三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

【試抄訳】Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』③

ローマの野戦陣地

古代人、特にローマ人は、敵に一晩も包囲されなかったとしても、その軍勢を幅5フィート、深さ3フィートの塹壕を掘り、内側に掘り出した土を積み上げ、その内側に兵士を置いた。 しかし、塹壕を掘るための時間が余っているような場合は、少なくとも9フィートの深さと17フィートの幅を持つ壕を掘り、掘り出した土を積み上げ、大型の飛び道具をその土の上に配置できるようにした。 このような要塞化を施すためには、各中隊または百人隊(centuria)は、塹壕内で各兵士を10フィートごとに配置し、各自の武器を軍旗の下に集め、各自の仕事が終わるまで、帯剣のみでいさせた。 要塞化の仕事は敵が突然攻めてこない限り続くため、全ての騎兵と一部の特権と階級を持つ歩兵は、労働を免除され、仕事をしている者達の前で戦隊を組んでいた。

歩哨

歩兵の守備兵は塹壕内または防備を固めた場所に配置され、歩哨として、他の者がすることを見張り、少なくとも3時間は可能な限りあちこち動かずにいること。居眠りや疲れたために座り込んでしまったり、敵の侵入を許してしまうなどの失敗のため、全ての兵士が歩哨となれるわけではない。 時にはより信頼できる兵士もこのような失敗をするため、歩哨は信頼性が低い。従って、そのような重大な失敗を防ぐため、上級軍曹とそれより下の階級の者は、巡視を行い、常に全ての歩哨を確認しなければならない。 騎兵の守備兵と騎兵の歩哨は、要塞と塹壕の外で、敵が野営地を見られることなく通過することがないように配置されねばならない。 軍の食物を安全に、より労力をかけずに運用するため、城塞やその用途に向いた場所には守備兵を配置し、それら(食物を輸送する部隊)が野営地から出発する時には、敵に奪われないようにするため、護衛をつけなければならない。

指揮官と助言者

整列した戦隊が野原で戦う場合は、敵が勝利した場合には敵はその望みよりも多くのものを得ることができるため、また味方がその敗北から回復することが困難なために、特に防御とお互いに守り合う力について、勝敗が分かれる前に可能な限りあらゆる方法全てを試さなければならない。しかし必要とされた場合や追い込まれた場合は、以下を考慮することが特に重要である。

敵の数と質、武装、互いの技量、戦いの経験が多いか少ないか、友軍を信頼しているか、または友軍と敵対しているか、味方の武装、士気、耐久力、天候、日付、1日のどの時刻か、地域と土地、各戦隊の陣形、戦隊の数、それらを構成するものの国籍または歩兵の配置、騎兵は敵に対してより凶暴で壮健か。 補給と砲兵は攻撃に充分か、戦いを始める時と戦いの最中にそれらが攻撃された時、または敵を攻撃する時にいちいち再集結させたり混乱したりする危険がない方法を考慮しているか。

上記の事柄について、まだ言える事柄や状況は無数にあるが、より良い機会のために簡潔に述べた。

しかしそれら全てとその他の守らなければならない事柄について、大将軍(Generalísimo)は知識と豊富な経験を持たなければならない。 なぜなら、もし指揮を上手く取ることができなければ、その指揮に従うものはその後に続く失敗を修正する術を持たず、戦いはすぐにその罰を下し、数倍もの命と名誉が失われ、王と王国の軍隊の破滅が続くからである。 将軍は下位の大臣たち(ministros)や、助言することが認められた重要な個人たちのうち必要な賛同を得られれば、大いに助けを得ることができ、また内密に何度も勝利のために進言している中隊長または兵士の話を聞き、理解することも、大臣たちを傷つけることにはならない。

二つの目は一つの目よりも多くを見、人の記憶は脆く、自分が知っているはずのことも思い出せなくなると言われているのである。

ローマ軍にはレギオンの指揮官や歩兵、騎兵に対する法令の他に、その他の執務のために長官(prefectos)と指揮官がおり、特に各執政官は、指揮や指令を出さず、指揮官の助言者となり、執政官不在の場合にその軍を指揮し、全軍から執政官と同様に扱われる軍団長(legado)を持っていた。

ローマ軍に存在した長官や指揮官、野営官(Metatores)の地位は、現在では将軍(generales)と呼ばれる連隊長が占めており、彼らが軍を配置し、野営地を強化し、塹壕を作るために野営地の境界を見回る。これらの仕事には前述した多くの勤勉さ、知恵、経験が必要とされる。なぜなら軍事学と軍事規律の中で、野営地を設立することほど難しいものは僅かか、あるいは全くないからである。

