三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

近世スペインにおける常備軍の誕生

はじめに

近世ヨーロッパにおける常備軍組織の成立は軍事史において一つの契機と見做すことができる。 常備軍は領域権力を持つ国王により人事・財務・指揮統制を直接管理された即応部隊であり、それまでの貴族や民兵の混成によって成立した中世的軍隊とは決定的に異なる存在であった。

16世紀以降、ヨーロッパ諸国・地域は常備軍を維持する制度を発展させていくが、特にスペインはレコンキスタ以降に常備軍制度を発展させ、世紀の中盤以降に野戦病院システムや寡婦年金制度を備えたフランドル駐留軍、さらには現代軍隊へと発展していく。 この過程において、性質の異なる中世的軍隊からどのようなプロセスを経て常備軍が誕生したのか、という点は重要である。

本稿では中世期スペインから近世における常備軍の成立までの過程を追う。特にレコンキスタ終了直前からイタリア戦争にかけてのカトリック両王期に行われた軍事改革に注目し、さらにその後創設された編成単位─ルシオ─がどのような意義を持つのか、また中世的軍隊から常備軍への移行がどのような問題を引き起こしたのかを明らかにする。

中世期スペインの軍隊と貴族

スペインの中世はイベリア半島の大部分を征服したイスラム教諸勢力に対するキリスト教諸勢力の再征服運動に費やされた。 この時代において、キリスト教諸勢力の軍事力は主に二つの階層からなっていた。騎士と都市民兵である。

地域・時代により差はあるものの、中世スペインの騎士階層は平民騎士(caballeros villanos)と貴族騎士(hidalgos)の二つに大別することができる。

前者はキリスト教勢力によって新たに獲得された土地に再植民された平民を基盤とする階層であり、馬と武器を所持し、騎兵として戦うことができるのであれば、税免除などの特権を与えられた*1。 本来貴族階層とは異なり、血統ではなく馬と武装が所持できるか否かといった能力に基づく階層であったが、13世紀以降はしばしば世襲化し、戦闘の場所がイベリア半島北部の山間部から中央部の平原に移るにつれてレコンキスタにおける騎兵の数的な主力となった。 また12世紀終わり頃から都市の行政職は後述の貴族騎士と共に平民騎士によって占められ、その行政的権力もまた拡大していった*2 *3。 14世紀以降の内戦により、乱発された貴族位を手に入れ、税免除の特権を受ける者が現れたが、15世紀にはその反発により規制が強まり、貴族位を手に入れたものとそうでないものに二極化していく。*4

貴族騎士はいわゆる貴族階層である。この階層は二つのクラスに分けることができ、大貴族はricos hombres、中小貴族はinfanzonesまたは単にhidalgosと呼ばれた。 貴族騎士たちはその役割や経済力ではなく、血統によって定義される階層であり、中世初期は王の臣下として特別な軍役奉仕を負っていたが、カスティーリャ建国と同じ頃に聖職録に基づく土地や金銭の見返りの場合を除いてほぼ軍役が免除される立場となった。 それにも関わらずこの階層の騎士たちはむしろ積極的に軍役に服していた*5

この貴族騎士たちはレコンキスタが進展するにつれ平民騎士と同様に都市行政に入り込み、しばしば行政職を世襲化した。 さらに重要な出来事が12世紀頃に起きた。この時期に発生した相次ぐ内乱の影響で、各自の土地に散らばった中小貴族騎士や平民騎士が大貴族の庇護を求めた結果、より強力な貴族が誕生した*6。 1390年の議会では王からの年金の引き換えに軍役奉仕のための私兵を維持することが定められ、14世紀から15世紀にかけて行われた内戦を生き残った者はさらに権力基盤を強化していった*7

