、そして彼の武装を維持するためだけに使われなければならず、他のいかなる用途にも用いられるべきではない。*16

この文章は兵士のあるべき規律を記述したものであり、兵士に食糧・衣服・武装以外に出費するべきでないと説いている。これは当時の補給方法が兵士の自費による自弁行為が主であったことを示している。 ただし必ずしも食糧・弾薬の補給が自弁行為に完全に依存していたわけではない。*17

そしてこのような自弁行為のための環境整備、つまり物資価格の統制や商人たちの交通の保証などは上位の指揮官の義務とみなされていた。Gerradは以下の文章で給養人たちによる物資の販売が、軍の保護と価格統制を受けた上で行われていたことを示す。

商人、給養人、職人、その他商品を野営地*18へ運んでくる者は、彼らの商品を望み通り、安全に商えるよう、彼(野営地の責任者を指す)は丁重かつ好意的な取り扱いがされるように指令を出す。また、彼ら商人が良い値段で支払いを受けられることが予期できるよう彼らに対しては好い表情を見せ、また彼らに十分な護衛を与えてやり、行き来の際に彼ら自身の善意で持って一刻も早く戻ってくるようにしてやり、盗まれたり、盗品の商いで台無しにされたりする疑いなしにあらゆるものを満足させてやる。なぜならそれらの方法によって軍隊は適切に必要な物資を揃えられるからである。それに加えて、彼は兵士たちが重い負担に困窮しないよう、また給養人たちがパン、ビール、ワインのようなものから真に利益が得られるよう適切な値段を食料に設定しなければならない。*19

ここで触れられる野営地、the campeとは、遠征中などに造られる簡易的な防護施設を備えた野営地であり、軍隊が休息するために用いられた。 クレフェルトの主張に現れる駐屯地、permanent stationとは全く別個のものである。

商人の保護が軍の責任であるという見解は他の著者に対しても共有されており、例えば1598年に出版されたThe theorike and practikeではLord high Marshall of the field、すなわち軍の最高責任者に必要な能力について以下のように語っている。

私の知る限り、戦争において、理解するのに大いに実践と経験が必要な領域、すなわち騎兵に適した配置、歩兵に適した配置、砲兵が取るべき距離、偵察や歩哨の配置などに加えて、状況と必要な物資を判断し識別する能力、すなわち敵を防御するのに適した地形を選択し、物資と食糧を安全に野営地まで行き来させることは、比べるまでもなく、戦争においてこれほど重要なものはなく、これらの能力を発揮させるのは極めて重要かつ必要であり、彼(最上位の指揮官を指す)は戦争を行う土地について熟知し、地理学に通じておらねばならず、また街、都市、村々を地図に描き表す能力が必要で…*20

従ってクレフェルトの主張する補給のための管理機構の不在や略奪への依存というテーゼは、GerradやRogerの主張を踏まえる限り誤りである。

もちろんこうした兵士による自弁行為とそれらのための環境整備に依存した補給方法は完全ではなかった。Gerradは兵士相手に食糧・弾薬などを販売する給養人について以下のように述べている。

食料、武器、弾薬の支給は、定められた期限のうちに、任命された給養人によって慎重に兵士たちに分配されなければならず、また給養人*21やその他の職人たちが、兵士に対して彼らの給料日までその支払いを待つことが、必要となるだろう。 *22

これは給養人に対し支払いの延期を求める内容であり、取引に応じる商業者が存在しても*23給料の遅配やその他の要因で兵士の支払いが遅れがちになるという現実があったことを示している。 そして更に兵士の資金が不足すれば、商業者は取引を取りやめ、兵士たちは物資不足に陥っただろう。 その結果飢えた兵士による見境のない略奪が起きることは十分に予想できる。

近世ヨーロッパの軍隊において、物資の不足よりも資金の不足がより重要な問題として語られるのはこうした事情があるからである。

しかし資金の供給が完全に滞らない限り、管理された購買方式の補給は行軍中も機能したし、軍隊はそのおかげで数ヶ月に及ぶ攻囲戦や遠征を行うことができたのである。 なお『補給戦』の中では18世紀のマールバラが同様の方式を採用したとされているが、実際には16世紀には行われている。

近世の軍隊では極端に悪化した財政状況によって略奪が横行することもあれば、また略奪を行わなくても宿営は住民との間にトラブルを引き起こす種となった。 しかしそれらは補給制度が存在しなかったことを示すわけではないし、当時の軍隊が補給を略奪に頼っていたことを一般化できる証拠にもならないのである。

『河川依存』という神話

クレフェルトは近世ヨーロッパの軍隊の戦略的機動性について、以下のように述べている。

十七世紀の軍隊は補給戦からはほとんど無制限に自由だったのに対し、戦略的機動性*24は河川の流れ*25によって厳しく制約され*26ていた。このことは通常、河川を渡るのが難しいということとは関係がない。水路で運べるような補給物性は、陸上を引っ張るより船で運ぶ方が遥かに簡単だという事実のためである。このような特殊な理由は全ての軍隊に等しく当てはまるが、逆説的に言えば、補給物資をうまく調達する司令官になればなるほど水路に依存するようになるということであった。*p24

そしてクレフェルト自身によって、ここまでの主張が三点にまとめられ、代表的な例としてグスタフ・アドルフが挙げられる。

要するに十七世紀の軍司令官達が戦略の基礎を置いた基本的な兵站の実相*27は次のようであった。第一、食って行くためには移動し続けることが絶対必要 *28。第二、行動の方向を決めるとき、根拠地との接触を維持することにあまり頭を悩ます必要はない。第三、河川をたどり、できるだけその水路を支配することが重要である*29

ここでクレフェルトがあげる「兵站の実相」のうち、第一のものが誤りであることはすでに示した。 ここでは第三に挙げられているもの、すなわち「河川をたどり、その水路を支配すること」という主張について論じる。

一見して「河川をたどり、その水路を支配すること」という主張は奇妙である。

輸送のために河川を利用することがあった、というのは事実である。 しかし、輸送を受ける部隊が河川の経路を辿る必要はどこにもない。 河川輸送の場合、使用されるのは船であり、荷揚げ場で荷の積み下ろしと物資の集積あるいは運搬が行われる。 部隊に補給を行う際に必要なのは、荷揚げ場または物資が集積されている場所、つまり港を辿ることであって河川の経路を辿ることではない。 「河川の経路を辿ることが補給に必要」という発想は、河川輸送を根本から誤解しているとしか思えない。

1592年のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼによるルーエン救援の際の進軍経路を以下に示す。 パルマはアミエンに軍を集結させた後に南下を開始し、オマルで小戦闘の後にブレル川を渡河し、四日間でヌーシャテルを開城させベルコンブルに至った。

Omen, 1937 よりパルマの進軍経路を赤線で示した

この間アミエンからベルコンブルまで直線距離にして70キロを大砲を伴いながらパルマは河川に頼らず行軍している。*30 フランス北部の河川経路は大まかに東西方向なのに対し、パルマはスペイン領ネーデルラントから南北方向へ進軍する必要があったため、そもそも河川を根拠地からの補給経路として用いることは無理があったのである。 そもそも河川沿いにしか移動ができないならば、パルマはフランスに介入することすらできなかっただろう。

また行軍が河川を辿っているように見えたとしても、補給を河川に頼っていたと直ちに結論づけるのは単純化しすぎである。 以下の図は30年戦争におけるアルプス戦線においてロアン公ヘンリの取った行軍経路である。

まずヘンリはキアヴェンナに軍を集結させ、エンガディンよりカッサナの渡しを通ってリヴィーニョのハプスブルグ軍を攻撃した。 その後南下してティラーノに向かい、イタリア方面より北上してきたスペイン軍に対処するためモルベーニョへと下った。 その後再び北上しハプスブルグ軍の二拠点ベインおよびサンタマリアを攻略した*31。。

赤線でヘンリの進軍経路を示した

ヘンリがアッダ川源流沿いに軍事行動を起こしていることが確認できるが、これは補給を河川に依存していたからではない。 山地に囲まれた地形上、他に機動の余地がないだけである。 同様の事例として、河川沿いにのみ行軍可能な道路があるケースやランドマークや障害として河川を利用するケースが考えられる。 河川に沿ったように見える行軍経路のみを示されて、一切の検証を行わず「河川を利用した補給を行なっていたから河川沿いに移動していたのだ」と結論づけるのは極めて奇妙な論理が働いているように思えてならない。

以上、クレフェルトの近世ヨーロッパに関する誤りを指摘した。 本稿では『補給戦』刊行以前のものである英語の資料のみを参考資料として用いた。 研究の進展により『補給戦』の記述の誤りが明らかになったというより、『補給戦』が執筆された時点で既に誤っていたということを示すためである。 これらの誤りが、単にクレフェルトが近世軍事史に対して専門的な知識を持たないことに由来する、とは考えにくい。 クレフェルト自身が高く評価し、かつ『補給戦』中で引用しているジェフリーパーカーの著作では、当時の軍隊が使用していた行軍中の購買方式による計画的な補給*32、兵士に対する給食制度*33、包囲戦とその長期化*34について述べられているにもかかわらず、クレフェルトはそれらの記述を全く無視しているからだ。

クレフェルトは近世期の補給方式について、パーカーの記述をあえて無視し、虚偽を記述する必要があったのではないか。 この前提に基づいて次項では『補給戦』全体の論述傾向からクレフェルトの動機について仮説を提示する。

『補給戦』をどう読むべきか

そもそも『補給戦』全八章のうち、近世に割り当てられているのは一章中の十数ページである。 クレフェルト自身も近世の描写に注力する必要をあまり感じておらず、この時代について実証に手間をかけるだけの理由もなかったのではないか。

おそらくクレフェルトは、あえて16世紀を最も原始的な時代として描くことに決めたのだろう。

『補給戦』を注意深く読むと16世紀から18世紀にかけて軍隊は「史上最も補給が劣悪」な状態から「その移動中完全に食糧を得るように 」*35なり、鉄道や自動車によって機動の自由が拡大され、ついにWW2のオーバーロード作戦において随所で事前の計画は崩壊しながらもその責任者の「兵站術」によって軍隊への補給が完全に達成される、といった構成になっていることに気づくだろう。 この構成ではオーバーロード作戦以前に完全に補給が達成された例が存在していては不都合であり、むしろ補給の暗黒時代であった16世紀より技術や組織の進化を経て徐々に補給の方法が発展していったとする発展史観的な叙述の方が適している、と考えたのではないか。

つまりクレフェルトが歴史的な実証よりも全体の構成を優先させたため、問題だらけの叙述となったのではないか、というのが私の結論である。

以上は単なる推測だが、原因が何であるにせよ『補給戦』の近世に関する記述に問題点が多いのは事実である。

しかしその記述が広まってしまったように見えるのは、単にクレフェルト自身の問題だけではないだろう。

そもそも『補給戦』はReynoldsの指摘通り事例集に近い体裁であり、この本から補給について体系的に学ぶこと一般化可能な教訓を導き出すこと自体に無理があるのではないか。

こうした前提を置くと、その内容を字義通りに受け取るよりは、挙げられているケースの解釈に対して批判的に、有体に言えば「間違い探し」をするように読む方が良いのではないか。

『補給戦』は今後も長く読み継がれるかもしれない。 しかしその中で現代軍隊*36として挙げられているのは1941年のドイツ国防軍であり、冷戦下において事例集として執筆された、という点は忘れてはならないだろう。

『補給戦』だけを読んで取り上げられている時代全てについて語ることができると思い込んでしまうのは大きな誤りである。

『補給戦』の代わりに何を読むべきか

では『補給戦』以外に何を読めば良いのか。 近世ヨーロッパ軍事史に関するごく狭い範囲ではあるが、いくつかの本を紹介する。

  1. The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567-1659
    ジェフリー・パーカー著
    1972年に第一版が出版されたスペイン・フランドル駐留軍研究の古典的名著。 フランドル駐留軍の構造・社会・維持のための努力を網羅的に解析した本であり、クレフェルトが引用していることからもわかる通り、ロジスティクスについての記述も多い。 ただし一部の記述についてはジョン・A・リン、Eduardo de Mesa等から批判を受けている。

  2. The Business of War: Military Enterprise and Military Revolution in Early Modern Europe
    David Parrott著
    いわゆる軍事革命論に対するリビジョニストとして知られるDavid Parrottによる近世ヨーロッパにおける戦争と商業活動についての著作。 当時の軍隊のロジスティクスを支えていた民間業者に関する記述が多く、また軍事史研究におけるリビジョニズム的な見解を取り入れることができる。 あくまで私見だが、この本で解説される軍隊・国家と企業の関係は、2010年台以降の軍隊・国家と企業の関係を見る上で相対化のための有益な視点の一つになりうるだろう。

  3. Italy 1636: Cemetery of Armies
    Gregory Hanlon著
    フランスおよびイタリア近世史の研究者であるGregory Hanlonが、あまり知られていない30年戦争の北イタリア戦線について、そのキャンペーンの一つを詳細に解析した著作。 他の著作とは異なり一つのキャンペーンについての本であるため、目標の選定や補給の実際的方法などについて得るところは多いだろう。 しかし兵士の心理的状況を再現しようと試みた箇所ではグロスマンを無批判に引用しており注意が必要。

以上三つの本を挙げた。 いずれの本も英語で書かれており、現代日本人のマジョリティにとってスペイン語やドイツ語に比べれば読解は容易だろう。

英語が読解できないにしても現代は機械翻訳もあるし、邦訳されるのを待つより英語を勉強した方が早い。

むしろ英語で読めるだけまだマシ。

以上。

*1:https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/reading_list.html

*2:例えば第一章最初の2ページに記述される軍隊の規模の拡大は、90年代より登場したリビジョニストらの研究によって現代では否定的に語られることの方が多い。

*3:原文:logistics

*4:Technology and Culture, Vol20. No.1

*5:原文:permanent station

*6:ただし「軍税制」と呼ばれるものについては法令による特別税や同盟を組む領主権力からの援助金の形式を取るものなど、その実態については様々であることに留意

*7:原文:enemy territory

*8:原文:embarked on operations

*9:原文:logistic system

*10:原文:having the troops takes whatever they required

*11:原文:The size of armies was now too large for it to be successful

*12:原文:the statistical data and administrative machinery

*13:原文:probably the worst supplied in history

*14:Geoffrey Parker, The Army of the Flanders and Spanish Road, 1972, p10-11

*15:Taylor.Frederick.Lewis, The art of war in Italy, 1494-1529, p14

*16:William Gerrad, The arte of warre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession, p15

*17:Gerrad, p52

*18:原文:the campe

*19:Gerrad, p236

*20:The theorike and practike of moderne vvarres discoursed in dialogue vvise., p151

*21:原文:victualers

*22:Gerrad, p149

*23:ヨーロッパにおいて存在しないと言うことはまず考えられないが

*24:原文:strategic mobility

*25:the course of the rivers

*26:severely limited

*27:原文: fundamental logistic fact

*28:原文: In order to live, it was indispensable to keep moving.

*29:原文: it was important to follow the rivers and, as far as possible, dominate their course.

