三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

SNSに投稿していた軍事史系の本・論文の感想まとめ

これまで読んだ本の感想はメモがてらSNSに投げていたが、3つくらいのSNSを渡り歩いた結果感想文が分散してしまい、探しにくくなったのでここにまとめる。

乾淑子著『着物になった〈戦争〉 時代が求めた戦争柄』

明治から昭和にかけて、軍人や兵器など戦争に関する図柄を用いた着物に関する本。現代から見ると引くような柄の着物が大量に出てくる。 個人的に1番印象に残ったのが国債が柄として使われている乳幼児向け襦袢で、武運長久を祈り武具を飾る価値観の延長として、同様に兵器とみなされていた国債が男児向けの吉祥絵柄として利用された、と著者は推測している。
時代精神の一端みたいな問題が伺えるなかなかすごい本だった
本の中に出てくる多くの着物は著者が所蔵しているものだそうでそういう点でもすごい

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Warwick Louth著『THE ARTE MILITAIRE The Application of 17th Century Manuals to Conflict Archaeology』

タイトル通り、紛争考古学研究に17世紀の軍事マニュアルを使った分析を持ち込めないかという話。どのように持ち込むかという方法論的な話だと解釈した。
ネイズビーの戦い等の戦場調査を通して方法を示していく感じだが、地図や図表が少なめでイングランド内戦での個々の戦いの知識をめちゃくちゃ要求される感じがあり、正直あまり理解できてない。
ただし攻城戦における分析はかなり興味深かった。著者によると着弾跡をマッピングできればそこから90度の扇形の範囲内に攻囲側の火点が存在することを想定でき、攻囲側の設備と包囲される都市との関連性を調査できる可能性があるらしい
日本の城でも同じようなことできないかなと思った

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Rachel Midura著『Postal Intelligence』

想像以上にスパイ・諜報・検閲の分量が多い。
前半はほぼ郵便局を拠点として行われた諜報と防諜、暗号とその復号、陰謀とスパイ狩り、他国の郵便局との対決の話で占められてる。 後半は郵便制度が商業化していく過程を追っていくが、旅行知識というソフト面にも焦点が当てられており興味深い。あとここでも人が火炙りになったりしている。
諜報・防諜組織の商業化、という流れが整然としていて理解しやすい上に近世ヨーロッパの諜報活動の資料としても使えそうで邦訳されたらいろんな影響与えそうな本だった
スペインの兌換式暗号を破る話とか手紙を無断で開封したことがバレないように水銀を使う手法とか読めるが良すぎる。 日本の近代郵便制度における検閲体制とかも知りたくなってくる

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野上元著『私たちの戦争社会学入門』

大学の一般教養講義のような体裁をとった入門書という感じ。 本書の目的は現代の軍隊と社会について読者に考えさせることにあるようで、軍隊と戦争に関する歴史的な解説は映画の描写を例にあげたりと割とおざなりな印象を受ける
マーシャルに関してはなぜか伝聞形で両論併記されるし、機関銃の社会史の扱いも慎重になった方がいいのではと感じた 本書の前半部、冷戦以前の記述はかなり眉唾感があり、特にフィクションである映画を参考にしていくのは入門書とはいえかなり問題なんではと思った
逆に後半部、冷戦期以降の軍隊の課題と実情は良く見える(単に自分に知識がないからかもしれない) 著者の唱える軍隊と社会の再帰性には納得感が強い
核兵器の記号消費論とかには異論ありそうだが、RMAの流行って軍人による記号消費と言えるんじゃないかという気がした。 総じて本書の目的のためにより重要なのは後半部で、そこをもっとボリューム持たせた方が良かったんじゃないか、という感想

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Frédéric Chauviré著『THE NEW KNIGHTS The Development of Cavalry in Western Europe, 1562–1700』

悪いところと良いところが明確な内容だった。
まず著者が主にフランス語と英語の史料と先行研究に依拠しているのが明確な欠点になってる。MelzoやBastaといったスペイン・イタリア系の軍人の著書も引用されてはいるが、精読されて無さそう。
グスタフアドルフの神話化にハマっていそうな雰囲気もあり、正直30年戦争周辺の記述はあまり当てにならないなと感じた
30年戦争以降の記述はフランス語圏の内容しか出てこなくなるが、却って著者の知識と噛み合うようになりグッと良くなった印象がある(単に自分の知識が足りなくて変なところに気付けないだけかもしれない)
騎兵の火力と速度と機動の関係とその史的な展開もよく整理されてて良いと思った。
隊列を保ったまま速歩で接近してピストルで射撃し回頭する、というカラコール的な戦術が17世紀後半以降も利用されてたというのは知らなかった。 突撃の様相を騎兵個人の視点から叙述していく箇所も好き。
問題はいろいろある気がするが、全体的に読んでよかった、勉強になったと思える本だった