また、幾度もわずかな時間しか野営地について考慮する時間がない事態に陥るため、その他の補給将校や野営官には、連隊長を助けるため、より勤勉になり、知識を深め、経験を積み、連隊長が求める時はいつでも会い、短期的な野営地を設営し、またそれらを行うお互いの健康も重要であることを助言できる。

軍には衛生担当者がおらねばならない理由があり、それは主に健康のために良い空気、水のことを知らなければならないためである。

野営地を設営し、入り口と出口、閲兵場、補給と日用物資の為の場、守備兵と歩兵および騎兵の歩哨が配置される場所を整備した後に、連隊長は必要な人数の兵士を食料や飼料の指導役として任命し、また他の仕事をテルシオと連隊、歩兵と騎兵に公平に分配しなければならない。

連隊長の権限と新役職の提案

前述の野営官、または連隊長の役割は公式には制限されていたが、ここ(ネーデルラント)で我々が数年を過ごすうちに、将軍として軍を統治する権限を残したまま、軍団長の権限の一部を受け継ぎ、また現場で目撃した者によると、市民や各国民からなるテルシオ、歩兵と騎兵の連隊同士で起きた裁判を裁くことも、彼自身もまた将軍と呼ばれる、大将軍の顧問である監察官への上訴によって許されている。

この裁判権は大将軍が持つもので、請願により拡大されるべきではない。なぜなら兵士が受ける通常の裁判は、職務に応じて、または当事者の要求によって、訴えを受けた判事全てによって下された命令に従い、その不当性を訴えねばならない為だが、将軍または大将軍の委任を受けた使節団に訴える上訴では、特に刑事事件の場合で、職務に応じず、必要な制限を回避するために管轄権を拡大しようとするからである

(将来設立される)要塞長官(prefecto castrorum)とも呼ばれる監察将軍(Metator General)は、現在の砲兵将軍がそうしているように、必ず全ての武装、装備、それらの道具に関する文書を持つだろう。この将軍はあらゆるところで働き、簡潔な許しよりも多くの物事を言うだろうから、素晴らしい知識と勤勉さを持ち、経験深く寛容でなければならない。彼の元に配置される部下も、多くの軍や社会の中にある、将軍だけがその置かれている状況や運用を理解すべきとは限らないような、より危険な、また軽く、あるいはより退屈な作業の準備と指揮、処理を行うために配置される部下も、将軍と同様の資質を必要だろう。その仕事の一部は攻撃しなければならない要塞との距離や間隔を調べることだが、それらは大将軍の決定や執行に従い、また砲兵将軍に属するものすべてである。

補給及び弁務将軍たち(los proveedores y comisarios generales)は食物の供給と維持について指令や視察なしでも十分に知らなければならない。 給与士官(oficiales del sueldo)は、国王の資金を分配する職務のため、志願したものの中から忠実で知性があり、勤勉なものが就く。彼はそこで手間のかかる場合は助手とともに、給与を浪費するだろう者たちの質について習熟し、また熟知しなけれならない。各兵士の武器は中隊長への配備を通すことが義務付けられている。なぜなら中隊長は兵士を受け取るとその武装を評価しなければならず、先任給与士官(oficiales princlpales del sueldo)はそれらが満足なものであればそれを承認し、武器を据えなければならないが、もし受領したものが満足でないなら、いかなる騎士や軽騎兵もその給与を浪費してはならずとする勅令のために受け取ってはならないからである。

監査と宿舎の将軍(Auditores y Barracheles Generales)は拡張とその士官たちをどう演習すべきかについてよく理解しなければならない。

もちろん、前述した全ての議論は、より良い国家の力を削ぐものというわけではなく、一般大衆がいうように、必要な変更を加え、騎乗の人々(高位の貴族など)に理解され、援助者や先導者はローマ軍団的で、手間のかかる法と勅令による軍隊を経験しなければならず、それはいくつかの法令を制定させることに繋がり、そしてその遵守は特定の兵士と私兵に、不服従を起こさせなくするだろう。

神について

軍事に関わる事柄が身体の力より生み出されるのか、精神の善から生み出されるのかという古代に行われた大議論は、物事を始める前に参照する必要があることが明白になりつつあり、またその議論の参照を終えた後は直ちに戦争で精神の善と肉体の義務を用い、しかしローマ人が防勢にせよ攻勢にせよ、その戦争を始める時には、双方に属する事柄が必要とされ、かつそれらは神の恩恵であった。 偽りの虚しい神に対し義務を負う罪深い軍勢に対し、彼らが神の恩寵なく、勝利する見込みのない場合に、全くスパイを送らないということがありうるだろうか? 真の神によって在るキリスト教徒は、神の恩寵がなければ良い出来事も、他者に強いる力も、争う力を持つ人を得ることもありえないが、どうするべきなのだろうか?