*30:Charles Oman, A History of the Art of War in the Sixteenth Century, p515-518, 523

*31:David C. Norwood, The struggle for the Valteline, 1621-1639: The alpine campaigns of the thirty years' war, p105-111

*32:Parker, 1972, p86-95

*33:Parker, 1972, p162-164

*34:Parker, 1972, p10-11

*35:p63

*36:原文: modern armies

近世スペインにおける常備軍の誕生

はじめに

近世ヨーロッパにおける常備軍組織の成立は軍事史において一つの契機と見做すことができる。 常備軍は領域権力を持つ国王により人事・財務・指揮統制を直接管理された即応部隊であり、それまでの貴族や民兵の混成によって成立した中世的軍隊とは決定的に異なる存在であった。

16世紀以降、ヨーロッパ諸国・地域は常備軍を維持する制度を発展させていくが、特にスペインはレコンキスタ以降に常備軍制度を発展させ、世紀の中盤以降に野戦病院システムや寡婦年金制度を備えたフランドル駐留軍、さらには現代軍隊へと発展していく。 この過程において、性質の異なる中世的軍隊からどのようなプロセスを経て常備軍が誕生したのか、という点は重要である。

本稿では中世期スペインから近世における常備軍の成立までの過程を追う。特にレコンキスタ終了直前からイタリア戦争にかけてのカトリック両王期に行われた軍事改革に注目し、さらにその後創設された編成単位─ルシオ─がどのような意義を持つのか、また中世的軍隊から常備軍への移行がどのような問題を引き起こしたのかを明らかにする。

中世期スペインの軍隊と貴族

スペインの中世はイベリア半島の大部分を征服したイスラム教諸勢力に対するキリスト教諸勢力の再征服運動に費やされた。 この時代において、キリスト教諸勢力の軍事力は主に二つの階層からなっていた。騎士と都市民兵である。

地域・時代により差はあるものの、中世スペインの騎士階層は平民騎士(caballeros villanos)と貴族騎士(hidalgos)の二つに大別することができる。

前者はキリスト教勢力によって新たに獲得された土地に再植民された平民を基盤とする階層であり、馬と武器を所持し、騎兵として戦うことができるのであれば、税免除などの特権を与えられた*1。 本来貴族階層とは異なり、血統ではなく馬と武装が所持できるか否かといった能力に基づく階層であったが、13世紀以降はしばしば世襲化し、戦闘の場所がイベリア半島北部の山間部から中央部の平原に移るにつれてレコンキスタにおける騎兵の数的な主力となった。 また12世紀終わり頃から都市の行政職は後述の貴族騎士と共に平民騎士によって占められ、その行政的権力もまた拡大していった*2 *3。 14世紀以降の内戦により、乱発された貴族位を手に入れ、税免除の特権を受ける者が現れたが、15世紀にはその反発により規制が強まり、貴族位を手に入れたものとそうでないものに二極化していく。*4

貴族騎士はいわゆる貴族階層である。この階層は二つのクラスに分けることができ、大貴族はricos hombres、中小貴族はinfanzonesまたは単にhidalgosと呼ばれた。 貴族騎士たちはその役割や経済力ではなく、血統によって定義される階層であり、中世初期は王の臣下として特別な軍役奉仕を負っていたが、カスティーリャ建国と同じ頃に聖職録に基づく土地や金銭の見返りの場合を除いてほぼ軍役が免除される立場となった。 それにも関わらずこの階層の騎士たちはむしろ積極的に軍役に服していた*5

この貴族騎士たちはレコンキスタが進展するにつれ平民騎士と同様に都市行政に入り込み、しばしば行政職を世襲化した。 さらに重要な出来事が12世紀頃に起きた。この時期に発生した相次ぐ内乱の影響で、各自の土地に散らばった中小貴族騎士や平民騎士が大貴族の庇護を求めた結果、より強力な貴族が誕生した*6。 1390年の議会では王からの年金の引き換えに軍役奉仕のための私兵を維持することが定められ、14世紀から15世紀にかけて行われた内戦を生き残った者はさらに権力基盤を強化していった*7

植民・再征服された国境都市は都市自身の防衛と王への軍役奉仕義務のために民兵を組織しなければならなかった。 民兵組織は騎兵や歩兵などは厳密には区分されておらず、民兵は都市の周辺区域からも徴収され、馬を用意できる場合は騎兵つまりcaballeros villanosに、用意できない場合は招集される地域ごとに歩兵に分けた部隊が編成された*8。 この時に最も重視されたのが招集される個人が的確な武装を用意できるか否かであり、都市が住民の財産を売り払うことで強制的に武装させることも可能であった*9。 遠征の際は都市民兵は総督の指揮下に入り、偵察*10、書記*11などの役職が定められ*12、給与は派遣元の都市評議会から支出されていた*13 また、アルフォンソ11世により創設された平民騎士の組織caballería de cuantíaは、15世紀には顕著な数の増加を見せ、グラナダとの国境付近で極めて高度に軍事化した社会を成立させた。1407年のバエザの兵員登録簿によれば、登録されている1774名の人口から、254名のcaballeros de cuantía、256名の弩兵、960名の槍兵を書類上は動員することができた*14。 一方で14世紀には騎兵の規律の弛緩が危惧されており、1337年のセビリャに対する布告では臆病さと武装について率直な不満が述べられている*15民兵の動員も完璧ではなく、1457年には招集対象であった弩兵のうち、実に70%以上が現れなかったという事件も起きている*16

上記の3者のうち、指揮階層という点から最も重要であったのが貴族騎士である。 13世紀のアルフォンソ10世は七部法典において下位の指揮官の任命と軍の機動を指示するcabdiello mayor、敵地で部隊を先導し統制するadalid、adalidから選出される歩兵指揮官almocadenesなどの役職を定めており、中でも特にadalidが重要視されていた*17*18。 新しいadalidの選出は12人のadalidの協議により定められるとされており、一見実力主義的な任命がされていたように思えるが、アルフォンソ自身は当時すでに世襲化が進んでいた平民騎士には懐疑的であり、こうした「士官」となるのは貴族騎士が想定されていたようだ*19

15世紀には古典復興運動の影響を受け、古代ローマギリシャの影響を受けた著述活動が行われるようになるが、この時点では古代ローマイベリア半島への侵略者として扱われたため、古代を規範と見做す動きは小さかった*20

レコンキスタ期の軍隊は、貴族の私兵、都市民兵、若干の王の直属の部隊で構成されており、前二者は独自の指揮階層と人事権を有していたため、王が管轄可能な範囲はごく限られていた。 この軍隊は大規模な動員を前提とし、外国人傭兵に依存しない戦争を可能にした。一方で、私兵を持ち、都市の行政職を占める貴族による反乱が頻発することにもつながったと考えられる。 そしてこの中世的軍隊は、即位直後に貴族による蜂起を経験したカトリック両王の時代に根本的な変化を遂げる。

カトリック両王」の軍隊

イザベラ女王及びフェルディナンド2世、すなわち「カトリック両王」の時代にスペインの軍隊は大きく変化し始める。 イザベラとフェルディナンドの結婚と、イザベラのカスティーリャ王即位により内乱の勃発により、カスティーリャ封建制秩序は混乱し、危機に陥った。この危機に対処するため、内乱中また内乱後も両王は封建制下秩序に基づく王権の復旧を図った*21

両王はまずカスティーリャに対する秩序回復のために、中世期に自発的に誕生した都市民兵組織であるHermandadを復活させる意向を示した。この意向は1476年の全ての都市に対し執政官の監督のもとで特別税を原資とし、Hermandadを組織させる施策につながる。こうして組織されたHermandadは住民100名あたり1人の軽騎兵及び150名あたり1人のMen-at-arms─騎士の供出と、定期的な評議会への参加が求められた。こうして王権とより強くつながったHermandadはそれ以前と区別してSanta Hermandadと呼ばれる*22

Santa Hermandadではそれまで乱立していた指揮階層の呼称が統一され、部隊を率いる者はcápitanすなわち中隊長と呼ばれるようになった。1480年にはSanta Hermandadは一個騎兵中隊あたり1名の中隊長が1名の旗手、4名の中尉と共に100名の騎兵を指揮するなど、標準化と指揮階層の細分化が起こっていた*23

一方歩兵についても1488年にセビーリャ市に対してHermandadから5000名の動員が命じられ、その翌年にはCapitanía General に指揮される12個中隊1万名の動員が行われるなど、これまでの中世的な都市民兵の動員とは異なる動きが見られるようになった*24*25*26。 歩兵の動員システムについても重要な提案がなされた。1487年のマラガ攻囲では大規模・効率的な動員システムの必要性が明らかになり、Alonso de Quintanillaの案を元にした改革が進行しつつあった。Quintanillaは各住民の収入に応じた武装の度合いを決め、各州の行政長官がその査察に責任を持ち、Hermandad評議会を通して王に対して報告する新しい民兵システムを提案した。この案では各都市から10人に1人の割合で住民が招集を受けた場合には即座に応じることができ、集合地点までの旅費などは都市の負担とし、それ以降の費用は国庫が負担することになっていた。*27。しかしこの提案が実現されるにはさらに時間を要した。

Hermandadの改革と共に、指揮官人事についても改革が進められた。カスティーリャでは14世紀以降、王に代わり軍事指揮権を行使するcondestableという役職が存在し、最高位の貴族が就任することが通常であった*28。しかしこの役職の権限は弱められ、独立して軍の指揮を取ることは認められなくなり、軍事行動の際は王と合流して行動することが求められるか、副次的な戦線を任されるだけとなった。

続いて側近や出納官の前線への派遣、軍事遠征の補給や給与支払いを査察し、コントロールするための王権直轄の監督官職の創設などを通し軍事面への王権の強化を強めた*29。 これらの施策はHermandadにも及び、Hermandadに対する王権のコントロールをより強めた*30

しかしグラナダ攻略までの軍隊にはHermandad、Santa Hermandadのような王権のコントロール下にある部隊だけではなく、貴族も多く含まれており、近世的な軍隊というよりは中世的な軍隊の特徴を色濃く残していた*31。 1487年及び1489年の戦役では騎兵9300名のうち7000名が、歩兵8200名のうち5300名が、火縄銃兵740名のうち424名が貴族の指揮下だったのである*32

こうした状況はグラナダ攻略以降に大きく変化し始める。 1492年以降は王室配下だろうと貴族配下だろうと関わりなく部隊の標準化が進行し始めた*33

元々カスティーリャではカトリック両王の時代に先駆けたフアン2世時に1000名規模の近衛部隊が存在していたが、その後衰退し、1470年台には近衛兵は存在していなかった。しかし1493年に2500名の主に重装騎兵からなる近衛騎兵隊が設立されると幾度かの改編を経ながら監察官や会計係などの役職が組み込まれていき、1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げた*34。さらにはこの部隊の兵士は任命される際には装備を自弁しなければならなかったが、任命後は装備の費用を王の負担で賄うことが期待できた*35。この近衛兵をスペイン初の常備軍と見る向きも存在する*36

近衛騎兵は1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げ*37、1495年にはフランスとの開戦を控えてQuintanillaの提案の一部が採択され、各都市は2人に1人の割合で人員を供出することが決定され、直ちに勅令となった。この人員はHermandadの人員とは重複しないよう定められ、中世から続く兵員ソースとしてのHermandadの役割は事実上終わりを迎えることとなる*38

こうした臨時的な動員兵ではない恒常的な歩兵部隊がいつ誕生したのかは明確ではないものの、1497年には使用する武器によって区別される三つの部隊が存在していた。使用する武器とはランス、ハンドゴン又はクロスボウ、剣及び盾であり、1495年の勅令によって定められた「収入に応じた武装の度合い」と一致している*39。このことからこれらの部隊はQuintanillaの案に始まる新民兵システムによって生まれたか、影響を受けていた可能性は高い。

この時期において重要と考えられるのがGonzalo de Ayoraだった。Ayoraはルドヴィーコスフォルツァの下で歩兵戦術について学んだと考えられ、スイス傭兵と古典期の記録に影響を受けたと思われる。これらの結果としてAyoraは歩兵の武器教練を行っただけではなく、古参兵に対し、下士官としての訓練を施し、1505年には王の護衛兵として訓練していた100人の歩兵に対し1人の少尉、旗手、2人の軍曹及び2人の分隊長を配置した*40

国境沿いの要塞システムについても王権による管理強化が進められた。元々カスティーリャでは南部国境要塞は国庫による負担と王の監督によって維持されていたが、カスティーリャ両王即位前にこのシステムは放棄されていた。カスティーリャ両王はグラナダ攻略前にこのシステムを復活させ、さらに攻略後にはこのシステムを旧グラナダ王国領地に拡大させた。海賊対策を主目的とする沿岸部の要塞プランは1488年に現れたが、これらの要塞には王室の役人による定期的な査察、守備兵に対する給与の支払い及び監督義務が付随していた。そしてこれらの守備兵は、地元の市民・農民から募集され、王室に任命された中隊長によって統率されていた*41

人事権の統制はイタリア戦争を通してさらに改革が進んだ。 イタリア遠征の初期の指揮官であるゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの例からこうした強化策の一端が窺い知れる。ゴンサロは有力な貴族の家系に生まれ、第一次イタリア戦争でGran-Capitanの称号を受けていた。さらに第二次イタリア戦争でナポリ副王の地位を得て以降、ゴンサロは軍事だけでなく政治権力をも手にし元々強力であった権限をさらに強化した。しかしそのゴンサロでさえ、麾下の中隊の配置変更についての許可を国王から得なければならなかった*42し、ゴンサロの後任であるAyoraは王の護衛隊長であった。

こうした統制は1505年の勅令によりさらに強化される。レコンキスタ中には、ある役職についている人物が戦死した場合、その血縁の者が役職を受け継ぐことが認められていたが、1505年の勅令では下位の役職の者が受け継ぐことが定められた*43

実際に1504年〜1505年の休戦期間にはイタリア所在の部隊のうち、空白となっていた中隊長職を王室の任命によって決定する方法について書簡の往復が行われている*44。またAyoraに見られるように近衛騎兵隊は指揮官職の人材ソースとなりつつあった*45。 1503年の勅令では中隊レベルの士官の所掌範囲が定められ*46、指揮統制範囲が明確化された。

他に重要な改革としては中隊を統制するより上位の階層─連隊及び連隊長職という役職の重要性が広範に認識された点が挙げられる。 1488年の動員時点で同様の発想は見られるが、特に前述の書簡の中では連隊長職が王室による任命される必要性が話題に挙げられていた。 ただしこの期間に議論されていた連隊長職にあたる役職が率いる兵員は500名程度であったと考えられている。 Diego de Salazarはゴンサロ・デ・コルトバが各500名の中隊12個からなる6000名の部隊、いわゆるコロネリアを編成する意図を持っていたとするが、コロネリアが存在したのか、本当にゴンサロの意図なのかについては議論がある。 一方でゴンサロ・デ・コルトバは500名の部隊を4個合同で指揮する構想を1512年には確実に持っており、2000名という規模は後年のテルシオになんらかの影響を与えている可能性が高い*47

ルシオの登場

レコンキスタ以降の軍隊における部隊の編成・人事権の王権への集中化は、必然的に国家管理下の恒常的武装組織、すなわち常備軍の誕生と強化を促すものであった。

こうした流れの中で1536年には公式にテルシオが登場する*48。この部隊はSanta Hermandadや近衛騎兵に見られる中隊長、騎手、出納官といった役職に加え、Ayoraの改革に見られる古参兵からなる下士官を持ち、ゴンサロ・デ・コルトバが構想した2000名に近い3000名の部隊で、イタリア半島の要塞に駐屯する王権直轄の防衛部隊だった。 その構成員はHermandadとは異なり中隊長によって募集された人員で、徴募時には出納官の名簿に名前が記載され、王室から給与の支払いを受け、問題を起こした場合は勅令に定められた通り中隊長から罰則を受け、別の中隊に移る場合には連隊長の許可を受けなければならなかった。