植民・再征服された国境都市は都市自身の防衛と王への軍役奉仕義務のために民兵を組織しなければならなかった。 民兵組織は騎兵や歩兵などは厳密には区分されておらず、民兵は都市の周辺区域からも徴収され、馬を用意できる場合は騎兵つまりcaballeros villanosに、用意できない場合は招集される地域ごとに歩兵に分けた部隊が編成された*8。 この時に最も重視されたのが招集される個人が的確な武装を用意できるか否かであり、都市が住民の財産を売り払うことで強制的に武装させることも可能であった*9。 遠征の際は都市民兵は総督の指揮下に入り、偵察*10、書記*11などの役職が定められ*12、給与は派遣元の都市評議会から支出されていた*13 また、アルフォンソ11世により創設された平民騎士の組織caballería de cuantíaは、15世紀には顕著な数の増加を見せ、グラナダとの国境付近で極めて高度に軍事化した社会を成立させた。1407年のバエザの兵員登録簿によれば、登録されている1774名の人口から、254名のcaballeros de cuantía、256名の弩兵、960名の槍兵を書類上は動員することができた*14。 一方で14世紀には騎兵の規律の弛緩が危惧されており、1337年のセビリャに対する布告では臆病さと武装について率直な不満が述べられている*15民兵の動員も完璧ではなく、1457年には招集対象であった弩兵のうち、実に70%以上が現れなかったという事件も起きている*16

上記の3者のうち、指揮階層という点から最も重要であったのが貴族騎士である。 13世紀のアルフォンソ10世は七部法典において下位の指揮官の任命と軍の機動を指示するcabdiello mayor、敵地で部隊を先導し統制するadalid、adalidから選出される歩兵指揮官almocadenesなどの役職を定めており、中でも特にadalidが重要視されていた*17*18。 新しいadalidの選出は12人のadalidの協議により定められるとされており、一見実力主義的な任命がされていたように思えるが、アルフォンソ自身は当時すでに世襲化が進んでいた平民騎士には懐疑的であり、こうした「士官」となるのは貴族騎士が想定されていたようだ*19

15世紀には古典復興運動の影響を受け、古代ローマギリシャの影響を受けた著述活動が行われるようになるが、この時点では古代ローマイベリア半島への侵略者として扱われたため、古代を規範と見做す動きは小さかった*20

レコンキスタ期の軍隊は、貴族の私兵、都市民兵、若干の王の直属の部隊で構成されており、前二者は独自の指揮階層と人事権を有していたため、王が管轄可能な範囲はごく限られていた。 この軍隊は大規模な動員を前提とし、外国人傭兵に依存しない戦争を可能にした。一方で、私兵を持ち、都市の行政職を占める貴族による反乱が頻発することにもつながったと考えられる。 そしてこの中世的軍隊は、即位直後に貴族による蜂起を経験したカトリック両王の時代に根本的な変化を遂げる。

カトリック両王」の軍隊

イザベラ女王及びフェルディナンド2世、すなわち「カトリック両王」の時代にスペインの軍隊は大きく変化し始める。 イザベラとフェルディナンドの結婚と、イザベラのカスティーリャ王即位により内乱の勃発により、カスティーリャ封建制秩序は混乱し、危機に陥った。この危機に対処するため、内乱中また内乱後も両王は封建制下秩序に基づく王権の復旧を図った*21

両王はまずカスティーリャに対する秩序回復のために、中世期に自発的に誕生した都市民兵組織であるHermandadを復活させる意向を示した。この意向は1476年の全ての都市に対し執政官の監督のもとで特別税を原資とし、Hermandadを組織させる施策につながる。こうして組織されたHermandadは住民100名あたり1人の軽騎兵及び150名あたり1人のMen-at-arms─騎士の供出と、定期的な評議会への参加が求められた。こうして王権とより強くつながったHermandadはそれ以前と区別してSanta Hermandadと呼ばれる*22

Santa Hermandadではそれまで乱立していた指揮階層の呼称が統一され、部隊を率いる者はcápitanすなわち中隊長と呼ばれるようになった。1480年にはSanta Hermandadは一個騎兵中隊あたり1名の中隊長が1名の旗手、4名の中尉と共に100名の騎兵を指揮するなど、標準化と指揮階層の細分化が起こっていた*23