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旗代太田著『【抜粋翻訳】イタリア戦争の戦争術 1494-1529 第5章〜第8章』

フレデリック・ルイス・テイラーによる著作の私訳で、邦語で読めるほぼ唯一のイタリア戦争軍事史本の最終巻。
相変わらず訳注の充実っぷりがすごく、出版社とかが目をつけて出版してほしさがある。
最後のルネサンス期の古典復興の影響について、テイラーは理論的な影響に留まるとしている点、16世紀の軍事書に古代との共通点だけでなく相違点を挙げるものが存在しており、古代に対する理想化が強くないことを考えると同意できるなと。
ルネサンス期のイベリア半島はイベリアナショナリズムからくる反古代ローマ感情が存在していたが、軍事分野ではそれがあまり見られないという指摘があり、当時の軍事書に古代の理想化があまり見受けられない点をどう考えるか迷っていたのでテイラーの指摘は有益だった。

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Nina Lamal著『Publishing Military Books in the Low Countries and in Italy in the Early Seventeenth Century』

17世紀初頭の軍事書の出版について、読者層や著者ではなく、出版者とその販売戦略に着目したエッセイ。
あんまり意識したことなかったが、アントワープやブリュッセルでイタリア語やスペイン語の軍事本が出版されるという状況ってスペインやイタリアの軍隊が駐留しているという前提がないと起こり得ないものなんだなということによんでて気づいた。
このエッセイだと評判のいい本=売れ筋は何度も再販が繰り返されていて、違う出版者が出すこともあれば挿絵が追加されたりもしており、著者の許可とか利益還元とか無さそうに見える。著作権法のない時代恐ろしい。
どういう本がどれくらい再販されたのか、というデータベースがあれば評価の変遷とか追いやすそうなので誰か作ってくれないものか。

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Lucian Staino-Daniels著『A Brief Introduction to Seventeenth-Century Military Manuscripts and Military Literacy』

30年戦争中のザクセン公国軍の兵員簿や給与受け取り記録のような軍隊の事務文書と兵士の識字能力についての小論文。
事務文書については文書記録そのものではなく、文書に使われている用紙や字体、様式についての話が載っており、歩兵と騎兵で記録の様式がかなり異なっていて文化の違いを感じさせるのが面白い。
ザクセン公国軍の場合、歩兵の方がより厳格な様式と字体だったらしく、途中で出てくる比較画像が面白い。
識字率について、著者はある騎兵一個中隊の給与受け取り記録に記された兵士自身の署名から80%程度の識字率があったと推定しているが、当時の軍隊では伍長レベルでもある程度の数学能力やメモを使った指令の伝達が想定されていたことを考えるとあながり間違いではない気がする。 もっと大規模に調べたらかなり面白そう

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Sander Govaerts著『Horse Archery in Medieval Northwestern Europe. 400-1500: A Study of a Forgotten Military Tradition.』

Journal of Medieval Military Historyに掲載された論文だが読んだのは著者がacademia.eduで公開してる最終ドラフト版。
タイトル通りイングランドや低地地方、フランスなど北西ヨーロッパにおいて従来は否定されていた馬上から弓射を行う弓騎兵が後古典期以降から継続的に存在していたとする内容。

著者の考えでは鷹狩りなどと共に上流階級における狩猟法として東方からもたらされた馬上弓射は、中世を通して少数ながら一部の厳しい訓練を積んだエリート貴族や狩人などに受け継がれ、戦争にも利用されたという。
同様に馬上で投射兵器を扱う兵種としてクロスボウ騎兵にも内容が割かれており、ボヘミアやオーストリアでは15世紀以降騎兵のうちかなりの割合をクロスボウ騎兵が占めるようになり、のちのピストル騎兵の先駆者としている。
当時の狩猟書や図像史料・軍事書だけじゃなく文学面から弓・クロスボウの社会的地位について述べてたりと興味深い内容だがいかんせん正誤について論評できるだけの知識がない。
ただ騎乗しながらクロスボウを扱い、狩猟を行う行為自体はフェリペ2世などもやっていたので、上流階級の外交の一環として行われる狩猟に弓騎兵が利用されていたとする著者の仮説にはそれほど違和感がなかった。