つまりテルシオの登場は、イベリア半島における諸改革がイタリア半島に持ち出された結果と見做すことができる。

一個のテルシオを構成するのは複数の中隊であり、一個の中隊はさらに複数の分隊から構成されていた。 分隊esquadraは最低25名の兵士から構成され、これを率いるのは伍長─cabo de eaquadraであった。 中隊の士官は中隊長、軍曹、副官、旗手で構成されており、これに2人の鼓手、笛吹、従軍教誨師、出納官などその他の職務が存在した。 テルシオの士官は各中隊長の他、連隊長─maestre de campo、上級曹長sargento mayorとそれぞれのアシスタントが存在した。 また、連隊長は第一中隊の中隊長を、上級曹長は第二中隊の中隊長を兼務していた。 さらに、中隊のレベルでは第一分隊の伍長は中隊長が務めていた。 つまり、テルシオの連隊長は、第一中隊の中隊長でもあり、同時に第一分隊の伍長でもあった*49

連隊長は中隊長や上級軍曹の中から選出され、中隊長は副官や軍曹の中から、副官や軍曹は旗手や軍曹助手から選出された。 経験豊かな兵士は第一分隊に集められ、連隊長の参謀としての役割を果たした。

このような構造を持つことで、王権による兵員の管理と統制体制が確立され、理論上は即時に利用可能な軍事力が誕生したのである。 さらにこの構造は、役割の細分化による専門性の向上だけでなく、キャリアパスが明確化されたことによって軍隊内の地位向上が社会的地位向上に結びつく契機ともなった。

ルシオは現代軍制の特徴である連隊制の直接の祖先であり、改組を繰り返しながら現代まで続いている部隊も存在する。 もちろんカトリック両王の時代の一連の軍制改革はテルシオのような組織を最終目的としていたわけではなく、むしろその都度の問題に対処しようとする中で事後対応的に行われたものであり、結果的に現代にまでつながる軍制が誕生したにすぎない。

一方で、王権の管理下にある強力な軍隊の登場は新たな問題を引き起こすことにもなった。 中世的軍隊を支配し、近世においても社会的に強力な階層であった貴族が依然として常備軍内部に留まる一方で、恒常化した軍隊の中で長期に渡り経験を積んだ兵士たちは軍隊における欠かすことのできない存在となっていた。

やがてこの両者間では士官昇任を巡る争いが起きるのである。

理論上、テルシオの連隊長に任命されるには王の認可が必要であった。 しかし、遠隔地の場合、王の代理人として軍隊を指揮する総督─Generalísimoによる推薦が実質的な認可基準となっており、王によるコントロールが弱められる結果を産んだ。 また、既存の部隊の中隊長を新たに任命する場合、総督が任命権限を有していた。 しかし連隊長中隊長いずれも推薦や任命のための基準が17世紀まで存在せず、属人的な基準に頼っていたために必然的に縁故主義が蔓延った*50

こうした縁故主義により、長い経験を持ち、その資質を見出された結果昇進した経験豊かな士官と、社会的地位や上級指揮官との縁故、財産を背景に地位を手に入れた士官という二種類の士官が誕生した*51

このような士官選定に関わる問題は16世紀中頃から注目を集め始め、同時に盛んになったスペイン軍内部の軍事著述家による執筆活動の中で、士官の適性について議論が行われていく*52。 この議論の中では「縁故や財力により不適切な地位にある士官」、つまり主に貴族出身で十分な軍歴を持たない士官が攻撃対象となり、実力主義的な風潮が高まった。 しかしこうした風潮は必ずしも支配的になるまでに至らなかった。 1632年のオリバーレスによるスペイン軍人事制度の改革は、こうした論争の中庸を取り、士官への昇任に必要な年数を定める一方で、貴族出身者とそれ以外のもので必要な年数が異なっていた。 貴族出身者はより短い年数で昇任することが可能であったのである。

この中庸案は抜本的な改革となりうる可能性を秘めていたが、しかし、この時期には国家としてのスペインはすでに危機的状況を迎えており、この改革も挫折したため、ついにこの問題は解決されることがなかったのである。

まとめ

本稿では中世期から常備軍の成立に至るまでのスペイン軍事史を紹介した。

中世スペインでは貴族や財産をもつ市民が騎士となり、それ以外の民兵と共に軍事力となった。 いわゆる「戦争のために組織された社会」である。

やがて騎士たちは行政権力と結びついて行き、徐々に強力になっていき、王権との衝突が繰り返されることとなる。

カトリック両王期には半ば場当たり的な軍制改革が繰り返された。 都市民兵改革や要塞改革はそれぞれ別個の目的によって行われており、統一的な意思決定は見られない。

しかしその結果として1530年代には即応部隊であるテルシオが整備され、スペインは現代に続く常備軍制度を手に入れることとなる。

設立された常備軍の各部隊の士官・スタッフの役割と責任範囲は明確化され、専門性が求められた。 さらに軍隊内のキャリアパスが明確化されることで軍隊での昇進が社会的な地位の上昇につながるという発想が生まれることになった。

一方で、この新たな社会とも呼べる組織の中では、中世以来軍隊を支配してきた貴族たちと、新たに生まれた専門的兵士との間でついに解決することがなかった争いが生まれることとなったのである。

この争いについてもっと知りたい人は『Road to Rocroi』を読もう。

以上

*1:D.W.ローマックス, "レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動", p136-138

*2:D.W.ローマックス, レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動, p136-138

*3:Elena Lourie, A Society Organized for War p55-57

*4:Lourie, p74-76

*5:Lourie, p60

*6:Lourie, p63-64

*7:Ana Belén Sánchez Prieto , LA FORMACION DE UN EJERCITO NOBILIARIO AL FINAL DE LA EDAD MEDIA, La organización militar en los siglos XV y XVI, p173-175

*8:James F. Powers, Townsmen and Soldiers: The Interaction of Urban and Military Organization in the Militias of Mediaeval Castile, Speculum Vol. 46, No. 4, p648-649

*9:Lourie, p57

*10:tatalayero

*11:escribanoまたはnotario

*12:Powers, p654

*13:Miguel-Ángel Ladero Quesada, FORMACION Y FUNCIONAMIENTO DE LAS HUESTES REALES EN CASTILLA DURANTEL SIGLO XV, La organización militar en los siglos XV y XVI, p167

*14:Manuel González Jiménez, *LAS MILICIAS CONCEJILES ANDALUZAS (SIGLOS XIII-XV)", ibid, p233-235; 登録されている人口は家長男子のみを算出していると考えられる

*15:Jiménez, , p232

*16:Jiménez,, p237

*17:Lourie, p71

*18:Powers, p642

*19:Lourie, p70-74

*20:Thomas Devaney, Virtue, Virility, and History in Fifteenth-Century Castile, Speculum, Vol. 88, No. 3, p721-737

*21:Stewart, p31

*22:Stewart, p180-181

*23:Stewart, p42, p202

*24:Stewart, p184-185

*25:René Quatrefages, "Organización militar en los siglos XVI y XVI", La organización militar en los siglos XV y XVI, p12

*26:Francisco Arias Marco, "ACLARACIONESN TORNO A IAS CORONELÍAS Y LOS TERCIOS", ibid, p217-218

*27:Stewart, p191-193

*28:Stewart, p34

*29:前述の通り、カスティーリャでは軍役奉仕の見返りに金銭が支払われていた。Stewart, p33, p46, p89-90

*30:Stewart, p90

*31:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/dT8Oi6v

*32:Quesada, p162

*33:Stewart, p201-204

*34:Stewart, p90,p189-191

*35:Stewart, p146

*36:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/cR02Dm4

*37:Stewart, p189-191

*38:Stewart, p191-193

*39:Stewart, p139 なおこれより以前にスイス傭兵による軍事教練が行われている

*40:Stewart, p42, p137-138, p194-195, p205

*41:Stewart, p159-161, p202

*42:Stewart, p38-39

*43:Stewart, p159

*44:Stewart, p208

*45:Stewart, p293

*46:Stewart, p60

*47:Stewart, p208

*48:なお、これ以前からテルシオという名称を持つ部隊は存在していた

*49:Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, p233

*50:Fernando González de León, The Road to Rocroi, p17-35

*51:必ずしも後者のみが縁故主義の結果生まれたわけではない。上級指揮官からの庇護によりり士官に昇進した前者の例もごく簡単に見出すことができる。また後者が常に軍事的に無能であったわけでもない。後者の最も有名な例はアンブロージオ・スピノラである。

*52:Fernando González de León, "Doctors of the Military Discipline": Technical Expertise and the Paradigm of the Spanish Soldier in the Early Modern Period, The Sixteenth Century Journal, Vol. 27, No. 1, p61-64

【試論】「従者」の比較軍事史

はじめに

近世ヨーロッパにおける軍隊と同時代の日本の軍隊を比較する際、武装から財政的基盤まで、多種多様な差異を見出すことができる。本来成立経緯も社会的背景も異なった組織同士を比較しているため当然ではあるが、一方で類似しているかのように見える構造もある。その一つが「兵士」に付き従い補佐する「非戦闘員」、すなわち「従者」の存在である。

ヨーロッパ、日本双方ともに近世以前から「従者」は一般的に見られる存在であり、同じように「戦士」に付き従う「家臣」としての性格を持ち合わせていた。しかし、両者ともに近世期においては「家臣」としてではなく、「兵士」に対する非封建的な「契約者」として現れる。この「契約者としての従者」には武具の整備、運搬などの役割や軍組織からの規制など共通する要素を見出すことができる。

こうした共通性について比較・考察を行うことで、例えばある軍隊が常備軍であるか否かといった、軍隊の性質に対する議論を行うにあたって何らかの知見を得ることを目標にしたのが本稿である。

本稿では常備軍的性質を持つ16世紀後期〜17世紀初頭のスペイン軍と、同時代の日本の軍隊の従者を比較し、軍隊組織が構成員である兵士に提供するモノと兵士が必要とするモノのギャップに着目しながら両国の軍隊の性質に対して考察を行う。

スペイン軍の「従者」

ここではスペイン軍の従者について取り上げるが、蹄鉄工や大工、小売の商人などは含まず、あくまで兵士と契約関係にあった従者のみを扱う。 近世期のスペイン軍において従者*1は公的には全ての兵士に帯同が認められていた存在ではなかった。

Sancho de Londoñoの著作では兵士300人あたり30人という数字が挙げられ *2、軍の規則では一個中隊あたりわずか3人しか認められていなかったものの、実際にはこれらの数字を大幅に超過する従者が存在していた*3。1577年のある騎兵中隊は兵士110名に対し従者が最低でも117名いた。ただしこれは平均よりもずっと従者の割合が高いと考えられている。同年低地地方を離れた退役兵5300名に付き従う従者は2000名ほどだった*4。 従者たちの役割は食料の調達・輸送、武具の清掃・維持・輸送などを担っていたが、その役割があまりにも重要であったため規定された人数を大幅に超過していたと考えられる。その他、中隊に配備された荷車の御者も務めていた。
従者たちは兵士と契約関係を結び、給与の支払いも兵士たちから受けていた*5。兵士が得た略奪品が運びきれない場合、従者に現金で売り渡すこともあったという*6
スペインに限らず当時のヨーロッパでは、従者は兵士に比べて年齢が若い傾向にあったが*7、中でもスペイン軍ではmochilerosと呼ばれる15歳以下の少年が含まれていた *8。 これら従者を保護し、また脱走を防止するために、スペイン軍では従者一人につき一人の監督者*9が付くこととされていた*10

行軍の際は従者たちは契約している兵士の隊列の後に追従し、野戦の際には一箇所に集められて待機していたらしい*11。ただし拠点防衛の際には前線の兵士に弾薬を補給する事もあったようだ。 野営地でも従者たちは兵士と宿営する場所が分けられていたらしい*12が、都市に宿泊する際は少なくとも一部の従者たちは兵士と共に都市を取り巻く城壁で休むことができたようだ*13

要約するとスペイン軍における従者は、兵士個人と契約し、兵士に対する様々な支援を提供し、見返りとして兵士から代金を受け取っていた。軍組織は従者の存在を公認しており、監督者を定めることで保護していた。戦闘が起きた際は従者は兵士とは別の場所に待機しており、平時には兵士とある程度距離を置いていたという事が言える。

日本の「従者」

16-17世紀の日本において、武家ではないが武家に何らかの形で奉仕を行う武家奉公人と呼ばれる階層が存在していた。武家奉公人足軽の証言をまとめたとする史料*14として「雑兵物語」があり、日本近世史の研究者根岸茂夫は「雑兵物語」に登場する人物たちの階層を以下4つに分類している*15

  • 前線における戦闘補助員としての足軽
  • 上級武士の供廻り及び身辺や乗馬の世話を担当する奉公人
  • 輸送用員としての矢箱・玉箱持ち及び小荷駄部隊の構成員
  • 騎馬の武士に付属する又者

このうち足軽は戦闘員であり、矢箱・玉箱持ち及び小荷駄部隊は個人との契約関係にはなく、戦場での補給の働きが主に期待されていることからどちらも本稿で対象とする従者とは見なせない。上級武士の奉公人は持鑓担、草履取などの役職が確認できるが、彼らは戦闘参加も期待されていた存在でもある*16ため、従者というより従騎士を思い起こさせる。一方又者は、一部に戦闘参加の記述がある者*17がいるが、「ご主人」から叱責されている事、鎧を身につけていない事、本人も「ためらい」を感じている事からあくまで例外的な行動であると思われ、また、又者に分類される人物によって来年の奉公先を選択する事が語られるなど、又者が「中下層の武家」と主従関係ではなく契約関係にある示唆がされている事から、本稿で取り扱う従者は、戦闘員である「又若党」を除く又者に限定する。「又若党」の左助は「ご主人」の「脇をかため」ることが想定されており、これは「若党」という役職が戦闘参加を期待されるものであったためと思われる*18。又者全てが非戦闘員ではなかったということを意味する興味深い記述である。

雑兵物語中において、又者の役割は武具の輸送・負傷者の搬送・馬の誘導*19などが挙げられている。おそらくこれらに加えて主人の食料や私物も又者によって輸送されていた可能性が高い。

戦国領主たちの間ではこうした従者=又者に対して様々な施策が取られていた。その多くは奉公人である又者が主人の許可なく契約を解除できないようにして従者の逃亡を抑止する性質のものや、または自領土の住人に対して従者としての契約相手を制限するなどの施策であり*20、これらは勢力間または武家間で従者を取り合う競争があったことや、より良い条件を求めて雇い主を選ぶ従者がいたことをうかがわせる。又者が広い範囲で必要とされていた事は確かであると考えられる。

上記の役割や施策はスペインにおいて見られるものと共通項が多い。一方で、戦闘の際に従者がどこに位置するかは大きく異なるように見える。例えば雑兵物語中で又草履取の加助は戦闘中の主人に弾薬の提供を申し出る*21など、主人のすぐ側にいるかのような描写がなされている。ただしこの描写には詳細が欠けており、何らかの防御構築物が存在したのかどうか不明である。

日本における従者について要約すると、中下層の武家と非封建的な契約関係を結び、様々な支援を提供する従者が存在していた。戦国領主たちはこの従者の存在を認識し、契約の制限や逃亡を抑止する規制策を取っていた。戦闘中の従者はしばしば前線で契約関係にある武家の側につき、例外的ではあるが戦闘に参加する事もあった。

考察

本稿では、スペイン・日本共に兵士と契約し、兵士に対し武具の輸送などの支援を行い、同時に兵士が所属する組織からなんらかの保護や規制を受けていた事を明らかにした。またスペインでは規定を大幅に上回る従者が存在し、日本では従者の契約関係を規制する法令が見られるなど軍隊が従者をめぐる競争関係にあったことを明らかにした。これらはどちらの国でも従者が兵士に対して提供する支援が軍隊にとって必要不可欠であったことを意味している。
問題はスペイン・日本ともに兵士個人と契約する従者とは別に、集団的な契約関係にある非戦闘員*22が存在しているのにも関わらず、なぜ従者という外部の存在に兵士と契約させていたか、という点にある。フランス近世史家のJohn A Lynnは従者について以下のように述べている。