一方歩兵についても1488年にセビーリャ市に対してHermandadから5000名の動員が命じられ、その翌年にはCapitanía General に指揮される12個中隊1万名の動員が行われるなど、これまでの中世的な都市民兵の動員とは異なる動きが見られるようになった*24*25*26。 歩兵の動員システムについても重要な提案がなされた。1487年のマラガ攻囲では大規模・効率的な動員システムの必要性が明らかになり、Alonso de Quintanillaの案を元にした改革が進行しつつあった。Quintanillaは各住民の収入に応じた武装の度合いを決め、各州の行政長官がその査察に責任を持ち、Hermandad評議会を通して王に対して報告する新しい民兵システムを提案した。この案では各都市から10人に1人の割合で住民が招集を受けた場合には即座に応じることができ、集合地点までの旅費などは都市の負担とし、それ以降の費用は国庫が負担することになっていた。*27。しかしこの提案が実現されるにはさらに時間を要した。

Hermandadの改革と共に、指揮官人事についても改革が進められた。カスティーリャでは14世紀以降、王に代わり軍事指揮権を行使するcondestableという役職が存在し、最高位の貴族が就任することが通常であった*28。しかしこの役職の権限は弱められ、独立して軍の指揮を取ることは認められなくなり、軍事行動の際は王と合流して行動することが求められるか、副次的な戦線を任されるだけとなった。

続いて側近や出納官の前線への派遣、軍事遠征の補給や給与支払いを査察し、コントロールするための王権直轄の監督官職の創設などを通し軍事面への王権の強化を強めた*29。 これらの施策はHermandadにも及び、Hermandadに対する王権のコントロールをより強めた*30

しかしグラナダ攻略までの軍隊にはHermandad、Santa Hermandadのような王権のコントロール下にある部隊だけではなく、貴族も多く含まれており、近世的な軍隊というよりは中世的な軍隊の特徴を色濃く残していた*31。 1487年及び1489年の戦役では騎兵9300名のうち7000名が、歩兵8200名のうち5300名が、火縄銃兵740名のうち424名が貴族の指揮下だったのである*32

こうした状況はグラナダ攻略以降に大きく変化し始める。 1492年以降は王室配下だろうと貴族配下だろうと関わりなく部隊の標準化が進行し始めた*33

元々カスティーリャではカトリック両王の時代に先駆けたフアン2世時に1000名規模の近衛部隊が存在していたが、その後衰退し、1470年台には近衛兵は存在していなかった。しかし1493年に2500名の主に重装騎兵からなる近衛騎兵隊が設立されると幾度かの改編を経ながら監察官や会計係などの役職が組み込まれていき、1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げた*34。さらにはこの部隊の兵士は任命される際には装備を自弁しなければならなかったが、任命後は装備の費用を王の負担で賄うことが期待できた*35。この近衛兵をスペイン初の常備軍と見る向きも存在する*36

近衛騎兵は1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げ*37、1495年にはフランスとの開戦を控えてQuintanillaの提案の一部が採択され、各都市は2人に1人の割合で人員を供出することが決定され、直ちに勅令となった。この人員はHermandadの人員とは重複しないよう定められ、中世から続く兵員ソースとしてのHermandadの役割は事実上終わりを迎えることとなる*38

こうした臨時的な動員兵ではない恒常的な歩兵部隊がいつ誕生したのかは明確ではないものの、1497年には使用する武器によって区別される三つの部隊が存在していた。使用する武器とはランス、ハンドゴン又はクロスボウ、剣及び盾であり、1495年の勅令によって定められた「収入に応じた武装の度合い」と一致している*39。このことからこれらの部隊はQuintanillaの案に始まる新民兵システムによって生まれたか、影響を受けていた可能性は高い。

この時期において重要と考えられるのがGonzalo de Ayoraだった。Ayoraはルドヴィーコスフォルツァの下で歩兵戦術について学んだと考えられ、スイス傭兵と古典期の記録に影響を受けたと思われる。これらの結果としてAyoraは歩兵の武器教練を行っただけではなく、古参兵に対し、下士官としての訓練を施し、1505年には王の護衛兵として訓練していた100人の歩兵に対し1人の少尉、旗手、2人の軍曹及び2人の分隊長を配置した*40

