三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』読書感想文

はじめに

1568年頃にスペイン軍軍人Sancho de Londoñoによって書かれた『Discurso sobre la forma de reducir la Disciplina Militar a mejor y antiguo estado』をある程度読んだので感想文を書く。

本当はテーマ3つくらい決めて感想文書こうと思っていたが、1つ目のテーマの銃兵比率が長すぎて残り2つ書くの諦めた。

著者来歴

こちらの論文によると、著者であるSancho de Londoñoは1515年頃に貴族の長男として生まれ、1542年に槍兵としてスペイン軍に加わった。 なお貴族が歩兵として軍隊に入るのは当時としては珍しいことではない。
その後主にイタリア戦争に伴ってヨーロッパ中を転戦しながら順調に軍人としてのキャリアを積み、連隊長となってオランダの反乱を鎮圧しに行くが、1568年に当地であっさり病死する、という生涯を送ったらしい。
その最晩年に執筆されたのが『古き良き規律への対話』である。

『古き良き規律への対話』は高級指揮官向けに書かれた本であり、いわゆる武器を扱うマニュアル的なものではなく、軍の規律や指揮官の特性、士官の役割などを扱い、古代ローマ軍をモデルに軍の改革を訴える内容となっている。
Londoñoのキャリアは当時の指揮官としてはかなり模範的で、いわゆるschool of albaの典型的な卒業生という感じがするが、本書の内容も指揮官の経験と知識の重視などにその傾向が見出せる。
それだけに著書もいろいろ興味深い点があったが、今回は槍兵と銃兵の比率というテーマのみに絞った。

誤訳等多々あると思うので、気づいたかたはそれとなくご一報ください。




銃兵比率

16世紀後半の西ヨーロッパの歩兵部隊は槍兵と銃兵*1で構成されており、この時代の特色の一つとなっている。

槍兵に対する銃兵の比率は16世紀軍事史の文脈では普遍的なテーマになっており、基本的には歩兵の中で銃兵の割合が高いほど『先進的』とみなされる傾向にある。 これは大まかに見ると銃兵の割合が16世紀を通して上昇し続けていることと、20世紀を席巻したマイケル・ロバーツ軍事革命*2が銃兵の比率上昇に注目したため、銃兵比率が高い=より軍事革命に適合的=より近代的、みたいな理解になったことが原因と思われる。

(完全に余談だが、銃兵比率が高いほど先進的とみなす傾向は、軍事革命論の支持者だけでなく、その批判者にも共通して見られる気がしてならない。)

『Discurso』の銃兵比率に触れる前に、簡単に16世紀後半のスペイン軍の銃兵比率がどの程度だと捉えられていたか、ジェフリー・パーカーの研究を元に簡単に紹介する。



パーカーによる銃兵比率

21世紀以前の近世スペイン軍事史研究、特に80年戦争研究はジョフリー・パーカーの影響力が極めて大きい。パーカーはロバーツのオランダ軍・スウェーデン軍を中心とする軍事革命論を批判し、イタリア築城術を中心とした新たな軍事革命論を提唱したことで(不幸にも*3)有名になり、その著作は一部が邦訳されている*4

パーカーの初期の研究対象はスペインが80年戦争でオランダと戦うために低地地方に派遣した軍隊、いわゆるフランドル派遣軍であり、『Discurso』執筆時点ではLondoñoも一応このフランドル派遣軍に加わっていた。

パーカーのフランドル派遣軍研究の集大成とも言える著作『The Army of Flanders and the Spanish Road 1567–1659: The Logistics of Spanish Victory and Defeat in the Low Countries' Wars 』*5ではフランドルに派遣された各テルシオ*6の1571年当時の詳しい部隊構成が一次史料である兵員簿を元に記載されており、この部隊構成データを元に1571年時点のスペイン軍の銃兵比率を導き出すと以下の通りになる。