従者は、国家が供給するモノと戦列の兵士が必要とし、または望むモノのギャップを埋めていた。((Lynn, p135))

つまり軍組織が兵士を支援する能力と兵士が期待する支援にギャップがある場合に「契約者としての従者」が現れるのである。Lynnは国家によって運営される軍隊について語っているが、すでに見たように日本における従者もスペインにおける従者と共通性が高く、Lynnの指摘は日本についても当てはまると考えられる。戦国領主や大名権力の軍隊に見られる兵士個人と契約する従者は、戦国領主や大名権力の軍隊が兵士に対し供給するモノと、兵士が必要とするモノにギャップが生じていたために存在したのである。

では、ギャップが生まれた要因は何か。 スペイン軍においては16世紀初頭から始まる軍隊の兵員増と組織改革に伴う常備軍化に対して武具の輸送や維持などの後方支援の能力が追いついていなかったことが挙げられる。
日本においては支援を必要とする兵士=中下層武家の増加が要因の一つとして考えられる。そもそも封建契約に基づく奉公人やそれを維持できる経済基盤の弱い武家の増加により、封建契約を持たない従者が生まれた、とする考えである。
この仮説が正しければ、日本においてもスペインと同じく軍隊において兵員の増加が起きていたと言える。 またスペインで起きていた常備軍化についても、日本では従者が容易に契約相手を変更できるほど中下層武家が恒常的に従者を必要としていたことから、同様に起きていた可能性があるが、この分野での研究の進展が必要である。

以上、本稿ではスペイン軍に見られた兵士個人と契約する従者と、日本における中下層武家と契約する又者の役割を比較し、両者の共通性からヨーロッパにおいて従者という存在が成立した要因の一部である兵員増という性質が日本にも存在した可能性を示した。 次項では、本稿では扱いきれなかった従者に関する未解明の課題とその意義を考えてみたい。

課題

主に本稿で取り上げられなかった課題は二つある。
一つは従者の戦場での位置がスペインと日本で大きく異なると考えられることである。スペインでは従者たちは戦場から隔離されていた一方で、雑兵物語の記述には、主人の側にいるような描写が多い。雑兵物語での記述では行われている戦闘が、会戦なのかskirmishなのか、野戦なのか攻城戦や防御構築物に拠った銭湯なのか、といった点が不明瞭なため、本稿では詳細に取り上げることができなかった。単純に戦闘様式の違いとみなすこともできるが、本来非戦闘員である従者を戦闘中に側に従えるのは合理的とは思えない。いずれにせよこの点の解明は戦闘様式の解明や戦闘文化の考察につながることが期待される。
二つ目はヨーロッパやアメリカでは広く見られる兵士の妻が従軍することが日本では見られない点である。ヨーロッパでは遅くとも14世紀には女性が軍隊に従軍しており、その大多数は戦闘よりも宿営地や行軍において活動し*23、 しばしば従者と同じような働きをしており、両者の役割は重複している部分も多い。日本でそうした存在が見られないのは、単に研究が進展していないという可能性もあるが、従軍期間の長さなどに起因する可能性もある。

*1:personas、bouches、mozosなど

*2:Sancho de Londoño, Discurso sobre la forma de reducir la disciplina a mejor y antiguo estado,p25

*3:Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, p150-151

*4:騎兵中隊はParker, p252、退役兵は同p151

*5:Londoño, p29

*6:Parker, Ibid

*7:John A Lynn, Women, Armies, and Warfare in Early Modern Europe, p34-35

*8:Pierre Picouet, The Army of Philip IV of Spain 1621-1665, p208

*9:los padres de mozos

*10:Londoño, p29

*11:Robert Barret, The theorike and practike of moderne vvarres, p101

*12:Barret, p104及びPicouet, p206

*13:Parker, p252

*14:証言がそのまま載せられているというよりは、 登場人物に著者の主張に沿った議論を行わせる対話編に近い性質の史料と思われる

*15:根岸茂夫, 近世武家社会の形成と構造, p20-23

*16:かもよしひさ, 現代語訳 雑兵物語, p75

*17:又草履取の加(嘉)助。かもよしひさ, p153

*18:藤木久志, 雑兵たちの戦場, p5

*19:かも, p153, p162, p196-197

*20:藤木, p120-123

*21:かも, p153-156

*22:スペインでは

*23:Barton C. Hacker, Women and Military Institutions in Early Modern Europe: A Reconnaissance, p643-644

【部分訳】Ludovico Melzo著『騎兵の指揮と職務に関する軍事規則』第1巻

はじめに

本稿はフランドル派遣軍で騎兵副総監を務めたLudvico Melzoの著書、『Regole militari sopra il gouerno e seruito particolare della caualleria』のスペイン語訳『Reglas militares sobre el govierno y servicio particular de la cavalleria』第1巻15章分のうち、1〜6章を訳したものとなる。
原著は騎兵に特化した軍事書としてフランドルで12年休戦が成立した後の1611年にアントワープで出版され、その後本稿で参考とした5巻構成のスペイン語訳が1619年に出版された。
本稿の訳出部分の内容を大雑把にまとめると、兵卒から中隊長に至る各階級が各章ごとに分かれており、それぞれに求められる素質や役割、モラル、そして愚痴*1が詳細に書かれている。

参照テキスト:Catalog Record: Reglas militares sobre el govierno y servicio... | HathiTrust Digital Library

第1章 騎兵部隊の公式な編成について

あらゆる良好な規律ある軍隊では、その結果として招集すべき歩兵の人数が決められ、抜きん出た国家を形成する騎兵の打撃を貪欲に求めなければならない。この論考は、多様な国や土地で歩兵の人数への敬意のみにふれられ、取り残されていた軍事規律のある部分や大学と真の芸術の学校が花開いたフランドルにおける習熟と実施の上に成り立っている。このために、(例えば)歩兵15000人の打撃を高めることが望まれる場合には、他に1中隊あたり100人の騎兵をもつ40個の中隊から集められた4000人の騎兵との協調が必要であると書いた。これら40個の中隊は、10個は槍騎兵で、18個は胸甲騎兵、残り12個は火縄銃騎兵でなければならない。
この騎兵集団はその将軍(General)、副将軍(Tiniente general)、主計将軍(Comissario General)、槍騎兵・胸甲騎兵・火縄銃騎兵の中隊長たち(Capitanes de lansas, de Corazas, y de Arcabuzeros)、先任補給官(Furriel mayor)とその助手たち(Ayudantes)、司法官(Auditor)とその法務大臣たち(Ministros de lusticia)、そしてその他の多様な事柄を扱う者たちを持たなければならない。
私自身が論争に加わることを望むわけではない。しかし槍騎兵やまたは胸甲騎兵の兵務については、この論考ではそれらやその他のものは火縄銃騎兵の兵務と同じく有用であり、必要でありかつ利点があったと理解されるだろう。

第2章 騎兵の兵士について

騎兵としての兵務を望む兵士は共通して、我々が歩兵に必要とするのと同様のものを想定されなければならない。これは健全な敬礼、その仲間の活力、適した年齢(通常20歳から40歳まで)、この役割に真面目に励み、熟練する願望があり、それを学ぶこと、その兵務と利益のために先任職より上に昇任する活力があること、その職務の義務を従順に、かつ優秀に果たすこと、のちに言及するように几帳面かつ誠実であること、確かな導きであり人間の行動の指針と我々の終に向かう徴であり全き善である神を恐れること、悪徳を嫌悪すること、兵士の肉欲と泥酔───それらは疫病であり、部隊を衰弱させ、その魂と勇気、そして強さを失わせる───から逃れなければならないことである。
しかし、特に述べるのは、騎兵には歩兵のような頑強さは必要ではないが、機敏で軽快な身体でなければならず、極端にいえば、ずっと軽快である方が望ましく( y ultra desso convendría mucho que estuuiese acostumbrado, y suelto)、特に馬に乗った場合に軽快に運動できるということである。騎兵の招集において言われる意見で一般に受け入れられ、非常に認められている意見が、騎兵は全ての男が騎乗の仕方を教えられているようなより広い土地に適しており、都市内部、囲い地などでは礼儀正しく過ごすということである。 また騎兵固有の性質のため、騎兵がその守りなく敵を探すに行く際には、意思と勇敢さをとても褒め称えられ、そしてそれとは対照的に、無用さ、勇敢さの欠如、怠惰に染められていく。 良き騎兵であろうとするには、不眠でなくてはならない、奇妙なことにそれができたときに、より注意深くなるのだ。また以下のいかなる場合も注意を怠ってはならない。彼らの食事を探し求めるために、家々に入り、その食事を大いに食べること。
他ならぬ軍においても、常に服装の清潔さ・身綺麗さを保ち、破れた箇所の布当て、軍隊において兵士の見た目が悪くなる原因であり、結果として自分の身を守るためにそれらを利用する際に大いに不便を招く、悪いボタン、その他の違反や破れたシャツは最小限にするべきであることははっきりしている。 ピストル、火縄銃、騎槍、その他あらゆる武器は、軽薄で不便な服装で派手に扱うのではなく、高貴な兵士が身につけるべき野外で便利な清潔かつ質素な服装で、十分に注意し、慎重に扱うこと。
全ての騎兵は、宿営地を離れた時から決して側を離れず仕え王子の色の飾り帯を着けなければならない。もし王子の側を離れれば、1人だろうと集団だろうと、統制を良く効かせようとした場合でも厳罰を受ける。この伝統と習慣は部隊に多くの利益をもたらせしめる。兵士達は紳士的に仕えることを身につけるからだ。また貧しいために身分を落とし、それを部隊の者に知られたくないために敵の旗を持って村を略奪しに行ったり、その他下劣なことをしない兵士を際立たせることにもなる。その上戦闘が起き、戦火を交えられ、また衝突が激しくなった時でも、数々の部隊によって知られており、私も見てきた、同じ仲間の兵士によって、重傷を負わされたり、殺されたりする同士討ちから仲間の兵士を守ることができる。

第3章 分隊伍長(Cabo de esquadra)について

槍騎兵・胸甲騎兵中隊には分隊伍長はいないという意見が幾らか見られるが、それらにも分隊伍長は必要とされている。私の経験から発見したことは、分隊伍長無しではそれらの兵務は十分統制することができないということだ。分隊伍長の助力により部隊を分隊に分けられるのである。それらの分隊も立哨の役割が回ってきたときに兵士を保証に立たせる助けをする副官(Tiniente)がいなければならない。夜間に幾らかの人数の兵士を派遣する時には、一個分隊を派遣するのが大変易しい。また一個中隊全員を同じ場所に泊めることができない時や、同じ土地にまとまって宿泊するが割り当てられる家の数が少ない際に、宿舎の割り当てもより容易となる。そうすると分隊の多くが副官に必要な報告書を任せ、その伍長が宿泊する兵士により注意を向けることができるからだ。
火縄銃騎兵中隊が敵の妨害を打ち破り、先鋒を務め、斥候を送る時は、その軍務は重要な行動や用件、特に斥候を成し遂げるために中隊の経験豊富な分隊伍長に任せられる。 幾らかの場所を確保しなければならない状況が生じたときは、分隊伍長をその分隊全てとともに派遣せざるをえない。戦闘の機会があるときは通常数個の分隊分隊伍長たちとともに戦闘に送られるが、これは副官が戦闘を開始した後でなければならない。哨戒は副官が第一だからである。
これらの分隊伍長達が読み書きを知っていると大変有用である。なぜなら彼らはその分隊の兵士たちのリストを持ち、それを読むことで公平に部隊を分割するからである。分隊伍長たちは中隊長たちからその功績に従って勲章と5%のボーナスを与えられる。

第4章 少尉(Alférez)について

騎兵中隊における少尉の地位は、とても重要で、尊敬されるものである。普通、良い生まれの若い貴族はその地位につこうと志し、しばしば彼らが良い精神を持っていたとしても必要である経験も実践も不足しているにも関わらずその地位が与えられる。彼らは中隊長と副官が不在の場合にその中隊を指揮し、行軍の際は常に中隊の先頭、先頭列の正面で中隊長の後方に位置し、その軍旗とともにある。また、軍旗の正面を横切ることが許されないことに多くの注意を払わなければならない。
槍騎兵中隊の少尉は戦闘が発生した際、中隊長の左隣につき、襲撃の際にも側についていなければいなければならない。この場合、少尉は敵に対して軍旗を砕くよう務めねばならない。また一度軍旗が砕けるのを見るか、軍旗を落とした場合はそれに気を配る必要も感情を抱く必要もない。将軍の許可なく軍旗を再び掲げることができるまで、折れたものを掲げたり、他の場所に掲げたりすることはないからだ。歩兵と戦う機会がある際も同じように軍旗を砕くことを試みなければならない。もし敵が退いたら、騎兵の背後で同様にするべきだ。しばしば軍旗が決して砕けないことがあるが、敵の量とその質に対して、槍騎兵中隊の少尉がその軍旗を(前述のように)砕くことが望ましい。
胸甲騎兵の少尉も同じく行軍の際は中隊の先頭を行き、 Plaza de Armasでの謁見も同様に行う。これらは全て槍騎兵少尉と同様に行う。しかし戦闘時は、胸甲騎兵の隊列の中に入り、後方には三分の二の騎兵を残し、前方の三分の一の兵士はより良い鎧を身につけた中隊で最も信頼のおける兵士を置く。
胸甲騎兵の軍旗は、槍騎兵の軍旗との違いが槍か、より短く、先端から後端まで4本の鉄棒を束ねたもので、壊れず、斬られることもないという点のみなので槍騎兵の軍旗とほぼ同じとなる。中央には良質の鉄で作られた輪があり、そこに2インチより長い一本の鎖を通して吊るし、鎖の先には別の輪をつけ、少尉の腰帯に通すか、首の周りの帯に通す。戦闘開始時までは、槍騎兵の軍旗の場合でも、右手の下で槍と同じようにもつことで、兵士が軍旗を見ることができる。これが胸甲騎兵少尉によって良く行われると、同じ方法で手の剣で軍旗を守る。 中隊に少尉がいない場合、軍旗は元少尉(Alférez reformado)か、それを受け取ることを望む、才気ある別の者に託すべきである。
少尉は中隊全ての兵士を記した名簿を持たなければならない。必要に応じて中隊長、または副官が命令を下し、軍旗の護衛に数人の兵士を送るためである。少尉と共にある兵士は礼儀正しく、特に他者と調和するよう務め、もし友愛を築くのが困難であるなら、それを中隊長または副官に報告しなければならない。