国境沿いの要塞システムについても王権による管理強化が進められた。元々カスティーリャでは南部国境要塞は国庫による負担と王の監督によって維持されていたが、カスティーリャ両王即位前にこのシステムは放棄されていた。カスティーリャ両王はグラナダ攻略前にこのシステムを復活させ、さらに攻略後にはこのシステムを旧グラナダ王国領地に拡大させた。海賊対策を主目的とする沿岸部の要塞プランは1488年に現れたが、これらの要塞には王室の役人による定期的な査察、守備兵に対する給与の支払い及び監督義務が付随していた。そしてこれらの守備兵は、地元の市民・農民から募集され、王室に任命された中隊長によって統率されていた*41

人事権の統制はイタリア戦争を通してさらに改革が進んだ。 イタリア遠征の初期の指揮官であるゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの例からこうした強化策の一端が窺い知れる。ゴンサロは有力な貴族の家系に生まれ、第一次イタリア戦争でGran-Capitanの称号を受けていた。さらに第二次イタリア戦争でナポリ副王の地位を得て以降、ゴンサロは軍事だけでなく政治権力をも手にし元々強力であった権限をさらに強化した。しかしそのゴンサロでさえ、麾下の中隊の配置変更についての許可を国王から得なければならなかった*42し、ゴンサロの後任であるAyoraは王の護衛隊長であった。

こうした統制は1505年の勅令によりさらに強化される。レコンキスタ中には、ある役職についている人物が戦死した場合、その血縁の者が役職を受け継ぐことが認められていたが、1505年の勅令では下位の役職の者が受け継ぐことが定められた*43

実際に1504年〜1505年の休戦期間にはイタリア所在の部隊のうち、空白となっていた中隊長職を王室の任命によって決定する方法について書簡の往復が行われている*44。またAyoraに見られるように近衛騎兵隊は指揮官職の人材ソースとなりつつあった*45。 1503年の勅令では中隊レベルの士官の所掌範囲が定められ*46、指揮統制範囲が明確化された。

他に重要な改革としては中隊を統制するより上位の階層─連隊及び連隊長職という役職の重要性が広範に認識された点が挙げられる。 1488年の動員時点で同様の発想は見られるが、特に前述の書簡の中では連隊長職が王室による任命される必要性が話題に挙げられていた。 ただしこの期間に議論されていた連隊長職にあたる役職が率いる兵員は500名程度であったと考えられている。 Diego de Salazarはゴンサロ・デ・コルトバが各500名の中隊12個からなる6000名の部隊、いわゆるコロネリアを編成する意図を持っていたとするが、コロネリアが存在したのか、本当にゴンサロの意図なのかについては議論がある。 一方でゴンサロ・デ・コルトバは500名の部隊を4個合同で指揮する構想を1512年には確実に持っており、2000名という規模は後年のテルシオになんらかの影響を与えている可能性が高い*47

ルシオの登場

レコンキスタ以降の軍隊における部隊の編成・人事権の王権への集中化は、必然的に国家管理下の恒常的武装組織、すなわち常備軍の誕生と強化を促すものであった。

こうした流れの中で1536年には公式にテルシオが登場する*48。この部隊はSanta Hermandadや近衛騎兵に見られる中隊長、騎手、出納官といった役職に加え、Ayoraの改革に見られる古参兵からなる下士官を持ち、ゴンサロ・デ・コルトバが構想した2000名に近い3000名の部隊で、イタリア半島の要塞に駐屯する王権直轄の防衛部隊だった。 その構成員はHermandadとは異なり中隊長によって募集された人員で、徴募時には出納官の名簿に名前が記載され、王室から給与の支払いを受け、問題を起こした場合は勅令に定められた通り中隊長から罰則を受け、別の中隊に移る場合には連隊長の許可を受けなければならなかった。

つまりテルシオの登場は、イベリア半島における諸改革がイタリア半島に持ち出された結果と見做すことができる。

一個のテルシオを構成するのは複数の中隊であり、一個の中隊はさらに複数の分隊から構成されていた。 分隊esquadraは最低25名の兵士から構成され、これを率いるのは伍長─cabo de eaquadraであった。 中隊の士官は中隊長、軍曹、副官、旗手で構成されており、これに2人の鼓手、笛吹、従軍教誨師、出納官などその他の職務が存在した。 テルシオの士官は各中隊長の他、連隊長─maestre de campo、上級曹長sargento mayorとそれぞれのアシスタントが存在した。 また、連隊長は第一中隊の中隊長を、上級曹長は第二中隊の中隊長を兼務していた。 さらに、中隊のレベルでは第一分隊の伍長は中隊長が務めていた。 つまり、テルシオの連隊長は、第一中隊の中隊長でもあり、同時に第一分隊の伍長でもあった*49