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平田昌司著「『孫子』の読書史」

クソ面白い。
タイトル通り孫子の書かれた古代中国から現代アメリカまで、孫子がどのように受容され、読まれていったのかを写本の変遷を踏まえつつ丁寧に辿っていく内容。
紀元前の時点で単なる兵書としての枠を超えて当時の商人に読まれていた形跡があるらしく、孫子を読むビジネスマンそんな時代からいたんだとなった。この辺り「‘ゆるさ’の享受」の根強さを伺わせて面白い。

日本では孫子が何度か忘却されては復活するという事を繰り返してるっぽいのは興味を惹かれる。今後また忘れられたりする日が来るんだろうか。
欧米での受容史も興味深い。
アメリカでの孫子受容が第二次大戦後の中国共産党の台頭をきっかけにしているということは、今後中国共産党が衰退したりすればアメリカでは孫子が顧みられなくなる可能性があったりするんだろうか、クラウゼヴィッツの場合はどうなのか?とかいろいろ考える。
著者自身の孫子の読み方も歴史の積み重ねの一つという感があって構成の妙って感じだった。

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Silvia Mostaccio編『Ambrogio Spinola between Genoa, Flanders, and Spain』

アンブロージオ・スピノラの母や弟、妻、支援者、友人、政敵などとの人間関係+人事と、スピノラ自身の評価がどのように構築されたのかを同時代の出版物やフレスコ画、絵画、装飾から読み解いていく論集で構成されている。
当時のパンフレットを分析した第三部第1章はかなり面白く、1605年〜1606年のフリースラント遠征中から行軍の詳細や攻略された都市の重要性、ロジスティクス維持能力の解説みたいなのがイタリアやアントワープで出回っており、当時の「認知戦」の実態が窺えた
人間関係周りの話も面白く、アンブリージオのスペイン軍出仕を弟のフェデリコと協働した「家族プロジェクト」だったとする見方や、母親による教育、共和主義者だった従兄弟からの批判なんかもあり面白い。
ジェノヴァに残った妻にもこうした一族家内関係でなんらかの役割あったんじゃないか?ってのが疑問として残った。 政敵だったLuis de Velascoの話も多くかなり満足した。
人事周りだけでも読む価値がある。
ただ内容は面白かったのに閲覧アプリがよくなかった。
今回ルーベン大学出版会のサイトから電子版を直接購入したんだけど読む際はGlassboxxというアプリで閲覧する、というシステムだった このGlassboxxはなぜか付箋機能も検索機能もなく、電子版購入した意味の7割くらいが消えた

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Scott Boston著『Toward a Protected Future Force』

2004年に発表された文章で、当時米陸軍で進められていたフューチャーコンバットシステム(FCS)という将来戦装備調達計画の中で、戦車を置き換える将来戦闘車両が比較的軽装甲であることを批判してたもの。
著者の想定する将来戦が市街地における近接戦闘だったり、相手もニアピアというより格下を想定しているっぽく、2024年に読むとレトロフューチャー感がある。
FCS で想定されていたネットワーク戦に関する批判なんかは逆に今の視点から見ると解決可能に見える
この文書にもFCSに対しても、当時想定されていた将来戦について答え合わせ的なことができそうなのは面白い

あとやはり現代での戦車の意義の語られ方は、近接戦闘での装甲の優位性や他兵科兵種との協働の強調など17世紀初頭の重装騎兵論と似ているってことが確認できた気がする

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渡辺信吾著『中世ヨーロッパの軍隊と戦術』

中世ヨーロッパと言いつつ後期ローマ帝国から記述が始まり主にフランスとイギリスを中心にしながらイタリアやスイスなどにも触れていく構成で、各国ごとのパートではその国の独自性に注意が払われていて過度な一般化を避けた記述になっており、執筆大変だったろうなという印象があった。
「軍隊」パートで取り上げられている事柄が結構幅広く、女性を含む非戦闘員の従軍についても触れられている。

「間口が広くて濃密な入門書」としてはかなり良いのでは。

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Álvaro Soler del Campo著『La producción de armas personales (1500-1700) 』