第5章 中尉(Tiniente)について

騎兵中隊の中尉は、騎兵として積んだ優れた技術、経験、才能が必要である。このような地位には通常、危機の時に際立たされる、他の兵士と比べても特別な、より優れた兵士が就き、またそうした兵士は騎兵の低い地位から上の地位へ、分隊伍長から少尉へと階級を踏んで昇進していく。中隊長不在時には中尉が中隊を指揮・命令し、その両肩には平時の全ての地位とそれらの重みが乗る。受けた職務全ては、特に槍騎兵中隊と胸甲騎兵中隊(ほとんどの箇所が占められる)経験のない若い騎兵へ行く。副官は兵士に厳しくあたらねばならず、有用なように几帳面に馬の世話をさせ、良く武装させねばならない。中尉は中隊の行軍中に兵士に良い義務を負わせ、軍を抜け出さないために、兵士の隊列の緩みや悪いものを見張り、兵士が隊列を緩ませず、平等に結束して中隊長と軍旗に続けるように常に中隊の後尾で行軍する。
戦闘の際には、中尉はその中隊での職務に専念し、剣を手に、兵士になすべきことを成せるよう務め、また幾らかの、背を向けさせ、逃げ出そうとする弱さの印を見かけた時は、彼はその兵士を他の者への教訓のため殺さなければならない。
しかし中隊長の不在時に、戦闘が起きたり、疑わしい場所を通過する際には、中尉が中隊長の定位置である先頭に立ち、彼の定位置は元士官(oficial reformado)か、他の副官の役目が果たせる信頼でき、才能のある者に残すべきである。
そのような場合を除き、普通の土地を通過する場合や閲兵の場合、港湾に向かう場合など、騎兵中隊が通常の行軍を行う際には、中尉は中隊長と同じような方法で行軍してはならず、中尉の本来の定位置である中隊の後尾に留まる。槍騎兵中隊と胸甲騎兵中隊は常に先頭で中隊を誘導する少尉がいる一方で、火縄銃騎兵中隊ではこれらとは逆に、少尉がいないため、行軍、戦闘、閲兵、またはその他のいかなる場合においてもにも中尉は中隊長の不在時の定位置である中隊先頭正面に配置されければならない。彼の位置である後尾に、中尉の職務のために最良の分隊伍長を2人配置する際に、忘れてはならないのは、中隊の行軍中に高所や山の斜面を通過する際には中隊の先頭から最後尾まで中隊全てが通過するまで時折立ち止まることである。また行軍中にも時折中隊の先頭からもう一方へ行き、兵士が秩序良く揃っており、望ましいく行軍しているか確認することも忘れてはならない。
騎兵中尉は正確に読み書きを知らなければならない。中尉はその名前と彼の中隊の兵士全ての名前が記された名簿を持っており、また彼が名前すら知ることのない上位のものから手紙または書き記しによって指示を受けるからで、その伝達ではそれを理解できるかどうかが大きな影響を与え、また著しい不都合さを生む。
また、彼の兵士個人全てについて、その財産、勇気が十分な状態にあるか良く知っておかなければならない。なぜならある場所に誰かを派遣するときや、ある状況では誰が使えるかを知っておく必要があるからだ。
ある場所で防衛中隊に加わる際、防衛拠点にいる場合は、中隊中尉を進め、保証からの知らせを受け取り、昼も夜も務め、戦いでは剣を手に取り、与えられた指令をこなすこと。 中尉は自身で歩哨のところまで行き、歩哨が必要な精励さを怠っていないか、常に少なくとも胸甲、背甲で武装し、馬勒を持っているか、視察しなければならない。
小村などに中隊を宿泊させる際、中尉は札を中隊の補給官に配り、のちに兵士を上級士官の指示と同時に、兵士を可能な限り満足させる方法で中隊を分けなければならない。この分け方は少尉が宿泊する高い家の前で、各兵士が宿泊する場所を示す札を待たなければならない。これによってどの軍旗の元に加われば良いか知ることができるためである。
中隊がその場所で1日以上休止する時は、中尉は家を訪ね、兵士が快適に過ごしているか確認し、兵士が家の主人に侮辱を働いていないか、1人でも兵士が欠けていないか、注意しなければならないし、また中隊長が立ち去った後に中尉は中隊長から与えられた命令に全ての面で対処する務め、死に至る火災に注意しなければならない。
街や駐屯地となっている場所に宿泊する予定がある時は、中尉はより公的に楽しめる質の高い休息のために全ての家を確認しなければならない。1日以上休止する場合はどんな場所でも中尉は宿泊した先の主人が訴える苦情の為に宿泊した兵士全ての名前と宿泊した場所を記録しなければならない。なぜなら主人と犯罪者の名前を記した名簿があれば、容易に罰することができるからである。行軍中は中尉は隊列の先頭を行き、兵士全員が精勤に勤めているか注意を払い、最悪の者を叱り、もしだらしない行いや他の者を動揺させる行いがあれば、近くの屋内で、他の者への示威のため、著しく厳しい罰を与えなければならない。
中尉は道路や経路、近道について気づきを得られる徒歩での行動に精通している方が良い。情報を得る為、または敵の先導兵を倒す為に幾度も野外に送り出されるからである。敵の貨物を襲う為に中隊を率いるよう命令する際は、中尉は他の者に最も優れた騎兵のうち相当の人数を与えなければならない。騎兵において重要なのは習熟と経験を積み、歩兵の士官のように毎年交代したりしない士官である。歩兵では士官がたびたび交代し、新たな帽子を被るため解隊(reformado)を行なっていたが、陛下の勅令によってその間隔を3カ月未満に削減させられた。しかし、前述の騎兵士官が長い間その地位にいたとしても、受ける栄誉や慈悲に対応する感謝の念とともに、当然の服従の義務による中隊長への敬意が忘れ去られてはならない。また、真に厳しい叱責に値するのは、将軍を支えるべき中隊長の重荷となりうる(拙い技術や経験のために思いあがった)中尉と少尉が中隊長の言動に逆らったり、ほとんどそれに加わったり高慢さである。しかし、それらの高慢は錯覚である。将軍の許可の下、悪い例の種が広がり、下位の者が彼らと手を組まないように彼らを解任する権限は中隊長の手にあり、彼らの特権は中隊長が保持しているからである。

第6章 中隊長(Capitan)について

軍におけるその地位と重要性により、指示や相談、他者との合意などがなくとも、多くの事態を解決し、多くの哨戒を熟慮しながら実行することが避けられない騎兵中隊長の地位は、卓越し、立派な栄誉を持つ兵士のみに与えられる。
騎兵中隊長は用心深く、慎み深く、落ち着いて飲酒し、服装は控えめでなくてはならない。また、良い馬や、ある場合に価値を生む土地について探索せねばならない。
中隊長は彼の兵士たちに良き例となるよう模範的に振る舞い、多くの書類を持ち、良く武装するよう務める。またそれ以上に、義務を正確に果たし、兵士を観察し、貢献させる為に規律を守らせ、悪党となったり、故郷へ脱走させることを許してはならない。軍司令官がこの問題にかける精励さのため、それが促進されている間は、少なくとも究極の義務として不服従を記録する中隊長が、将軍に対してその評判を傷つけることなるような隠蔽をしない限り、ついに不服従を取り除くことができなくなる状態まで達することはあり得ない。
同じく危険で、評価を落とし、容易に中隊長を陥れる可能性があるものとして知られているのが、その遊びを断つか、台を離れる方法をしらない彼を打ち負かし、屈辱を強いるのが賭博である。
また、貴族の胸の寛大さのため、強欲に踏み入ることも蓄財への飢えに陥ることもない、勇敢かつ貴族の生まれの全ての中隊長はその心の扉を財産の領域や貯蓄の望みに対して開くべきでない。これは卓越した兵士の服を着た敵対的な蛾と、名声に大きな汚点を残す行為への注意である。私は事実として断言できるが、強欲な暴政とそれが引き起こしたその地位に全く値しない事件と、それらの事件から短時間で彼ら自身の職と長期にわたる名声を失い、嘲笑の的となった幾らかの中隊長を知っている。いかなる疑いもなく、適した方法で統治する中隊長たちは、尊敬を集める否の打ち所のない人生が知られているため見本として彼らの士官と兵士に模倣されるが、もし中隊長がその人生を汚点と罪に売るなら、士官も兵士も中隊長を尊敬せず、彼に従わないという逆の事も起こりうるのは明白である。中隊長は上位者からの命令に対して、それがいかに危険で、または大きなものでも、あるいはその他のいかなるものでも不機嫌なところを見せるべきではない。意見を尋ねられた場合に、中隊長がその見解を述べる必要があるのは事実だが、その場合はそれらは実行しなければならないものであるから、その困難さに気づかれたり、勇気を失ったり、命令に反抗しないよう慎重に、注意して伝える事が中隊長には必要である。
あらゆる状況下で、常に馬に騎乗する事幾らかの人は評価する不名誉な習慣で、彼らは中隊の中で一緒に行くことを望む。50人か100人以上の兵士がいる大きな中隊ではこれを癒す術がないことについてしばしば不平が言われる。
だんだんと育つ敵意は評判を傷つけ、多くの苦労と危険と共に中隊長になったものが眠ったようになり、生命をより危険に晒す行為や、栄誉ある行いを全くしなくなり、栄誉ある男がいかなる時にも常に行う事柄に虫食い穴を残すだけとなる。このため、中隊長は自らの地位に満足したり、落ち着いたりしてはならず、美徳のある方法と手段を通して常に高い地位を渇望し、敵を不安にさせ、傷つけるその奉仕を凌駕することを試みることに心を砕き続けなければならない。この目的のため、しばしば自らの中隊や他の中隊のより経験のある兵士に相談し、あるいは(より誠実で栄誉ある、経験深い)1人か2人の兵士を相談役とする事が大きな利点を生む。
中隊長は兵士に指令を出す時に兵士を異なった名前で呼べるようにするため、兵士全ての名前を覚えるよう努めなければならない。中隊長が兵士の名前を知らないと、兵士の心に反感と憎悪を引き起こすからである。また、兵士は中隊長の行動に完全にのしかかっており、このため、中隊長はどのような状況でも窮地に陥ったように見えるため、動揺したり、何らかの兆候を見せたり、当惑したりしてはいけない。大胆な姿勢と勇敢な心を示し、混乱なく指令を与えなければならない。助言もないまま混乱したり、恐れで心を満たしている者には成功はないからである。
勇敢で大胆な兵士を知り、その兵士に報い、彼らに必要な助けを与えれば、多くの勝利を得る事ができるだろう。
それどころか、中隊から小心者や臆病者を追い出し、これらの利点や相違点が軍隊に大きな利益を与えるだろう。また中隊長は主に辺境での任務に備えてその中隊に土地や道路について話し合う幾らかの兵士を持つよう試みるべきである。常に信頼できるわけではない農民を使わずとも自らの中隊に案内を持てるからである。これらの案内役となる兵士は上手くやれば例外的な給与を受け取れるだろう。
中隊長が将軍とその士官の承認を受けるために中尉と少尉を兵士から選ぶ時は、感情を交える事なく各々の利点と奉仕のみを秤に掛けることで、兵士達を奉仕に向かわせるこれらの好餌で大いに勇気付け、また満足させる事ができる。
この章を終える前に、少しの間騎兵中隊長たちの間に見られる兵士への指令と指揮に関する事柄について述べたい。それらの鼻水を垂らしたいかなる経験も持たない中隊長たちが等しく持つ、誰に最初に従うかも学ばず他の中隊に指示を出す危険性も考慮せず他の中隊のその地位にある兵士を指揮しようとする厚かましさ、好ましくない事象が起きた時の責任は部隊を率いる士官にあり、その士官に経験が欠けているためならば、それは許されない事であるという事を自覚できない自惚れは罵倒と不名誉に値するように思われる。
ところで、私が思うに一つの行為から他の行為へと男に経験を積ませ、いかなる状況にも熟練させるという第一に優先される事柄について考えると、これを、その利益のため、また栄誉のために重要な兵士の専門性と軍事規律を完全に理解することに注意を払い、学ぶ者が極めて少ないに理由がないことではない。それどころか、現在は最初に兵士ではなく中隊長になることを望み、さらに悪いことに寵愛やおそらくその他の間接的な金などの手段でその地位についた後も、彼に助言することのできる経験のある兵士を気にかけず、不注意にも気づかず、不服従や不便に言い訳をする多くの若者を見出す事ができる。兵士が地位につくと、理性や判断力と同じくらいに身体の力を使う必要はないことは確かであり、彼が他の者に従っていた間に熟慮と共に蓄えられた豊富な経験を使う方法を知らなければならない。軍事という義務を果たすべき場所で正当な評価として名声を得て士官となるには、少しづつ、低い階級から多くの責任と注意が伴う高い階級へと一つずつ昇進していく事がより確実である。軍隊のほとんどの領域では、他の職業のように、失敗に対処することも誤った指示を送ることもできないのである。
兵士の指揮は、騎兵中隊の中で最も古参の中隊長が好まれるが、より古参の先任中隊長を優先させるのではなく、指揮に必要な考慮と良識を備え、中隊長の中で最も大権を持つ槍騎兵中隊の中隊長に委ねられている。これは戦時に5〜6年継続して働いている中隊長が、10年前に中隊長に任命されたが、短い期間務めたのみで改組され、その後再び昇進した他の者よりもより優れた技術と兵士の指揮能力を持つことから確かめられている。槍騎兵中隊長が不在時には、胸甲騎兵中隊長たちが、それらの胸甲騎兵中隊長がいない場合には火縄銃騎兵中隊長たちが同じ方法で指揮する。

*1:特に第6章

Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』読書感想文

はじめに

1568年頃にスペイン軍軍人Sancho de Londoñoによって書かれた『Discurso sobre la forma de reducir la Disciplina Militar a mejor y antiguo estado』をある程度読んだので感想文を書く。

本当はテーマ3つくらい決めて感想文書こうと思っていたが、1つ目のテーマの銃兵比率が長すぎて残り2つ書くの諦めた。

著者来歴

こちらの論文によると、著者であるSancho de Londoñoは1515年頃に貴族の長男として生まれ、1542年に槍兵としてスペイン軍に加わった。 なお貴族が歩兵として軍隊に入るのは当時としては珍しいことではない。
その後主にイタリア戦争に伴ってヨーロッパ中を転戦しながら順調に軍人としてのキャリアを積み、連隊長となってオランダの反乱を鎮圧しに行くが、1568年に当地であっさり病死する、という生涯を送ったらしい。
その最晩年に執筆されたのが『古き良き規律への対話』である。

『古き良き規律への対話』は高級指揮官向けに書かれた本であり、いわゆる武器を扱うマニュアル的なものではなく、軍の規律や指揮官の特性、士官の役割などを扱い、古代ローマ軍をモデルに軍の改革を訴える内容となっている。
Londoñoのキャリアは当時の指揮官としてはかなり模範的で、いわゆるschool of albaの典型的な卒業生という感じがするが、本書の内容も指揮官の経験と知識の重視などにその傾向が見出せる。
それだけに著書もいろいろ興味深い点があったが、今回は槍兵と銃兵の比率というテーマのみに絞った。

誤訳等多々あると思うので、気づいたかたはそれとなくご一報ください。




銃兵比率

16世紀後半の西ヨーロッパの歩兵部隊は槍兵と銃兵*1で構成されており、この時代の特色の一つとなっている。

槍兵に対する銃兵の比率は16世紀軍事史の文脈では普遍的なテーマになっており、基本的には歩兵の中で銃兵の割合が高いほど『先進的』とみなされる傾向にある。 これは大まかに見ると銃兵の割合が16世紀を通して上昇し続けていることと、20世紀を席巻したマイケル・ロバーツ軍事革命*2が銃兵の比率上昇に注目したため、銃兵比率が高い=より軍事革命に適合的=より近代的、みたいな理解になったことが原因と思われる。

(完全に余談だが、銃兵比率が高いほど先進的とみなす傾向は、軍事革命論の支持者だけでなく、その批判者にも共通して見られる気がしてならない。)

『Discurso』の銃兵比率に触れる前に、簡単に16世紀後半のスペイン軍の銃兵比率がどの程度だと捉えられていたか、ジェフリー・パーカーの研究を元に簡単に紹介する。



パーカーによる銃兵比率

21世紀以前の近世スペイン軍事史研究、特に80年戦争研究はジョフリー・パーカーの影響力が極めて大きい。パーカーはロバーツのオランダ軍・スウェーデン軍を中心とする軍事革命論を批判し、イタリア築城術を中心とした新たな軍事革命論を提唱したことで(不幸にも*3)有名になり、その著作は一部が邦訳されている*4