連隊長は中隊長や上級軍曹の中から選出され、中隊長は副官や軍曹の中から、副官や軍曹は旗手や軍曹助手から選出された。 経験豊かな兵士は第一分隊に集められ、連隊長の参謀としての役割を果たした。

このような構造を持つことで、王権による兵員の管理と統制体制が確立され、理論上は即時に利用可能な軍事力が誕生したのである。 さらにこの構造は、役割の細分化による専門性の向上だけでなく、キャリアパスが明確化されたことによって軍隊内の地位向上が社会的地位向上に結びつく契機ともなった。

ルシオは現代軍制の特徴である連隊制の直接の祖先であり、改組を繰り返しながら現代まで続いている部隊も存在する。 もちろんカトリック両王の時代の一連の軍制改革はテルシオのような組織を最終目的としていたわけではなく、むしろその都度の問題に対処しようとする中で事後対応的に行われたものであり、結果的に現代にまでつながる軍制が誕生したにすぎない。

一方で、王権の管理下にある強力な軍隊の登場は新たな問題を引き起こすことにもなった。 中世的軍隊を支配し、近世においても社会的に強力な階層であった貴族が依然として常備軍内部に留まる一方で、恒常化した軍隊の中で長期に渡り経験を積んだ兵士たちは軍隊における欠かすことのできない存在となっていた。

やがてこの両者間では士官昇任を巡る争いが起きるのである。

理論上、テルシオの連隊長に任命されるには王の認可が必要であった。 しかし、遠隔地の場合、王の代理人として軍隊を指揮する総督─Generalísimoによる推薦が実質的な認可基準となっており、王によるコントロールが弱められる結果を産んだ。 また、既存の部隊の中隊長を新たに任命する場合、総督が任命権限を有していた。 しかし連隊長中隊長いずれも推薦や任命のための基準が17世紀まで存在せず、属人的な基準に頼っていたために必然的に縁故主義が蔓延った*50

こうした縁故主義により、長い経験を持ち、その資質を見出された結果昇進した経験豊かな士官と、社会的地位や上級指揮官との縁故、財産を背景に地位を手に入れた士官という二種類の士官が誕生した*51

このような士官選定に関わる問題は16世紀中頃から注目を集め始め、同時に盛んになったスペイン軍内部の軍事著述家による執筆活動の中で、士官の適性について議論が行われていく*52。 この議論の中では「縁故や財力により不適切な地位にある士官」、つまり主に貴族出身で十分な軍歴を持たない士官が攻撃対象となり、実力主義的な風潮が高まった。 しかしこうした風潮は必ずしも支配的になるまでに至らなかった。 1632年のオリバーレスによるスペイン軍人事制度の改革は、こうした論争の中庸を取り、士官への昇任に必要な年数を定める一方で、貴族出身者とそれ以外のもので必要な年数が異なっていた。 貴族出身者はより短い年数で昇任することが可能であったのである。

この中庸案は抜本的な改革となりうる可能性を秘めていたが、しかし、この時期には国家としてのスペインはすでに危機的状況を迎えており、この改革も挫折したため、ついにこの問題は解決されることがなかったのである。

まとめ

本稿では中世期から常備軍の成立に至るまでのスペイン軍事史を紹介した。

中世スペインでは貴族や財産をもつ市民が騎士となり、それ以外の民兵と共に軍事力となった。 いわゆる「戦争のために組織された社会」である。

やがて騎士たちは行政権力と結びついて行き、徐々に強力になっていき、王権との衝突が繰り返されることとなる。

カトリック両王期には半ば場当たり的な軍制改革が繰り返された。 都市民兵改革や要塞改革はそれぞれ別個の目的によって行われており、統一的な意思決定は見られない。

しかしその結果として1530年代には即応部隊であるテルシオが整備され、スペインは現代に続く常備軍制度を手に入れることとなる。

設立された常備軍の各部隊の士官・スタッフの役割と責任範囲は明確化され、専門性が求められた。 さらに軍隊内のキャリアパスが明確化されることで軍隊での昇進が社会的な地位の上昇につながるという発想が生まれることになった。