タイトル通り個人が使用する小火器や鎧、剣などの武器生産とその生産地についての論考で、具体的な数値が多く興味深い。
例えば1543年、当時スペイン王室の主要武器調達先の一つであったバスク州エルゴイバルのある工房では砲兵総監の依頼により18ヵ月で15000丁のアルケブスと同数の火薬入れ、5000個のモリオン兜と2000本のパイクを生産した。
当時の武器生産は分業化が進んでいたため、この事例でも一つの工房だけでなく他地域の工房を含めた複数の武器職人との合同プロジェクトだったと考えられるが、単純計算で1日あたり27個のアルケブスとモリオンォ作らなきゃいけないわけで、プロジェクト管理だけでも大変そう。
しかもこの事例は特殊なものではなかった可能性が高いという。 当時の武器生産者に求められた能力は、単に武器を作る能力だけでなく、こうした巨大なプロジェクトの管理能力も求められることもあった、という理解。

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Keith Dowen著『THE SEVENTEENTH CENTURY BUFF-COAT』

17世紀に金属甲冑に代わって着用されるようになったバフコートについてのエッセイ。
個人的に興味を惹かれたのがイングランド内戦時のバフコートの価格に関する記述で、著 者は胸甲騎兵の甲冑に比べて半額程度、槍兵の防具の倍額であり、火縄銃騎兵の甲冑とだいたい同額くらいとしている。
これが妥当だとすると金属甲冑からバフコートへの移行要因を経済的なコストで説明することはどの程度妥当なのか、という議論になりそうな気がした
著者は武器・防具研究の文脈でこのエッセイを書いているっぽく、製法やデザインに割と多めに尺が取られている
普通の皮革製品と違って革鞣しに海棲哺乳類の脂肪を使ったりするとか、革鞣し自体のやり方も詳しく書いてあって割と面白い。
そもそもバフコート自体ほとんど研究されてこなかった、という話はちょっとわかるものがある

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清水有子著『近世日本の形成とキリシタン』

平川新らのイベリアインパクト論批判の内容かと思ったらタイトル通り「近世日本の形成」に関わる内容でびっくりした。

日本におけるキリシタンの受容とその規制から完全な排除に至る動向をイベリア勢力脅威認識論へのクリティカルな反論を含みながら追っかけ、最終的に『鎖国』体制の成立を描く内容で、日本史詳しくないがかなり刺激的な内容なんじゃないかと思われる。
秀吉の宣教師追放令が、国外勢力への侵略に対処するためでなく、一向一揆との経験を踏まえた宗教統制策として行われ、徳川政権下で宣教勢力の変化や南蛮貿易を代替する新教国の登場を受けて強化されていく流れがわかりやすい。
個人的に面白かったのが第三部第三章の国外向け国書に使われた紙や入れられた箱を検討していくパートで、新興の『南蛮』勢力との外交を割と手探り感覚でやってた要素があるのかなと思った。
またインド副王宛書簡の訳文作成で、秀吉が書簡本文との差異を許容していたように読めたけど、これはルソン向け書状でも同様に秀吉の許可のもとで訳文の改変が行われていた可能性があると考えていいんだろうか?

単なるイベリアインパクト論への反論だけでなく、歴史学のより広い範囲に影響与える可能性を感じる面白い本だった。

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アントゥリオ・エチェヴァリア著『Military Strategy: A Very Short Introduction』

軍事戦略の分類とそれぞれに関する要約・実例による限界の解説って感じで大変読みやすくてよかった。 軍事理論系の本なのに読んでいても眠くならないのはすごい。

個人的には抑止戦略の限界の一つとして「抑止の効果は判断できないケースがある」というのと「Cyber power」に関して著者が陸戦や海戦の用語を借用して解説することに否定的だったのが印象に残った。

サイバー領域に関しては侵害や拒否が行われるバイナリ領域と情報戦や宣伝戦が行われるノンバイナリ領域を分けた方がいい気がするけど、この本の発行以降だとどうなってるのか割と気になる。

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Faith S Harden著『Arms and Letters』