パーカーの初期の研究対象はスペインが80年戦争でオランダと戦うために低地地方に派遣した軍隊、いわゆるフランドル派遣軍であり、『Discurso』執筆時点ではLondoñoも一応このフランドル派遣軍に加わっていた。

パーカーのフランドル派遣軍研究の集大成とも言える著作『The Army of Flanders and the Spanish Road 1567–1659: The Logistics of Spanish Victory and Defeat in the Low Countries' Wars 』*5ではフランドルに派遣された各テルシオ*6の1571年当時の詳しい部隊構成が一次史料である兵員簿を元に記載されており、この部隊構成データを元に1571年時点のスペイン軍の銃兵比率を導き出すと以下の通りになる。

ルシオ 銃兵中隊 アルケブス銃*7 マスケット銃 槍兵 士官 銃兵:槍兵
Naples 3 456 281 1768 171 1:2.4
Sicily 3 543 165 835 99 1:1.18
Lombardy 2 345 150 1003 90 1:2.0
Flanders 1 161 0 1352 90 1:8.4
合計 9 1505 596 4958 450 1:2.4

*8


この図からは槍兵に対する銃兵の割合が平均すると1:2.4となることがわかる。
銃兵1人に対し槍兵が2.4人いるということである。

またパーカーは1567年のスペイン・フランドル派遣軍の中隊は

理論上250名からなり、11名の士官、20名のマスケット銃兵、219名の槍兵か、もしくは11名の士官、15名のマスケット銃兵、224名のアルケブス銃兵で構成されている』 *9

としている。 パーカーは理論上槍兵中隊10個に対し銃兵中隊が2個の割合で存在していたとしているので、2190名の槍兵に対し、230名のマスケット銃兵と448名のアルケブス銃兵が存在することになる。ここで銃兵対槍兵の比率は1:3.2となる。

パーカーは1570年前後のスペイン軍歩兵部隊の銃兵の割合は士官を含めた全体の人数に対し、概ね30%程度としており、1600年頃に50%程度になったとしている。 パーカー以後の軍事史研究者も一部の例外を除いて基本的にこの部隊構成を前提に議論を進めていた。



『Discurso』の銃兵比率

では『Discurso』の中で銃兵比率がどうなっているかというと、非常に興味深い記述となっている。 以下が該当箇所。

多くの障害を回避するため───避けられないものもあるが───1600人の槍兵が必要であり、また分遣隊(mangas)とそれらの守備には1400人のアルケブス兵とマスケット兵が充分である。 *10

ここではテルシオ1個の理想的な編成(全体で3000人)に対し、1600人を槍兵、1400人を銃兵としている。士官の人数は考慮されていないものの、銃兵:槍兵=1:1.4という比率はパーカーの主張よりはるかに銃兵の割合が高い。 パーカーのデータのうち『Discurso』の銃兵比率と近いのはテルシオ・デ・シシリーのみである。


パーカーは当時の兵員簿をもとに各テルシオの構成を算出しているが、これは戦力の算定だけではなく、兵士の給与計算にも使われる為、それなりに信頼性が高いと思われる。

にも関わらず、両者の間には明確なずれが生じてしまっている。

以下ではこの点について考察したい。



考察

『Discurso』の記述とパーカーのデータに見える銃兵比率のずれについては2通りの仮説が考えられる。

1. 『Discurso』の記述はあくまでも理想的な値であり、実際の値を反映していない。実際の銃兵比率はパーカーのデータが正しい。

2. パーカーのデータはなんらかの理由で誤っており、実際の値を反映していない。実際の銃兵比率は『Discurso』の値が正しい。


まず1について考察したい。

仮説1の検証

仮説1が正しく、『Discurso』の記述が現実の値を反映していない理想値で、実際にはもっと低い値であったとするなら、同時代のスペイン以外の軍隊の銃兵比率は(厳密には国ごとの差異を考慮する必要があるが)『Discurso』よりパーカーの値により近くなることが考えられる。

では当時低地地方でスペイン軍と戦っていたオランダ軍の銃兵比率はどうだったのか。


オスプレイ本の『Dutch Armies of the 80 Years’ War 1568–1648 (1): Infantry』によると、

衝突が始まった当初(80年戦争最序盤、1560年代末を指す)は、(各中隊は)400人の人員で構成されていたと考えられており、そのうち200人は銃で武装し、150人は槍で、50人はハルバードまたは両手剣で武装していた。
ドイツ人部隊の多くは3分の1のみが銃で武装していた。ワロン人中隊はわずか200人程度で構成されており、ユグノー教徒の中隊はさらに少なく150人程度で、しばしば銃器のみに頼っていた。 *11

とされている。


当時反乱軍を率いていたナッサウ伯は『しばしば銃兵のみに頼る』ユグノー教徒の部隊を絶賛していたが、1570年代中盤頃より徐々にその銃兵比率を減らしていったようだ。

そしてオランダ軍は1580年の規則で150人の中隊は

65人の銃兵、12人のマスケット兵、45人の槍兵、6人のハルバード兵、6人のソードアンドバックラー兵、3人の士官とそれらに仕える3人の従者

で構成するとしている。


全軍の数字こそないものの、オランダ軍の銃兵比率は一貫してパーカーどころか『Discurso』のものよりも高いように見える。
従って、オランダ軍との比較から『Discurso』の記述が誤っているとは言えない。

実はドイツ傭兵、いわゆるランツクネヒトもオランダ軍と同様、銃兵比率が高いとされており*12、他国の軍隊と比較すると『Discurso』の記述はむしろ正確な気がしてくる。


ではLondoño以外のスペイン軍人はどう考えていたのか。
『Discurso』の18年後、1586年に執筆されたと考えられるMartin de Eguiluz著『Milicia, discurso, y regla militar, del capitan』には41900名という膨大な人数からなる仮想的なesuquadron*13の構成が記されている。

アルケブス銃兵 マスケット銃 装甲槍兵 Pica Seca*14 銃兵:槍兵 合計
スペイン人 6000 1500 5000 7000 1:1.6 19500
イタリア人 3800 200 4000 4000 1:2 12000
ドイツ人 4800 200 4000 1400 1:1.1 10400
合計 14600 1900 13000 12400 1:1.5 41900

*15
このesuquadronは現実に存在したものではないため、あくまで想像上にしか存在しないが、Eguiluz個人の考えを知ることができる。 全体の銃兵比率は1:1.5であり、『Discurso』の1:1.4という値にかなり近い。


結論として、オランダ軍やランツクネヒトの部隊、同時代のスペイン軍軍人の著書から判断できる銃兵比率は『Discurso』の記述の反証となるものではなく、仮説1を肯定することは難しい。



仮説2の検証

仮説2が正しいとするならば、パーカーのデータが誤っているという指摘がされていても良いはずである。
前述のように21世紀以前は16世紀スペイン軍事史研究の中でもパーカーの影響が大きかったが、21世紀に入ると複数の有力な研究者が現れるようになる。

ではそのような研究者たちはパーカーの提示した銃兵比率に対し、どのような見解を持っているか。

フランドル派遣軍の人事面に着目した研究で知られるFernando González de Leónは、パーカーの研究のうち人事面についてはその不十分さを指摘しているものの*16、銃兵比率についてはむしろ肯定的である*17

一方、フランドル派遣軍アイルランド人部隊やアンブロージオ・スピノラの遠征に対する実証的な研究で知られるEduardo de Mesaは、パーカーの提示した1567年当時のフランドル派遣軍の中隊の構成に対し、以下のような批判を投げかけている。

しかし、彼(パーカーを指す)が引用した史料にはアルケブス銃兵の数が与えられていないが、これはその中隊にアルケブス銃兵が存在しなかったことを意味しているのではない。 1598年の勅令では250名の槍兵中隊のうち、130名を槍兵とし、100名をアルケブス銃兵、20名をマスケット銃兵とすることを要求している。銃兵中隊はアルケブス銃兵とマスケット銃兵のみで構成するとしているが、この勅令ではその人数を特定していない。

この批判でMesaは1598年の勅令を根拠に、パーカーの提示する1567年の銃兵:槍兵の構成比の誤りを指摘している。実際には槍兵中隊の中にも多くの銃兵が存在したと主張しているのである。
実は『Discurso』でも同様の見解が示唆されている。 前述した引用文の直後には以下の文章が続く。

これら必要な兵士が与えられるのは数回しかなく、多くの場合ではアルケブス兵はパイク兵よりも役立つと言われるが、それはそうだが、それらが揃えられた一度きりの場合に備えて常に準備し、またもし限界がなければ、弾を撃つアルケブス兵になりたがらない兵士はいないが、その必要性についてよく考えることが望ましい。

*18


ルシオが制定されたイタリアでは平地よりも林と堀が多く、整理され、12個の中隊が良い状態で1個のテルシオを編成していた。中隊のうち2個はアルケブス兵の中隊で、彼らは他の部隊のように1トストンの利益を受け取っていた。それで充分だったからである。アルケブス兵に3エスクード以上の利益を与えることは上に挙げたような理由のため許可されていなかった。遠征中はより制約されておらず、アルケブス兵の数が多すぎたためである。アルケブス兵を守り、戦隊の力となるパイク兵は欠乏しており、良いアルケブス兵に必要な物資を集められる3エスクード以上を受け取る兵士がいない上に、物資を集めることを許された者は仕えることをやめて近くの者を殺したので中隊長が許可を出すまで物資を集めることを禁止された。それが利益を与えることの代わりとなったが、特にアルケブス中隊において、これらの処理には十分な注意が必要だった。許可を得られない兵士はより許可が得られそうで、特に平時や休戦時には仕事がほとんどないパイク兵中隊へ移る目論見を抱いた。これら全てのために、アルケブス兵はよりスキルの高い者達から選ばれるべきであり、中隊長も同様である。戦争は多くの出来事が起こり、それらがこれらのアルケブス兵のなかに見出されるからである。彼らはそれぞれが必要に応じて、与えられる利益と土地が許す必需品に見合うよう指導されるべきである。

*19


以上の文章からは、兵士はアルケブス銃兵になりたがる傾向にあったこと、中隊のうち2個は銃兵中隊とされていたが、遠征中はアルケブス銃兵の人数に対する制約が弱まり、多くの兵士がアルケブス銃兵となったこと、アルケブス銃兵は槍兵中隊へ異動する傾向にあったことがわかる。

つまり当時のスペイン軍は銃兵比率が自然と高まり、かつ槍兵中隊中に銃兵の数が増えていく傾向にあったと言える。


Mesaの批判と『Discurso』の記述を合わせて考えると、パーカーが提示した1571年のデータのうち、槍兵とされているものは実は銃兵であった可能性がある。


近世期の軍隊の規模を議論する中で、いわゆるpaper company、つまり書類上のみに存在する軍隊に関する議論があるが、パーカーの提示したデータもそうしたpaper companyの一種で、実際には銃兵なのに槍兵として数えられてしまったか、槍兵の水増しが行われていたのではないだろうか。
この場合兵士の給与面が問題となるが、1570年代は給与の遅配から叛乱が続発しており、むしろ申告上の給与を低く抑えるか、実際以上の兵士がいるように見せかけることで差額を着服する意思が士官クラスに存在した可能性が考えられる。 スペイン軍もこうした問題を認識しており、1570年代からは査察官を導入しているが、1571年時点ではまだ対処しきれていなかった可能性がある。

以上のことから、仮説2は仮説1とは逆に、否定することが難しいと言える。



結論


本稿では『Discurso sobre la forma de reducir la Disciplina Militar a mejor y antiguo estado』の中から銃兵比率についての記述に着目し、主にジョフリー・パーカーの記述と比較し、どちらがより正しい記述かという点について考察した。
その結果、『Discurso』の方が同時代の他国の軍隊の銃兵比率やスペイン人の思想に近いこと、パーカーの提示したデータは同時代の誤謬の可能性があることから、『Discurso』の記述がより正しいとした。
つまりスペイン軍の歩兵部隊では1570年代までに銃兵と槍兵の比率が1:1に近づいていた、ということになる。

またいわゆる軍事革命論では銃兵比率の上昇が軍事革命論に適合的とされることが多いが、本稿では銃兵比率は士官クラスが意図しなくても個々の兵士の意図により自然と上昇することを指摘した。
特に1570年代のオランダ軍の一部の部隊で見られる銃兵比率の減少や、Eguiluzの提示する部隊ごとに異なる銃兵比率などは軍事革命論では説明が難しい為、これまでの銃兵の割合が高い=より進んでいる、みたいな説明とは異なる説明が必要な気がする。

次はフランドル派遣軍で騎兵副総監やってたLudovico Melzoあたりの私訳やりたい。騎兵と向き合うぞ。


*1:16世紀後半ではアルケブスと呼ばれる比較的軽量の銃とマスケットと呼ばれる比較的大型の銃の二種類の銃が存在していた

*2:戦術などの軍事革新が近代国家を誕生させたとする説。一時期は流行ったが、最近は反証が出揃い、肯定的に言及されることがほぼなくなった

*3:パーカーの軍事革命論はあらゆる方面から攻撃されている。ぶっちゃけガバガバだから仕方ないといえば仕方ないが…

*4:長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年, 同文舘出版

*5:興味深いことに、パーカーは参照文献の一つとしてLondoñoを挙げている

*6:歴史学的には複数の中隊をまとめて管理する組織。現代では連隊にあたる。方陣・陣形とする場合もあるが、20世紀中盤に突如として現れた由来不明の用法である

*7:たぶんアーキビューズとかアルケビューズみたいな発音の方が正しい気がするが、面倒なのでアルケブス銃とする。火縄銃銃みたいな呼称だが深く考えないことにする

*8:The Army of Flanders and the Spanish Road 2nd Edition, p235より作成

*9:Army of Flanders, p233

*10:原文:Para excusar tanto impedimento, que es inexcusable, son necesarios 1600 piqueros, como está dicho, y para mangas y guarnición de ellos, bastan los 1.400 arcabuceros, y mosqueteros.

*11:Dutch Armies of the 80 Years’ War 1568–1648 (1): Infantry, p21

*12:Business of War, p54

*13:野戦において複数の中隊から構成される臨時の部隊。

*14:鎧をつけない槍兵のこと。若年兵を指す

*15:https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.31822038210308&view=1up&seq=119

*16:The Road to Rocroi, p11

*17:Spanish Military Power and the Military Revolution,『Early Modern Military History, 1450-1815』, p33

*18:原文:Dirá alguno, que tal necesidad se puede ofreger pocas veces, y muchas el ser más útiles arcabuceros que piqueros, es así, mas para una sóla vez que pueda acaecer, conviene estar siempre apercibidos, y si no se pusiese límite, no habría soldado que no quisiese ser arcabucero por andar descargado, considerando bien ésto, y las necesidades que pueden ocurrir.