ルシオ 銃兵中隊 アルケブス銃*7 マスケット銃 槍兵 士官 銃兵:槍兵
Naples 3 456 281 1768 171 1:2.4
Sicily 3 543 165 835 99 1:1.18
Lombardy 2 345 150 1003 90 1:2.0
Flanders 1 161 0 1352 90 1:8.4
合計 9 1505 596 4958 450 1:2.4

*8


この図からは槍兵に対する銃兵の割合が平均すると1:2.4となることがわかる。
銃兵1人に対し槍兵が2.4人いるということである。

またパーカーは1567年のスペイン・フランドル派遣軍の中隊は

理論上250名からなり、11名の士官、20名のマスケット銃兵、219名の槍兵か、もしくは11名の士官、15名のマスケット銃兵、224名のアルケブス銃兵で構成されている』 *9

としている。 パーカーは理論上槍兵中隊10個に対し銃兵中隊が2個の割合で存在していたとしているので、2190名の槍兵に対し、230名のマスケット銃兵と448名のアルケブス銃兵が存在することになる。ここで銃兵対槍兵の比率は1:3.2となる。

パーカーは1570年前後のスペイン軍歩兵部隊の銃兵の割合は士官を含めた全体の人数に対し、概ね30%程度としており、1600年頃に50%程度になったとしている。 パーカー以後の軍事史研究者も一部の例外を除いて基本的にこの部隊構成を前提に議論を進めていた。



『Discurso』の銃兵比率

では『Discurso』の中で銃兵比率がどうなっているかというと、非常に興味深い記述となっている。 以下が該当箇所。

多くの障害を回避するため───避けられないものもあるが───1600人の槍兵が必要であり、また分遣隊(mangas)とそれらの守備には1400人のアルケブス兵とマスケット兵が充分である。 *10

ここではテルシオ1個の理想的な編成(全体で3000人)に対し、1600人を槍兵、1400人を銃兵としている。士官の人数は考慮されていないものの、銃兵:槍兵=1:1.4という比率はパーカーの主張よりはるかに銃兵の割合が高い。 パーカーのデータのうち『Discurso』の銃兵比率と近いのはテルシオ・デ・シシリーのみである。


パーカーは当時の兵員簿をもとに各テルシオの構成を算出しているが、これは戦力の算定だけではなく、兵士の給与計算にも使われる為、それなりに信頼性が高いと思われる。

にも関わらず、両者の間には明確なずれが生じてしまっている。

以下ではこの点について考察したい。



考察

『Discurso』の記述とパーカーのデータに見える銃兵比率のずれについては2通りの仮説が考えられる。

1. 『Discurso』の記述はあくまでも理想的な値であり、実際の値を反映していない。実際の銃兵比率はパーカーのデータが正しい。

2. パーカーのデータはなんらかの理由で誤っており、実際の値を反映していない。実際の銃兵比率は『Discurso』の値が正しい。


まず1について考察したい。

仮説1の検証

仮説1が正しく、『Discurso』の記述が現実の値を反映していない理想値で、実際にはもっと低い値であったとするなら、同時代のスペイン以外の軍隊の銃兵比率は(厳密には国ごとの差異を考慮する必要があるが)『Discurso』よりパーカーの値により近くなることが考えられる。

では当時低地地方でスペイン軍と戦っていたオランダ軍の銃兵比率はどうだったのか。


オスプレイ本の『Dutch Armies of the 80 Years’ War 1568–1648 (1): Infantry』によると、

衝突が始まった当初(80年戦争最序盤、1560年代末を指す)は、(各中隊は)400人の人員で構成されていたと考えられており、そのうち200人は銃で武装し、150人は槍で、50人はハルバードまたは両手剣で武装していた。
ドイツ人部隊の多くは3分の1のみが銃で武装していた。ワロン人中隊はわずか200人程度で構成されており、ユグノー教徒の中隊はさらに少なく150人程度で、しばしば銃器のみに頼っていた。 *11