近世スペインの8人の軍人・元兵士の自伝的著作について分析した本で、軍事史というより文学評論に近い。
普段軍事史の本の中で見かけない単語や表現、言い回しがいっぱい出てきて読むのにめちゃくちゃ時間がかかってしまった。
ただ近世ヨーロッパの元兵士の自伝の評論をやるというコンセプトがまず割とおもしく、著者の分析も参考になる点が多い。
著者の焦点は兵士たちの持つ栄誉(Honra)概念に当てられていて、異なる時代・地域で活動していた兵士たちがどのような栄誉を求めていたのかを解明していく。
結論としては、兵士にとって栄誉とは経験的に構築されるもので、異なる経験によって異なる栄誉概念が構築されていく、また逆にここの兵士の持つ栄誉概念から兵士個人の経験を推察できる、という感じだった。
実際この本の中でも兵士個々人の著作に現れる個人的な経験に注目していて、そこが面白い。

取り上げられている兵士のキャリアも多彩で家畜泥棒からゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルトバの側近にまで成り上がったとか騙されて北アフリカの要塞に連れて行かれた後12年間そこにいて不正な手段使ってイタリアに脱走した後とある街の有力な家に婿入りして歴史書の執筆をやるけど結局未完とか修道院から脱走して男装して南米に渡り兵士になるとかあって良い。
兵士たちの価値観の理解だけでなく、当時の著作をどう解釈していくかという点でも読んで良かったと思った。
ただ難しい英語を使いまくってるのでちゃんと理解できている気はあんまりしない。邦訳してほしい。

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Alberto Raúl Esteban Ribas著『THE BATTLE OF NORDLINGEN 1634』

結論部の「なぜネルトリンゲンの戦いはブライテンフェルトやリュッツェンと比べて重要視されないのか?」という著者の問いは30年戦争期の戦史研究のバイアスを指摘してて面白いものがある。
個人的にはグスタフ・アドルフを英雄視する史観の影響をずっと引きずっているイメージがあり、戦例研究で対象とする戦例の選別とそのバイアスが研究史にどういう影響を与えたか、という点では他の時代・地域においても問題だよなと思ったりした。

なお本の内容としてはスペイン側から描くネルトリンゲンという感じで、この本自体にスペイン側へのバイアスがかかっとらんかと感じなくもない。 それでも夜戦の経緯などが詳しくわかる記述があったりと大体満足した。
Heilon社の電子書籍買ってみたの初めてだが、PDFで買うとkindleより安いのかなりよかった。このシリーズからはいろんな時代地域の戦史が出ていて何故か肥後国人一揆の本があったりする
www.helion.co.uk/military-his... 分厚いオスプレイ戦史シリーズみたいなコンセプトかもしれない

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John K. Thornton著『The Art of War in Angola, 1575-1680』

題名通りポルトガルの中央アフリカに対する侵攻における戦術と戦争がどのような性質を持っていたか、という点を解説した論考で、ヨーロッパと「非ヨーロッパ」の比較軍事史として優秀な気がする。 舞台となる中央アフリカでは馬の長期的な維持が困難なためアンゴラ側の兵士が取る散開隊系に対する有効策がなく、むしろ胸甲と剣で武装した重装歩兵が決戦兵力として重要だったとか興味深い観点が多い。

軍事的な面から見るとアフリカ諸国がヨーロッパ化したのではなく、ヨーロッパ勢力がアフリカ化した、と言えそうな結論になるのも良い。 「軍事的合理性」の環境決定論的側面を割と強く感じさせてくる。

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Treva J. Tucker著『Eminence over Efficacy: Social Status and Cavalry Service in Sixteenth-Century France』

読んだ。重装騎兵や胸甲騎兵などの騎兵種の持つ社会的ステータスに注目した論文で、16世紀のフランスでは重装槍騎兵の社会的ステータスというか人気が貴族層のなかであまりに高かったため、軍事的効果よりも個人的武勇を発揮できる兵種や戦術を優先していたのではと考察している。

割と疑問符が多く、例えばフランスで中騎兵の地位が低かったなら短銃を装備した胸甲騎兵が生まれたドイツではどうなのかとかいろいろ疑問が浮かぶ。
ただカラコールに対して個人的栄誉を発揮しやすい戦術であるように見えるために人気が出たのでは、とするのは眉唾 したくなるが面白い視点ではあると思った。
あと著者の提示するフランスにおける短銃を装備した胸甲騎兵と縦深の深い騎兵隊列が普及していくタイムスケール(最初にフランス騎兵がドイツ胸甲騎兵に敗北してから30年ちょっとでフランス内に普及し終え優位を確立)は割と説得力を感じる
ドイツやフランドルの状況と比較したくなる感じだった。