*19:原文:Después considerando que en Italia, donde se instituyeron, y ordinariamente residían los tercios, hay más arboledas y fosos que llanuras, ordenaron, que de doce compañías que a la sazón formaban un tercio, las dos fuesen de arcabuceros, y se les diese la ventaja, y el tostón, como a los demás, y pareciéndoles que allí bastaba la dicha arcabucería, no permitían que soldado de tres escudos, sirviese con arcabuz, ni ahora se debe permitir por las causas dichas, y porque muchas veces se va donde hay campañas más desembarazadas, y en ellas sobran arcabuceros, y faltan picas, que son el reparo de ellos, y la fuerza de los escuadrones, además de que ningún soldado de tres escudos, puede traer el recaudo necesario a buen arcabucero, y permitirle traerlo, es permitir que no sirva sino de matar al que más cerca de él se halla, cuando alcanza para poder tirar algún tiro, así que no sólo se les debería permitir tomarlos, sin que los capitanes se los diesen, cuando se hubiesen de subrogar en plazas de los arcabuceros aventajados, mas deberíase tener grandísimo cuidado al hacer la tal subrogación, especialmente en las compañías de arcabuceros, a las cuales acuden todos los que en las de piqueros no pueden haber ventajas, haciendo cuenta que allí se las darán, y tendrán menos trabajo, especialmente en tiempo de paz, o tregua, que casi ninguno tienen, si no hace guardia de noche: por eso todos los soldados de ellas habían de ser arcabuceros escogidos entre los más diestros, y los Capitanes de ellos lo deberían ser: porque en la guerra se ofrecen muchas ocasiones, en las cuales hallándose con los arcabuceros, a todos, y a cada uno de ellos deben guiar según las necesidades, valiéndose de todas las ventajas, y comodidades que el terreno les permitiere.

【試抄訳】Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』③

ローマの野戦陣地

古代人、特にローマ人は、敵に一晩も包囲されなかったとしても、その軍勢を幅5フィート、深さ3フィートの塹壕を掘り、内側に掘り出した土を積み上げ、その内側に兵士を置いた。 しかし、塹壕を掘るための時間が余っているような場合は、少なくとも9フィートの深さと17フィートの幅を持つ壕を掘り、掘り出した土を積み上げ、大型の飛び道具をその土の上に配置できるようにした。 このような要塞化を施すためには、各中隊または百人隊(centuria)は、塹壕内で各兵士を10フィートごとに配置し、各自の武器を軍旗の下に集め、各自の仕事が終わるまで、帯剣のみでいさせた。 要塞化の仕事は敵が突然攻めてこない限り続くため、全ての騎兵と一部の特権と階級を持つ歩兵は、労働を免除され、仕事をしている者達の前で戦隊を組んでいた。

歩哨

歩兵の守備兵は塹壕内または防備を固めた場所に配置され、歩哨として、他の者がすることを見張り、少なくとも3時間は可能な限りあちこち動かずにいること。居眠りや疲れたために座り込んでしまったり、敵の侵入を許してしまうなどの失敗のため、全ての兵士が歩哨となれるわけではない。 時にはより信頼できる兵士もこのような失敗をするため、歩哨は信頼性が低い。従って、そのような重大な失敗を防ぐため、上級軍曹とそれより下の階級の者は、巡視を行い、常に全ての歩哨を確認しなければならない。 騎兵の守備兵と騎兵の歩哨は、要塞と塹壕の外で、敵が野営地を見られることなく通過することがないように配置されねばならない。 軍の食物を安全に、より労力をかけずに運用するため、城塞やその用途に向いた場所には守備兵を配置し、それら(食物を輸送する部隊)が野営地から出発する時には、敵に奪われないようにするため、護衛をつけなければならない。

指揮官と助言者

整列した戦隊が野原で戦う場合は、敵が勝利した場合には敵はその望みよりも多くのものを得ることができるため、また味方がその敗北から回復することが困難なために、特に防御とお互いに守り合う力について、勝敗が分かれる前に可能な限りあらゆる方法全てを試さなければならない。しかし必要とされた場合や追い込まれた場合は、以下を考慮することが特に重要である。

敵の数と質、武装、互いの技量、戦いの経験が多いか少ないか、友軍を信頼しているか、または友軍と敵対しているか、味方の武装、士気、耐久力、天候、日付、1日のどの時刻か、地域と土地、各戦隊の陣形、戦隊の数、それらを構成するものの国籍または歩兵の配置、騎兵は敵に対してより凶暴で壮健か。 補給と砲兵は攻撃に充分か、戦いを始める時と戦いの最中にそれらが攻撃された時、または敵を攻撃する時にいちいち再集結させたり混乱したりする危険がない方法を考慮しているか。

上記の事柄について、まだ言える事柄や状況は無数にあるが、より良い機会のために簡潔に述べた。

しかしそれら全てとその他の守らなければならない事柄について、大将軍(Generalísimo)は知識と豊富な経験を持たなければならない。 なぜなら、もし指揮を上手く取ることができなければ、その指揮に従うものはその後に続く失敗を修正する術を持たず、戦いはすぐにその罰を下し、数倍もの命と名誉が失われ、王と王国の軍隊の破滅が続くからである。 将軍は下位の大臣たち(ministros)や、助言することが認められた重要な個人たちのうち必要な賛同を得られれば、大いに助けを得ることができ、また内密に何度も勝利のために進言している中隊長または兵士の話を聞き、理解することも、大臣たちを傷つけることにはならない。

二つの目は一つの目よりも多くを見、人の記憶は脆く、自分が知っているはずのことも思い出せなくなると言われているのである。

ローマ軍にはレギオンの指揮官や歩兵、騎兵に対する法令の他に、その他の執務のために長官(prefectos)と指揮官がおり、特に各執政官は、指揮や指令を出さず、指揮官の助言者となり、執政官不在の場合にその軍を指揮し、全軍から執政官と同様に扱われる軍団長(legado)を持っていた。

ローマ軍に存在した長官や指揮官、野営官(Metatores)の地位は、現在では将軍(generales)と呼ばれる連隊長が占めており、彼らが軍を配置し、野営地を強化し、塹壕を作るために野営地の境界を見回る。これらの仕事には前述した多くの勤勉さ、知恵、経験が必要とされる。なぜなら軍事学と軍事規律の中で、野営地を設立することほど難しいものは僅かか、あるいは全くないからである。

また、幾度もわずかな時間しか野営地について考慮する時間がない事態に陥るため、その他の補給将校や野営官には、連隊長を助けるため、より勤勉になり、知識を深め、経験を積み、連隊長が求める時はいつでも会い、短期的な野営地を設営し、またそれらを行うお互いの健康も重要であることを助言できる。

軍には衛生担当者がおらねばならない理由があり、それは主に健康のために良い空気、水のことを知らなければならないためである。

野営地を設営し、入り口と出口、閲兵場、補給と日用物資の為の場、守備兵と歩兵および騎兵の歩哨が配置される場所を整備した後に、連隊長は必要な人数の兵士を食料や飼料の指導役として任命し、また他の仕事をテルシオと連隊、歩兵と騎兵に公平に分配しなければならない。

連隊長の権限と新役職の提案

前述の野営官、または連隊長の役割は公式には制限されていたが、ここ(ネーデルラント)で我々が数年を過ごすうちに、将軍として軍を統治する権限を残したまま、軍団長の権限の一部を受け継ぎ、また現場で目撃した者によると、市民や各国民からなるテルシオ、歩兵と騎兵の連隊同士で起きた裁判を裁くことも、彼自身もまた将軍と呼ばれる、大将軍の顧問である監察官への上訴によって許されている。

この裁判権は大将軍が持つもので、請願により拡大されるべきではない。なぜなら兵士が受ける通常の裁判は、職務に応じて、または当事者の要求によって、訴えを受けた判事全てによって下された命令に従い、その不当性を訴えねばならない為だが、将軍または大将軍の委任を受けた使節団に訴える上訴では、特に刑事事件の場合で、職務に応じず、必要な制限を回避するために管轄権を拡大しようとするからである

(将来設立される)要塞長官(prefecto castrorum)とも呼ばれる監察将軍(Metator General)は、現在の砲兵将軍がそうしているように、必ず全ての武装、装備、それらの道具に関する文書を持つだろう。この将軍はあらゆるところで働き、簡潔な許しよりも多くの物事を言うだろうから、素晴らしい知識と勤勉さを持ち、経験深く寛容でなければならない。彼の元に配置される部下も、多くの軍や社会の中にある、将軍だけがその置かれている状況や運用を理解すべきとは限らないような、より危険な、また軽く、あるいはより退屈な作業の準備と指揮、処理を行うために配置される部下も、将軍と同様の資質を必要だろう。その仕事の一部は攻撃しなければならない要塞との距離や間隔を調べることだが、それらは大将軍の決定や執行に従い、また砲兵将軍に属するものすべてである。

補給及び弁務将軍たち(los proveedores y comisarios generales)は食物の供給と維持について指令や視察なしでも十分に知らなければならない。 給与士官(oficiales del sueldo)は、国王の資金を分配する職務のため、志願したものの中から忠実で知性があり、勤勉なものが就く。彼はそこで手間のかかる場合は助手とともに、給与を浪費するだろう者たちの質について習熟し、また熟知しなけれならない。各兵士の武器は中隊長への配備を通すことが義務付けられている。なぜなら中隊長は兵士を受け取るとその武装を評価しなければならず、先任給与士官(oficiales princlpales del sueldo)はそれらが満足なものであればそれを承認し、武器を据えなければならないが、もし受領したものが満足でないなら、いかなる騎士や軽騎兵もその給与を浪費してはならずとする勅令のために受け取ってはならないからである。

監査と宿舎の将軍(Auditores y Barracheles Generales)は拡張とその士官たちをどう演習すべきかについてよく理解しなければならない。

もちろん、前述した全ての議論は、より良い国家の力を削ぐものというわけではなく、一般大衆がいうように、必要な変更を加え、騎乗の人々(高位の貴族など)に理解され、援助者や先導者はローマ軍団的で、手間のかかる法と勅令による軍隊を経験しなければならず、それはいくつかの法令を制定させることに繋がり、そしてその遵守は特定の兵士と私兵に、不服従を起こさせなくするだろう。

神について

軍事に関わる事柄が身体の力より生み出されるのか、精神の善から生み出されるのかという古代に行われた大議論は、物事を始める前に参照する必要があることが明白になりつつあり、またその議論の参照を終えた後は直ちに戦争で精神の善と肉体の義務を用い、しかしローマ人が防勢にせよ攻勢にせよ、その戦争を始める時には、双方に属する事柄が必要とされ、かつそれらは神の恩恵であった。 偽りの虚しい神に対し義務を負う罪深い軍勢に対し、彼らが神の恩寵なく、勝利する見込みのない場合に、全くスパイを送らないということがありうるだろうか? 真の神によって在るキリスト教徒は、神の恩寵がなければ良い出来事も、他者に強いる力も、争う力を持つ人を得ることもありえないが、どうするべきなのだろうか?

軍事を生業とする者は、軍隊の魂のような大将軍や、中隊の魂と同じく、大いに神の助けを必要としている。 そして、大臣職にある者は、高位の者も低位の者も、大いに神を愛し、また恐れなければならず、兵士にも同様にさせるべきである。

ゴメス・マンリケ(Gómez Manrique)は、最も明白な回顧録の中でイザベラ女王に対しこう言っている。

故にあなたは讃えよう、 聖職者や教会を。 我々に模範を示し、 悪例は退けよ。 王は我らの模範、 身分、美徳、情熱の 守護となりて、 彼らが過てば 我らも誤る

マンリケが言わんとするのは、皆が上位の者の行いを見ており、多くの者が眼に映る行いを模範とすることができるということであり、またかのカルタゴハンニバル(Anibal Cartaginense)がアルプスからピエドモンテの平野に下り、monañesesとの戦いで示したことである。 もし上位の者が神の名を虚しくする行いによって背信し、冒涜的になった場合に、彼の下につく者たちも同じようにするだろう。 もし上位の者が故郷に悪い友を持ち、それを公にしようとした下位の者を叱責する場合、それは神への侮辱であることに加え、幾千の反乱を引き起こし、彼らに給与を払う王への義務から気を散らさせ、ただ給与を浪費するだけになり、敵から奪い取れる物を仲間から盗むようになるだろう もし上位の者がその給与に満足せず、思慮深さもないなら、公に同胞を侮辱し、彼の下につく者たちも同じようにするだろう。 つまり上位の者がキリスト教徒の職務を果たさず、神への愛も恐れもなく、隣人を侮辱するならば、下位の者が好き放題にするのも驚きではなく、訓練と従順を定める勅令や法令からそれてしまうだろう。

結論

スペイン人は生命よりも名誉を好み、死よりも不名誉を恐れる。自らの意思で武器を取り、その腕前と技術を磨く。彼らは外の危険と同じくらい内に危険を秘めており、従順であることを知り、指令と地位を守り、陸と海で無敵であるのに必要な事柄を知っているだろう。

以上の事柄を考えると、容易に見える兵法でも、もし学ぶことをやめたら、ラケダイモニオス(Lacedemonios)やのちのローマの様に忘却してしまい、他の軍事に関わる術も学ぶのが難しくなり、とても簡単に忘れてしまう。それらを完全に忘れてしまう前に、神が国の父たらしめ、常にその守護者である陛下に必要なものを奏上するのが望ましい。 カト(Catón)は執政官であり、ローマ軍の並外れた指揮官で、彼の共和国の軍事規律の優越を信じていたが、その著書を残した。なぜなら、戦争を支配する事柄と戦場での強さは長く続かないからである。しかし共和国を益するよう書き残されたものはより長く残り、良い軍事規律に仕向けるからだけでなく、書く方に向かわせるからである。 もし長い平和や、教師を無視することで、いつの日か完全に、あるいは部分的に忘れ去られてしまったら、図書館を訪ね廻って、多くの皇帝が書き残した軍事に復元できるものを探し、多くの皇帝の手記や書き取らせた指示を復元することになるだろう。同じく、カトが、フロンティヌス(Frontinio)が、ウェゲティウスが、アイリアノス(Eliano)が、ヴァルトゥリオ(Valturio)が、または現在は多くが散逸している経験や、その他無数の者による概説や著作は、文字が読める兵士に学ばせ、他の兵士はその耳で良い軍事規律を聞くだろう。 昨年の1月11日以来、陛下の指示でこれを書くことを余儀無くされたが、私の様な痩せた男は常に健康というわけにはいかず、記憶も常に思い出せるというわけでもありませんでした。私がここに書き残したものは現在では取り立てて重要とも思えないため、例え陛下が望まれて多くの機会をいただいても、他のものを書くことはできないでしょう。もし私の言ったことが取り入れられ、年金を下さり、誰も傷つけることがないならば、全くの幸せでしょう。 神と人間の陛下、両者が我々の奉仕によって無限に治世が続きます様に。

【試抄訳】Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』②

a3dayo.hatenablog.comの続き

(テルシオの編成・給与・特権)

各テルシオはその兵士のみからなる部隊、その軍旗、荷物とそれら全てを守る騎兵または多数の歩兵が必要であり、もし開けた林や他の兵士がいない場所の場合、それぞれ10列の横列を持つ4つの部分と47人のパイク兵を頂点に、53人を底面に持ち、荷物と障害物のために890人を中心に置き、両側には371人ずつ火縄銃兵を配置し、2つの中隊と慣習によって合計800人のパイク兵中隊8個の残りの58人からなる分遣隊(mangas)を2つ作り、escuadrón cuadradoを形成する。 2つの分遣隊が必要とする場合は、部隊正面の槍兵のみ引き抜くことができる。そしてこのような部隊は開けた場所では1400名の火縄銃兵と200名のマスケット兵によって───お互いに発砲時に兄弟を殺さないよう注意すれば───より強くなる。

なぜ戦列によって大きな違いがあるかというと、マスケットが固く地面に突き立てられた支え杖の上から、必要な火薬と共に1.5オンスの弾丸を放つ際、その前方には誰も立っていることはできず、またマスケットの重さのためにパイク兵と離れることもできないが、その射程は向かってくる敵のアルケブス兵を寄せ付けない。これは騎兵や100人程度の軽騎兵に対する完全な防御であり、連隊長の望みによってあらゆる場所で必要とされ、完全ではないにしても歩兵のものとしては良いことは明白だからである。