軍事を生業とする者は、軍隊の魂のような大将軍や、中隊の魂と同じく、大いに神の助けを必要としている。 そして、大臣職にある者は、高位の者も低位の者も、大いに神を愛し、また恐れなければならず、兵士にも同様にさせるべきである。

ゴメス・マンリケ(Gómez Manrique)は、最も明白な回顧録の中でイザベラ女王に対しこう言っている。

故にあなたは讃えよう、 聖職者や教会を。 我々に模範を示し、 悪例は退けよ。 王は我らの模範、 身分、美徳、情熱の 守護となりて、 彼らが過てば 我らも誤る

マンリケが言わんとするのは、皆が上位の者の行いを見ており、多くの者が眼に映る行いを模範とすることができるということであり、またかのカルタゴハンニバル(Anibal Cartaginense)がアルプスからピエドモンテの平野に下り、monañesesとの戦いで示したことである。 もし上位の者が神の名を虚しくする行いによって背信し、冒涜的になった場合に、彼の下につく者たちも同じようにするだろう。 もし上位の者が故郷に悪い友を持ち、それを公にしようとした下位の者を叱責する場合、それは神への侮辱であることに加え、幾千の反乱を引き起こし、彼らに給与を払う王への義務から気を散らさせ、ただ給与を浪費するだけになり、敵から奪い取れる物を仲間から盗むようになるだろう もし上位の者がその給与に満足せず、思慮深さもないなら、公に同胞を侮辱し、彼の下につく者たちも同じようにするだろう。 つまり上位の者がキリスト教徒の職務を果たさず、神への愛も恐れもなく、隣人を侮辱するならば、下位の者が好き放題にするのも驚きではなく、訓練と従順を定める勅令や法令からそれてしまうだろう。

結論

スペイン人は生命よりも名誉を好み、死よりも不名誉を恐れる。自らの意思で武器を取り、その腕前と技術を磨く。彼らは外の危険と同じくらい内に危険を秘めており、従順であることを知り、指令と地位を守り、陸と海で無敵であるのに必要な事柄を知っているだろう。

以上の事柄を考えると、容易に見える兵法でも、もし学ぶことをやめたら、ラケダイモニオス(Lacedemonios)やのちのローマの様に忘却してしまい、他の軍事に関わる術も学ぶのが難しくなり、とても簡単に忘れてしまう。それらを完全に忘れてしまう前に、神が国の父たらしめ、常にその守護者である陛下に必要なものを奏上するのが望ましい。 カト(Catón)は執政官であり、ローマ軍の並外れた指揮官で、彼の共和国の軍事規律の優越を信じていたが、その著書を残した。なぜなら、戦争を支配する事柄と戦場での強さは長く続かないからである。しかし共和国を益するよう書き残されたものはより長く残り、良い軍事規律に仕向けるからだけでなく、書く方に向かわせるからである。 もし長い平和や、教師を無視することで、いつの日か完全に、あるいは部分的に忘れ去られてしまったら、図書館を訪ね廻って、多くの皇帝が書き残した軍事に復元できるものを探し、多くの皇帝の手記や書き取らせた指示を復元することになるだろう。同じく、カトが、フロンティヌス(Frontinio)が、ウェゲティウスが、アイリアノス(Eliano)が、ヴァルトゥリオ(Valturio)が、または現在は多くが散逸している経験や、その他無数の者による概説や著作は、文字が読める兵士に学ばせ、他の兵士はその耳で良い軍事規律を聞くだろう。 昨年の1月11日以来、陛下の指示でこれを書くことを余儀無くされたが、私の様な痩せた男は常に健康というわけにはいかず、記憶も常に思い出せるというわけでもありませんでした。私がここに書き残したものは現在では取り立てて重要とも思えないため、例え陛下が望まれて多くの機会をいただいても、他のものを書くことはできないでしょう。もし私の言ったことが取り入れられ、年金を下さり、誰も傷つけることがないならば、全くの幸せでしょう。 神と人間の陛下、両者が我々の奉仕によって無限に治世が続きます様に。