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Olli Bäckström著『Military Revolution and the Thirty Years War 1618–1648: Aspects of Institutional Change and Decline』

騎兵・民兵・常備軍・兵站組織の四つの組織が30年戦争を通してどのように変化あるいは衰退したのかを通してロバーツの軍事革命論を論じ直すという内容で、社会学や組織論の理論が近世の軍事的組織に対して適用されていく内容が割と興味深い。
著者は30年戦争の時期に軍隊に大きな変化が起きていたとする立場で、変化の要因ではなく各々の組織にどのような変化が起きていたのかを論じていく。
組織のライフサイクル論や階層化、特殊化みたいな軍事史ではあまり見ない概念が出てくるので軍事史というより社会史の本なのかもしれない。 ただそれでもこの本で対象となる7カ国の各組織の変遷を知れる点で有益だし特にデンマークの記述がかなり詳細なのは珍しいんじゃないかという気がする。
軍事的な効率性みたいな側面がほとんどされてないにも関わらず、社会学理論だけで近世の国家が軍隊への統制を強めていく過程が説明できるのは面白いなと思った。

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サビーネ・フリューシュトゥック著『「戦争ごっこ」の近現代史』

在日米軍が「萌えキャラ」を広報宣伝に使っていることに対して米軍内部の性暴力事件を引いて問題視されない理由がわからない、と言っているが、性的暴行の告発後だと自衛隊にもそのまま適用できそうになってしまった。
原著が2017年。

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林田敏子著『軍事作戦とフェミニニティ』

ジェンダー軍事史でたまに出てくるジェンダー規範を守ろうとして滑稽なことになるやつかなり好きかもしれん

開戦の前年である1938年に出された法令は、女性がいかなる武器を使用することも禁じていたため(Peniston-Bird 2014, p. 13)、AA 部隊の女性の任務は敵機の位置を確認し、これに照準を定めるところまでとされた。高射砲に弾を充填し、発砲できるのは砲手(gunner)と呼ばれる男性戦闘員のみで、たとえ標的が無人パイロット兵器であったとしても、女性はこれを「殺す」ことは許されなかった。高射砲を操作する砲手は戦闘員、そのすぐそばで高度測定機を扱う女性は非戦闘員という建前が維持されたのである

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Hélder Carvalhal著『THE FIRST WORLD EMPIRE Portugal, War and Military Revolution』

近世ポルトガル軍事史の話だが、ポルトガルがヨーロッパ内の戦争に比較的加わっていなかったこともあってヨーロッパ外の話が多くかなり新鮮だった。あとLorraine Whiteが書いてたのも嬉しい驚きだった。
内容は砲兵技術者の人間関係から東南アジアの現地民の手による要塞まで幅広く、特にポルトガルのアフリカ侵攻を取り上げたMiguel Geraldes Rodrigues『The Portuguese conquest of Angola in the sixteenth and seventeenth centuries (1575–1641): a military revolution in West Central Africa?』はめちゃくちゃ良かった。騎兵が存在できない環境で散兵として戦う弓兵がめちゃくちゃ強いの異世界転生みてえだみたいな雑感想が浮かんできた。
軍事史研究が国際化に進むことは良いことだと確信させる内容で、もっとヨーロッパ外に特化した本が読みたくなる。

https://fedibird.com/@a3dayo/111217271376364204

Tomoaki Shinoda著『Development of a standing army in 15th- and 16th-century al-Maghrib al-Aqṣā』

アフリカにおけるポルトガルと現地の関係描いた論文として面白い。
知らない固有名詞ばかりなので理解できてるかは謎だがMakhzaniyyahという語が当初はポルトガル麾下の税金から支払いを受けるムスリム騎兵部隊に対して使われ、後にその対象範囲が広がっていくというのは軍事を通した交流みたいなダイナミクスがある

https://fedibird.com/@a3dayo/110365605837539478

CHARLES H. CARTER著『BELGIAN "AUTONOMY" UNDER THE ARCHDUKES, 1598-1621』

アルブレヒト大公時代のスペイン領ネーデルラントの自立性についてのエッセイで、割と示唆に富むところが多い。 著者はベルギーの歴史家による自立性を強調する主張についてかなり批判的で、あくまで状況に応じてアルブレヒト自身が発揮した能力によってそう見えているだけとする。