また兵士たち100人につき12人の、馬に乗ることを許された気高い一流の男たちがおり、彼らはくたびれた者を助け、普通の兵よりも素早く行動することが必要な時に行動する。

これらの馬、あるいは100人あたり12頭割り当てられる駄獣の保持のため、藁と干し草は指示に従って与えられねばならない。平時や休戦時の間は、少ない給与ではそれらを維持することも必要な物を買うこともできず、兵士は衣服を悪く仕立てるようになり、馬を失い徒歩で長時間歩かねばならなくためである。 これらの必需品が取り除かれてしまうと、スペイン歩兵の活力である気高さが失われてしまう。

陸でも海でも軍旗に付き従う男は結婚には適していない:増していく不自由さを解消するため、100人の兵士に対し少なくとも8人の女性が割り当てられることが許される。良き規律のある共和国では大きな痛手を避けるためにこの種の人々が許可されているため、街区の住民を攻撃し、その女性や子供、姉妹を手に入れようとする行いや、遠征中のあってはならないより危険な、しかし通常の、従来言われているよりも多くの行いを行うだらしのない屈強な男がいる非共和国でもこの種の行いが許可される必要がある。

300人の兵士に対し30人の下男が許可される。ただしこの300人には中隊長、少尉、軍曹、伍長は含まれず、下男の人数は中隊あたり53人が上限で有り、軍役につかない兵士は下男を得てはならない。

スペイン本土のように、各テルシオは下男1人に対し1人の保護者を持たなければならない。保護者は下男に対し許可なく放浪者とならないよう、また仕える相手によって誤った扱いを受けないよう責任を持つ。

上述の馬、駄獣、女性、下男は、850人以上で形成される戦隊の中央に配置されるべきではない。 兵士達をより詰め合いにさせ、良い状態から引き摺り下ろしてしまうためである。

多くの障害を回避するためには───避けられないものもあるが───1600人の槍兵が必要であり、また分遣隊とそれらの守備には1400人のアルケブス兵とマスケット兵が充分である。 ある人が言うには、これら必要な兵士が揃えられるのは数回しかなく、多くの場合ではアルケブス兵はパイク兵よりも役立つとのことだが、それはそうだが、それらが揃えられた一度きりの場合に備えて常に準備するのが望ましい。 またもし限界がなければ、弾を撃つアルケブス兵になりたがらない兵士はいないが、その必要性についてよく考えることが望ましい。

火薬、火縄、鉛の代金のため、各アルケブス兵は1エスクード分の利益(ventajas)が与えられている。 このような利益は身につける兜に対し1トストンとさらに4エスクードが与えられる。 テルシオが制定されたイタリアでは平地よりも林と堀が多く、整理され、12個の中隊が良い状態で1個のテルシオを編成していた。中隊のうち2個はアルケブス兵の中隊で、彼らは他の部隊のように1トストンの利益を受け取っていた。それで充分だったからである。 アルケブス兵に3エスクード以上の利益を与えることは上に挙げたような理由のため許可されていなかった。遠征中はより制約されておらず、アルケブス兵の数が多すぎたためである。アルケブス兵を守り、戦隊の力となるパイク兵は欠乏しており、良いアルケブス兵に必要な物資を集められる3エスクード以上を受け取る兵士がいない上に、物資を集めることを許された者は仕えることをやめて近くの者を殺したので中隊長が許可を出すまで物資を集めることを禁止された。 それが利益を与えることの代わりとなったが、特にアルケブス中隊において、これらの処理には十分な注意が必要だった。許可を得られない兵士はより許可が得られそうで、特に平時や休戦時には仕事がほとんどないパイク兵中隊へ移る目論見を抱いた。これら全てのために、アルケブス兵はよりスキルの高い者達から選ばれるべきであり、中隊長も同様である。戦争は多くの出来事が起こり、それらがこれらのアルケブス兵のなかに見出されるからである。彼らはそれぞれが必要に応じて、与えられる利益と土地が許す必需品に見合うよう指導されるべきである。

(訓練)

ルシオを編成するにあたっては、兵士は取り掛かる事柄の成功に必要な全ての訓練を行わなければならないと言われている。 良き軍事規律に関わるローマ人の例に倣うと、最初に彼らが新兵に見せたのは軍隊行進(paso militar)だった。秩序立った行進、または戦隊での移動はとても重要であり、もし最初に兵士が継続的に迅速・一様に行進することを習わないのであればそれらが不可能になるだろう。ローマ人はばらばらに、または無秩序に行進する軍隊は、もし敵が近くにいたならば大きな危険を引き受けているため、それを見せることに強い勤勉さを発揮した。 夏の中間に5時間軍隊行進を行うと20000歩になり、ローマ人がplenoと呼んだより早いペースでは24000歩になる。さらに早いペースでは走ることになる。 敵を攻撃する際など、多くの場合には走ることが必要になるため、ローマ人は兵士にその訓練をさせていた。 それと同様に、道路に堀、壁、生垣があった場合に備えて、兵士達に跳躍の練習をさせていた。この必要かつ困難なことが起こった時に辛苦なく達成できるようにするためである。また川を渡る時に常に橋や船が見つかるわけではなく、急な雨や雪によって増水することによって、行軍中や退却中の軍はそれらを泳がざるを得ない場合のために、歩兵だけでなく、騎兵、その馬、下男も、軍事訓練の後に泳ぐことを訓練していた。

ローマ人の軍隊が使っていた武装とその訓練法は現代とは大きく異なり滑稽にさえ見えるが、それらは非常に重要であるため、彼らの武装と訓練について下記に記す。 gravis armaturと呼ばれる歩兵は胸甲(corazas)、兜(celadas)、鉄の盾を持ち、右の足には腿当てと脛当てをつけ、短い剣を吊るし、長い槍を持っていた。このような武装をした兵士からなる戦隊は、敵の投擲物からだけでなく、熟考された攻撃の下でも防護が可能であることから城壁(muro)と呼ばれる。 これらの重武装の兵士は、特に新兵には午前中の1時間に、その他の者には午後に、地面に固く突き立てた木の棒で切りつけ方や戦闘中の動きを訓練させていた。 その他の射手や弓兵、投石兵は、毎日各武器ごとに2時間の訓練を行なっていた。 月に3度、上述の兵士を全て集め、重要な4日か6日間分の食料を持ち、通常の歩兵は往復1万歩、騎兵は同じく1万歩歩くが、道中常に平地と斜面を行き来し、あらゆることに備え、必要な際に疲れていることがないようにしなければならなかった。 彼らには必要に応じて外国人よりもより少ないコストで大きな利益をもたらす少数の熟達した教師がおり、上述の訓練を見せていた。 ともかく、上述のレギオン兵の訓練は現在に至るまで良いものである。

上記全てにおいて、我々の時代の武器に合わせてローマ人を模倣するのが望ましいが、より主要かつ重要な訓練は、毎日宿舎が変わることを不満に思わないようにするために、可能な限り不快さに耐えさせることである。これは我々の兵士に、多くの勝利を重ねたアレキサンダー大王がバビロンでわずか15日休んだ後にその都の悪徳に打ち負かされたような、またはヘラクレスの円柱からイタリアに至るまでに諸国やローマ軍を圧倒したハンニバルが、カプアで冬を越したためにその享楽によって打ち負かされたようなことが起きないようにするためである。ローマ人は高い規律により既知世界の主人となった後で、長い平和とその間に失われていく規律を無視したことで、第二次ポエニ戦争で何度もハンニバルに圧倒され、多くの執政官と中隊長を失ったが、軍が古い規律に立ち戻った後に勝利が始まったのである。

狩猟はとても有益かつ軍に向いた訓練であり、古代人もそのために兵士の狩猟を禁じることはなかった。高名な哲学者でありモーセの人生の著者でもあるFilón Judioも、協調的な狩猟または試演は、良き王に仕える牧羊犬に効果のあるように、兵士や中隊長の技量を高めると主張している。 したがって、兵士は閉鎖された公園外、または王の娯楽のために特に保護された地域外での狩猟を禁じられるべきではない。

仕事のために土地と家を離れ、血を流し祖国・法・王のために死んだ者は、その特権と税の免除を保護されるだけでなく、年金と法の保護が与えられる。 兵士達の給与はその家族・従者、馬、武装を維持するためであり、同様の物資のためのものではないため、兵士が給与以外で稼ぐ必要はない。兵士の稼ぎは貴族の生まれである者が維持できなければ憤慨するだろう自由や高貴さのためでもある。

(軍隊の規模)

軍勢は多数であるためにそう呼ばれ、訓練された歩兵と騎兵、その補助を行う者、指導者の集合体であるが、それを形成するに当たってはその規模が大きければ大きいほど理想的というわけではないことに注意が必要である。なぜならクセルクセス、ダレイオス、ミトリダテスあるいは無数の軍勢を率いたその他の王たちのように、夥しい大軍はその大勢のために苦しむからである。多くの場合、大軍はその苦悩のため、戦隊の動きは緩慢となり、少数の敵の攻撃にさえ、あるいは川を渡る際にもその障害のために容易に挫けやすくなってしまう。無数の人間や動物のために食物を見つけ、運ぶのも難しくなり、頻繁に十分な水を見つけられなくなり、軍勢が一日でも滞在した場所では病気は極めて早く大気に充満する。戦いの後にやっとの事で軍隊を解散し、再編成すると、多くが死に、あるいは失われていることに気づくだろう。 これが困難に対する対策を学んできた長い経験を持つ古代人が、訓練と規律ほどには大軍を求めなかった理由である。

ローマ人にとって、小規模な戦争には1つのレギオンで十分だったように見える。いくらかの補助を行うものが加わったレギオンは、歩兵1万人と騎兵2千人のプレトリア(Pretorial)と呼ばれる軍となる。法務官(Pretor)によって率いられるためである。しかし敵の軍勢がこちらよりも多いことがわかっている場合、他のレギオンとその補助を行う者を加え、2万人の歩兵と4千人の騎兵でローマで育った執政官(Cónsules)によって率いられるコンスラー(consular)と呼ばれる軍となる。しかし敵がより大勢の場合、2つのコンスラーが合わさり、2人の執政官によって率いられることになる。こうしてローマ人は軍勢の大きさによって苦しむことがなかった。 ローマ人は常に戦争をしており、異なった地域で多くの民族と戦っていたが、これで十分であった。

彼らはより大きな軍隊よりもよりよく訓練された、規律ある軍隊の方を評価していたため、特に兵士と補助を行うものは騒ぎを起こす怠惰による給与の遅配や危険な仕事を行うための物資の遅れより、軍団の補助を行う者が多くならないよう注意を払っていた。 つまり、軍勢が合流する前に必要な物資、特に食物を供給するのが望ましい。戦いの際に貧困な軍隊は何倍も消耗し、飢えは鉄よりも残酷だからである。 だから遠征に対する重要な助言は、戦闘が行われる場所を考慮し、その地域全体およびその周辺の収穫物を計算と根拠によって保存・分配することで、敵の食料を欠乏させ、同胞の食料を豊かにしなければならないということだ。

なぜなら遠征が終わると、敵はその仲間を助けるか、あるいは破壊活動を行い、味方は1日で食料を浪費してしまうが、命令によって資金の不足や物資を買う十分な資金がない状況を補い、一ヶ月は分配することができるからである。 これら一つか複数のものが欠けている場合、攻撃的な戦争は、通常始める手はあるが、終わらせる力はないため、防衛的に、常に十分な監視と共に必要と思われる以上の量を供給し、陣営を築くのに最適な場所で、食料を分配するのに遅延することのないよう集積しなければならない。

軍全体の活力は、パン、ワイン、肉、塩、油、酢、水、ライラック、藁、干し草、大麦その他が欠乏しないことによって保たれる。

(行軍)

軍の行軍、特に敵が近くにいる場合の行軍には大いに注意しなければならない。行軍中は、兵士の武装と戦闘への決意がある戦隊を組んでいる場合と比べて何倍も敵に破られる機会があるからである。指令がないと行軍中の兵士はその必要性を感じないため、また考えがないために多くが十分な武装を持とうとせず、いかなる敵の攻撃にも容易に混乱させられ、一度混乱するとほとんど指令に従わないからである。

ある場所から出発する前には必ず前方の道が平坦で開けているか、または山地か、指示された兵士が通るのに邪魔はないか、よく考え、また知らなければならない。

このことを考えるにあたっては、戦争が起きる地域が広範囲に、はっきりと描かれている彩色画が大変有用である。また道だけではなく、住民と道の障害となるもの、周囲の状況全てを戦線正面やsさらには側面全てを考慮せねばならない。また、スパイや偵察兵を信じ切ってもいけない。しばしば彼らは無学な素朴さによってありえないことを進言してしまうからである。 これらの困難を解決し、彼らスパイや偵察兵を用いるには、歩兵または騎兵の中から、充分な経験を持ち、熱心に見たもをを全て書き残し、先の道について進言できる者を選ぶことである。 野営地につくのが遅れてはならないからであり、特に夜間には指揮官の混乱が様々な混乱をもたらすためである。

(野営)

野営とは、はっきりとした法則にまとめられず、例外によって苦しめられることもある敵との距離、敵の人数、質によって検討する技術であるために、忠告できることは無数にあるが、 野営に適した良い場所を選ぶだけで満足しないことだ。より良い場所を敵に占領された場合、その砲兵による攻撃で食物や牧草の補給を妨害される。

より健康的で、安全で利益があるように見えても、常に高地を占領するのが良いとは限らない。その場所の高度が高すぎた場合、水や牧草の補給を妨げ、より低地にいる、それら高所特有の問題を何ら持たない軍隊と戦うことを強いられるからである。またこれらの不利をもたらす原因は多くあり、その一つ一つが軍を戦うことなしに不便に陥れる。

坂の途中での宿営も常に安全とは言えない。特に坂を登るのに疲れ、息を切らした軍勢が、頂上まで長い道のりが残る場所にいる時は、敵の急襲に十分に抵抗できず、また士気の落ちた兵士たちの抵抗は、平坦な場所で休むまで弱くなる。同様のことは坂の頂上付近でも起こりうる。

平地で野営する際には、近くに敵の砲兵がそこから攻撃することのできる高所のない場所を選ばなければならない。また突然の雨や雪によって起こる洪水から離れなければならない。また少量の雨で動けなくなる湿地や泥地を選んではならない。

上述の事柄全てをよく考え、その場所と必要性に応じて、野営地全体の形を四角形にするか、三角形にするか、円形にするか、または細長い形にするかしなければならない。またその野営地は実用性を損なわないために細くなりすぎてはならない。細くなると兵士達が広がることができないために詰まってしまうからだ。

もし各テルシオまたは各連隊ごとの歩兵または騎兵の宿舎は、可能であるなら別の場所に分け、軍の市場で区切るべきである。特に重要なのはそれぞれがそれらの商人達がいる市場に障害なくいけ、主要な市場を取り仕切る者達が野営地全体の中央におり、弾薬、物資、およびサービスなど必要なものが通りに集められ、あらゆる人々が障害なくそれを利用できることである。

野営地の出入り口は、補給品やその他の人々や動物達に必要なもの、もし野営地に無ければ水を運び入れるために最も適切な箇所でなければならない。また飲み水を無駄にしたり、濁らせてしまう場所であってはならない。 同様に、これらの出入り口は広く、もし必要がある場合は外に素早く出撃して戦隊を組み戦えるよう計画されている必要がある。

要塞化することが可能な時、特にその余裕が数日間あるときはいつでも野営地を要塞化するべきである。また敵が近くにいる場合には、多くの兵士を野営地の周囲に配置するよりも、より労力いらずで安全なのは、柵か塹壕で野営地全体を囲んでしまうことである。