とされている。


当時反乱軍を率いていたナッサウ伯は『しばしば銃兵のみに頼る』ユグノー教徒の部隊を絶賛していたが、1570年代中盤頃より徐々にその銃兵比率を減らしていったようだ。

そしてオランダ軍は1580年の規則で150人の中隊は

65人の銃兵、12人のマスケット兵、45人の槍兵、6人のハルバード兵、6人のソードアンドバックラー兵、3人の士官とそれらに仕える3人の従者

で構成するとしている。


全軍の数字こそないものの、オランダ軍の銃兵比率は一貫してパーカーどころか『Discurso』のものよりも高いように見える。
従って、オランダ軍との比較から『Discurso』の記述が誤っているとは言えない。

実はドイツ傭兵、いわゆるランツクネヒトもオランダ軍と同様、銃兵比率が高いとされており*12、他国の軍隊と比較すると『Discurso』の記述はむしろ正確な気がしてくる。


ではLondoño以外のスペイン軍人はどう考えていたのか。
『Discurso』の18年後、1586年に執筆されたと考えられるMartin de Eguiluz著『Milicia, discurso, y regla militar, del capitan』には41900名という膨大な人数からなる仮想的なesuquadron*13の構成が記されている。

アルケブス銃兵 マスケット銃 装甲槍兵 Pica Seca*14 銃兵:槍兵 合計
スペイン人 6000 1500 5000 7000 1:1.6 19500
イタリア人 3800 200 4000 4000 1:2 12000
ドイツ人 4800 200 4000 1400 1:1.1 10400
合計 14600 1900 13000 12400 1:1.5 41900

*15
このesuquadronは現実に存在したものではないため、あくまで想像上にしか存在しないが、Eguiluz個人の考えを知ることができる。 全体の銃兵比率は1:1.5であり、『Discurso』の1:1.4という値にかなり近い。


結論として、オランダ軍やランツクネヒトの部隊、同時代のスペイン軍軍人の著書から判断できる銃兵比率は『Discurso』の記述の反証となるものではなく、仮説1を肯定することは難しい。



仮説2の検証

仮説2が正しいとするならば、パーカーのデータが誤っているという指摘がされていても良いはずである。
前述のように21世紀以前は16世紀スペイン軍事史研究の中でもパーカーの影響が大きかったが、21世紀に入ると複数の有力な研究者が現れるようになる。

ではそのような研究者たちはパーカーの提示した銃兵比率に対し、どのような見解を持っているか。

フランドル派遣軍の人事面に着目した研究で知られるFernando González de Leónは、パーカーの研究のうち人事面についてはその不十分さを指摘しているものの*16、銃兵比率についてはむしろ肯定的である*17

一方、フランドル派遣軍アイルランド人部隊やアンブロージオ・スピノラの遠征に対する実証的な研究で知られるEduardo de Mesaは、パーカーの提示した1567年当時のフランドル派遣軍の中隊の構成に対し、以下のような批判を投げかけている。

しかし、彼(パーカーを指す)が引用した史料にはアルケブス銃兵の数が与えられていないが、これはその中隊にアルケブス銃兵が存在しなかったことを意味しているのではない。 1598年の勅令では250名の槍兵中隊のうち、130名を槍兵とし、100名をアルケブス銃兵、20名をマスケット銃兵とすることを要求している。銃兵中隊はアルケブス銃兵とマスケット銃兵のみで構成するとしているが、この勅令ではその人数を特定していない。

この批判でMesaは1598年の勅令を根拠に、パーカーの提示する1567年の銃兵:槍兵の構成比の誤りを指摘している。実際には槍兵中隊の中にも多くの銃兵が存在したと主張しているのである。
実は『Discurso』でも同様の見解が示唆されている。 前述した引用文の直後には以下の文章が続く。

これら必要な兵士が与えられるのは数回しかなく、多くの場合ではアルケブス兵はパイク兵よりも役立つと言われるが、それはそうだが、それらが揃えられた一度きりの場合に備えて常に準備し、またもし限界がなければ、弾を撃つアルケブス兵になりたがらない兵士はいないが、その必要性についてよく考えることが望ましい。