一方で、この新たな社会とも呼べる組織の中では、中世以来軍隊を支配してきた貴族たちと、新たに生まれた専門的兵士との間でついに解決することがなかった争いが生まれることとなったのである。

この争いについてもっと知りたい人は『Road to Rocroi』を読もう。

以上

*1:D.W.ローマックス, "レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動", p136-138

*2:D.W.ローマックス, レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動, p136-138

*3:Elena Lourie, A Society Organized for War p55-57

*4:Lourie, p74-76

*5:Lourie, p60

*6:Lourie, p63-64

*7:Ana Belén Sánchez Prieto , LA FORMACION DE UN EJERCITO NOBILIARIO AL FINAL DE LA EDAD MEDIA, La organización militar en los siglos XV y XVI, p173-175

*8:James F. Powers, Townsmen and Soldiers: The Interaction of Urban and Military Organization in the Militias of Mediaeval Castile, Speculum Vol. 46, No. 4, p648-649

*9:Lourie, p57

*10:tatalayero

*11:escribanoまたはnotario

*12:Powers, p654

*13:Miguel-Ángel Ladero Quesada, FORMACION Y FUNCIONAMIENTO DE LAS HUESTES REALES EN CASTILLA DURANTEL SIGLO XV, La organización militar en los siglos XV y XVI, p167

*14:Manuel González Jiménez, *LAS MILICIAS CONCEJILES ANDALUZAS (SIGLOS XIII-XV)", ibid, p233-235; 登録されている人口は家長男子のみを算出していると考えられる

*15:Jiménez, , p232

*16:Jiménez,, p237

*17:Lourie, p71

*18:Powers, p642

*19:Lourie, p70-74

*20:Thomas Devaney, Virtue, Virility, and History in Fifteenth-Century Castile, Speculum, Vol. 88, No. 3, p721-737

*21:Stewart, p31

*22:Stewart, p180-181

*23:Stewart, p42, p202

*24:Stewart, p184-185

*25:René Quatrefages, "Organización militar en los siglos XVI y XVI", La organización militar en los siglos XV y XVI, p12

*26:Francisco Arias Marco, "ACLARACIONESN TORNO A IAS CORONELÍAS Y LOS TERCIOS", ibid, p217-218

*27:Stewart, p191-193

*28:Stewart, p34

*29:前述の通り、カスティーリャでは軍役奉仕の見返りに金銭が支払われていた。Stewart, p33, p46, p89-90

*30:Stewart, p90

*31:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/dT8Oi6v

*32:Quesada, p162

*33:Stewart, p201-204

*34:Stewart, p90,p189-191

*35:Stewart, p146

*36:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/cR02Dm4

*37:Stewart, p189-191

*38:Stewart, p191-193

*39:Stewart, p139 なおこれより以前にスイス傭兵による軍事教練が行われている

*40:Stewart, p42, p137-138, p194-195, p205

*41:Stewart, p159-161, p202

*42:Stewart, p38-39

*43:Stewart, p159

*44:Stewart, p208

*45:Stewart, p293

*46:Stewart, p60

*47:Stewart, p208

*48:なお、これ以前からテルシオという名称を持つ部隊は存在していた

*49:Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, p233

*50:Fernando González de León, The Road to Rocroi, p17-35

*51:必ずしも後者のみが縁故主義の結果生まれたわけではない。上級指揮官からの庇護によりり士官に昇進した前者の例もごく簡単に見出すことができる。また後者が常に軍事的に無能であったわけでもない。後者の最も有名な例はアンブロージオ・スピノラである。

*52:Fernando González de León, "Doctors of the Military Discipline": Technical Expertise and the Paradigm of the Spanish Soldier in the Early Modern Period, The Sixteenth Century Journal, Vol. 27, No. 1, p61-64