面白いのはこの能力がフランドル駐留軍トップのアンブロージオ・スピノラやスペイン人であり、フランドルにおけるスペイン軍関係行政を行う機関のトップJuan de Mancicidorとの個人的な関係に依っていたと著者が捉えているっぽい点。

特にスペイン側の本来の意図としてはMancicidorは監視役だったろうにそれを取り込むことによってある程度自立してしまうという。

このエッセイ自体は1960年台のもののため、割と軍隊への影響力などについては古いんじゃないかと思うが、それでも面白い点が多かった。

メモ:1627年の結婚した兵士は今後昇進を認めないとする実質的な結婚禁止令

https://fedibird.com/@a3dayo/110232183297372632

兵勢社『征論』

こういう複数テーマで複数人が書くやつはいろんな見方があったり予想外のことを知れたりするが、テーマの多様性度合いが凄すぎる。

「ウクライナでの戦争 ─視点・論点の整理─」はタイトル通り戦争の記述よりも戦争に対してどのような論じられ方があるかという整理だった。出典の偏りという弱点はあるにせよこうした整理は現在進行形で起こる不確かな情報に溢れたイベントでは重要と言えそう。

「ウクライナのユニコーン ─Gitlab─」はウクライナのユニコーン企業の紹介。転職してえ〜となったがスキルがない。

「Lorraine戦役とその忘れられた論争について」これは議論が予想外の方向に進んでいき大変良かった。正反対の評価を下した論者たちの背景に焦点当てて戦史研究の一種の政治的利用を浮かび上がらせていくのがすごい。こういうのがきっかけになって戦役自体が思い起こされると良い。

「クストリッツァ映画作品レビュー集」一読してアンダーグラウンドの監督がマラドーナのドキュメンタリー撮ってたことにかなり驚いた。かなり詳細なレビューで映画見なくても知ったような気になれてしまいそう。黒猫・白猫が気になる。

「フランス敗れたり現象を考える」ヨーロッパ西部戦線でのフランス敗北が日本である種のブームになった要因について探る論考。これも非常に良かった。つい直近の戦争の受け取られ方と雑な比較をやってみたくなってしまう。

「人民解放軍の火力誘導部隊」PLAの空陸協同の取り組みを中国国内の報道から追った論考。 本論とはあまり関係ないが「軍隊の高度化」の実態について垣間見えるところがあって興味深い。あと主に教育体制や役職といった面に注目してるが機材などのハードウェアにも変化が見られるんだろうかというのが気になった。

「第二次ロンドン軍縮会議と宣伝」これも面白い。軍部による直接的な戦史の政治利用例と言えそう。

「CVA-01とインヴィンシブル級」軍事力がどのような経緯を経て成立したかという話。全くの門外漢ながら非常にバランスが良いように感じた。軍事的な合理性よりもむしろその時々の都合によってしばしば予測できない方向に変化していくものだと実感させられる。「スエズ以東」概念が気になってくる

世相を反映したのか、直球の戦史というより戦史の語られ方にフォーカスしたものが多い印象を受けた。

https://fedibird.com/@a3dayo/109705802435458032

Paul James Stewart著『THE ARMY OF THE CATHOLIC KINGS:SPANISH MILITARY ORGANIZATION AND ADMINISTRATION IN THE REIGN OF FERDINAND AND ISABELLA, 1474-1516.』

フェルディナンド2世時代の軍事改革を扱った論文で1536年にテルシオが登場するまでの変化がかなり詳細に書かれてる。

元々都市の自衛組織だったHermandadが王権の下に組み込まれていく経緯や、軍隊の人事権を王室が握る経緯などは今までよく知らなかったのでありがたい。

イベリア半島沿岸部の要塞駐屯部隊の監督の話はかなり参考になり、「16世紀のスペイン軍の組織改革はイベリア半島で起こり、戦術改革はイタリア半島で起こった」とする見解の理解度がかなり深まった。

当初騎兵部隊が先行していた「常備軍化」が最終的に歩兵に波及する流れとして重要でもありそう。

1961年の論文だが他に類書もあまりなさそうなのでかなりいいものを読んだ。

https://fedibird.com/@a3dayo/109931343304404250

Gregory Hanlon著『Italy 1636: Cemetery of Armies』

三十年戦争史の中でもあまり触れられることのないイタリア戦役について、Tornaventoの戦いを中心に1636年のキャンペーンを詳述した本。個々の記述には疑問点もあるが、全体的に面白かった。