*18


ルシオが制定されたイタリアでは平地よりも林と堀が多く、整理され、12個の中隊が良い状態で1個のテルシオを編成していた。中隊のうち2個はアルケブス兵の中隊で、彼らは他の部隊のように1トストンの利益を受け取っていた。それで充分だったからである。アルケブス兵に3エスクード以上の利益を与えることは上に挙げたような理由のため許可されていなかった。遠征中はより制約されておらず、アルケブス兵の数が多すぎたためである。アルケブス兵を守り、戦隊の力となるパイク兵は欠乏しており、良いアルケブス兵に必要な物資を集められる3エスクード以上を受け取る兵士がいない上に、物資を集めることを許された者は仕えることをやめて近くの者を殺したので中隊長が許可を出すまで物資を集めることを禁止された。それが利益を与えることの代わりとなったが、特にアルケブス中隊において、これらの処理には十分な注意が必要だった。許可を得られない兵士はより許可が得られそうで、特に平時や休戦時には仕事がほとんどないパイク兵中隊へ移る目論見を抱いた。これら全てのために、アルケブス兵はよりスキルの高い者達から選ばれるべきであり、中隊長も同様である。戦争は多くの出来事が起こり、それらがこれらのアルケブス兵のなかに見出されるからである。彼らはそれぞれが必要に応じて、与えられる利益と土地が許す必需品に見合うよう指導されるべきである。

*19


以上の文章からは、兵士はアルケブス銃兵になりたがる傾向にあったこと、中隊のうち2個は銃兵中隊とされていたが、遠征中はアルケブス銃兵の人数に対する制約が弱まり、多くの兵士がアルケブス銃兵となったこと、アルケブス銃兵は槍兵中隊へ異動する傾向にあったことがわかる。

つまり当時のスペイン軍は銃兵比率が自然と高まり、かつ槍兵中隊中に銃兵の数が増えていく傾向にあったと言える。


Mesaの批判と『Discurso』の記述を合わせて考えると、パーカーが提示した1571年のデータのうち、槍兵とされているものは実は銃兵であった可能性がある。


近世期の軍隊の規模を議論する中で、いわゆるpaper company、つまり書類上のみに存在する軍隊に関する議論があるが、パーカーの提示したデータもそうしたpaper companyの一種で、実際には銃兵なのに槍兵として数えられてしまったか、槍兵の水増しが行われていたのではないだろうか。
この場合兵士の給与面が問題となるが、1570年代は給与の遅配から叛乱が続発しており、むしろ申告上の給与を低く抑えるか、実際以上の兵士がいるように見せかけることで差額を着服する意思が士官クラスに存在した可能性が考えられる。 スペイン軍もこうした問題を認識しており、1570年代からは査察官を導入しているが、1571年時点ではまだ対処しきれていなかった可能性がある。

以上のことから、仮説2は仮説1とは逆に、否定することが難しいと言える。



結論


本稿では『Discurso sobre la forma de reducir la Disciplina Militar a mejor y antiguo estado』の中から銃兵比率についての記述に着目し、主にジョフリー・パーカーの記述と比較し、どちらがより正しい記述かという点について考察した。
その結果、『Discurso』の方が同時代の他国の軍隊の銃兵比率やスペイン人の思想に近いこと、パーカーの提示したデータは同時代の誤謬の可能性があることから、『Discurso』の記述がより正しいとした。
つまりスペイン軍の歩兵部隊では1570年代までに銃兵と槍兵の比率が1:1に近づいていた、ということになる。

またいわゆる軍事革命論では銃兵比率の上昇が軍事革命論に適合的とされることが多いが、本稿では銃兵比率は士官クラスが意図しなくても個々の兵士の意図により自然と上昇することを指摘した。
特に1570年代のオランダ軍の一部の部隊で見られる銃兵比率の減少や、Eguiluzの提示する部隊ごとに異なる銃兵比率などは軍事革命論では説明が難しい為、これまでの銃兵の割合が高い=より進んでいる、みたいな説明とは異なる説明が必要な気がする。

次はフランドル派遣軍で騎兵副総監やってたLudovico Melzoあたりの私訳やりたい。騎兵と向き合うぞ。


*1:16世紀後半ではアルケブスと呼ばれる比較的軽量の銃とマスケットと呼ばれる比較的大型の銃の二種類の銃が存在していた

*2:戦術などの軍事革新が近代国家を誕生させたとする説。一時期は流行ったが、最近は反証が出揃い、肯定的に言及されることがほぼなくなった

*3:パーカーの軍事革命論はあらゆる方面から攻撃されている。ぶっちゃけガバガバだから仕方ないといえば仕方ないが…

*4:長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年, 同文舘出版

*5:興味深いことに、パーカーは参照文献の一つとしてLondoñoを挙げている

*6:歴史学的には複数の中隊をまとめて管理する組織。現代では連隊にあたる。方陣・陣形とする場合もあるが、20世紀中盤に突如として現れた由来不明の用法である

*7:たぶんアーキビューズとかアルケビューズみたいな発音の方が正しい気がするが、面倒なのでアルケブス銃とする。火縄銃銃みたいな呼称だが深く考えないことにする

*8:The Army of Flanders and the Spanish Road 2nd Edition, p235より作成

*9:Army of Flanders, p233

*10:原文:Para excusar tanto impedimento, que es inexcusable, son necesarios 1600 piqueros, como está dicho, y para mangas y guarnición de ellos, bastan los 1.400 arcabuceros, y mosqueteros.

*11:Dutch Armies of the 80 Years’ War 1568–1648 (1): Infantry, p21

*12:Business of War, p54

*13:野戦において複数の中隊から構成される臨時の部隊。

*14:鎧をつけない槍兵のこと。若年兵を指す

*15:https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.31822038210308&view=1up&seq=119

*16:The Road to Rocroi, p11

*17:Spanish Military Power and the Military Revolution,『Early Modern Military History, 1450-1815』, p33

*18:原文:Dirá alguno, que tal necesidad se puede ofreger pocas veces, y muchas el ser más útiles arcabuceros que piqueros, es así, mas para una sóla vez que pueda acaecer, conviene estar siempre apercibidos, y si no se pusiese límite, no habría soldado que no quisiese ser arcabucero por andar descargado, considerando bien ésto, y las necesidades que pueden ocurrir.

*19:原文:Después considerando que en Italia, donde se instituyeron, y ordinariamente residían los tercios, hay más arboledas y fosos que llanuras, ordenaron, que de doce compañías que a la sazón formaban un tercio, las dos fuesen de arcabuceros, y se les diese la ventaja, y el tostón, como a los demás, y pareciéndoles que allí bastaba la dicha arcabucería, no permitían que soldado de tres escudos, sirviese con arcabuz, ni ahora se debe permitir por las causas dichas, y porque muchas veces se va donde hay campañas más desembarazadas, y en ellas sobran arcabuceros, y faltan picas, que son el reparo de ellos, y la fuerza de los escuadrones, además de que ningún soldado de tres escudos, puede traer el recaudo necesario a buen arcabucero, y permitirle traerlo, es permitir que no sirva sino de matar al que más cerca de él se halla, cuando alcanza para poder tirar algún tiro, así que no sólo se les debería permitir tomarlos, sin que los capitanes se los diesen, cuando se hubiesen de subrogar en plazas de los arcabuceros aventajados, mas deberíase tener grandísimo cuidado al hacer la tal subrogación, especialmente en las compañías de arcabuceros, a las cuales acuden todos los que en las de piqueros no pueden haber ventajas, haciendo cuenta que allí se las darán, y tendrán menos trabajo, especialmente en tiempo de paz, o tregua, que casi ninguno tienen, si no hace guardia de noche: por eso todos los soldados de ellas habían de ser arcabuceros escogidos entre los más diestros, y los Capitanes de ellos lo deberían ser: porque en la guerra se ofrecen muchas ocasiones, en las cuales hallándose con los arcabuceros, a todos, y a cada uno de ellos deben guiar según las necesidades, valiéndose de todas las ventajas, y comodidades que el terreno les permitiere.