フランスのイタリア侵攻計画に始まりsmall war的な敵地の経済破壊を目的とした行軍中の掠奪・破壊行為や、対抗するスペイン・ハプスブルク家の防衛計画、さらにTornaventoの戦い後の負傷者の治療や蔓延する疫病、当時の衛生意識などにページ数を割き、

会戦だけでなくその前後の両軍の行動を書くのはかなり良い。 特に会戦後のスペイン軍の追撃はイェンガムの戦いを思い起こさせる感じで興味深い。 こういう形で戦役全体を描く叙述は三十年戦争後半ではそれなりに貴重なんじゃないかと思う

一方で、問題点としては兵士の戦闘意欲について進化心理学持ち出す箇所や、当時の銃撃戦で死傷者が少ない理由にグロスマンやマーシャルの説明を出してくるのはかなり問題があると感じる。
前者についてはそもそも進化心理学自体がevo-devなどのここ40年くらいの進化生物学の知見をまるっと無視してそうなところが原因っぽいが、後者はこの本の中の記述とも矛盾してねえかという気がした。

https://fedibird.com/@a3dayo/109778949505407397

藤田達生著『戦国日本の軍事革命』

前提知識全く足りないまま読んだが銃兵訓練の必要性→財政基盤の必要性→集権体制の確立というまさに古典的なやつで、砲術師・鉄砲隊の専門性に着目するのは良いと思ったがそこから石高制の成立に話を持っていくのは突っ込みどころいっぱいありそうという感じ。 この本そのものではなくこの本への批判が有益なものになりそうな雰囲気はある。 あと斉射戦術に関してジェフリー・パーカーを持ち出すのはやめた方が良いのと第二章あんまり必要なくない?という気がした。

https://x.com/a3dayo/status/1516147721085734912?s=20

Paul Sutton著『The Anglo-Spanish War 1655-1660』

イギリスの南米スペイン植民地攻略のための遠征がすごい勢いで失敗する話だった。 陸軍が1年弱で実働人員2割になったり、上級指揮官5人全員が離脱又は死亡して指揮とる人間がいなくなったりととにかく凄まじい。 最初の拠点攻略作戦のサント・ドミンゴの時点で陸・海軍間の不和が原因で主力の上陸地点の選出を誤り、上陸してからは暑さと乾きに悩まされ、ようやく目標に着いても指揮官の不明確な判断で反転し、宿営地は人口過密すぎて疫病が流行し、主導権も失い二度目の攻撃も道中で待ち伏せを食い失敗、その結果士気喪失して人口も防備も少ないジャマイカに転進し、街の一つを占領するが、島の大部分を降伏させることに失敗して街に押し込められ、そこに飢餓と疫病が襲いかかり、分散自活しようとするも失敗し…という感じで、あらゆる判断と準備不足が伏線になって遠征を崩壊させていく展開がすごい。

https://x.com/a3dayo/status/1525506106675843072?s=20

Pierre A. Picouet著『The Franco-Spanish war: the Sieges of Lleida from 1644 to 1647』

いわゆるカタルーニャの反乱中に三回発生したレリダを巡る攻囲戦についての本で中々良かった。特に第二次包囲戦の補給路を巡る争いと第三次包囲戦中に包囲されている側のスペイン軍の逆襲が興味深い。
第二次包囲戦ではレリダを攻囲するフランス軍に対し救援部隊はフランス軍の頑強な包囲線への攻撃を諦め、レリダより前方(フランス軍から見ると後方)の拠点を占拠し、フランス側補給線の遮断を試みる。フランスはこれに対しより大規模な輸送部隊を編成、スペイン軍の警戒線を突破することに成功する。

結局スペイン軍は補給線の遮断を諦め、よりリスクの高い包囲線への攻撃に移り、フランス軍13000名に対しスペイン軍8500名と数的に劣勢ながら夜襲を成功させ、フランス軍を撤退させることに成功する。

第三次包囲戦ではあのコンデ公がカタルーニャ方面のフランス軍指揮官となりレリダを攻囲、この時期政治的に微妙な立ち位置にあったコンデ公は迅速なレリダ制圧を目指し優勢な砲兵火力による砲撃と坑道戦を開始するが、性急な包囲のため塹壕を十分に整備出来ず、何度もスペイン軍防御部隊の逆襲を受け、砲を破壊されたり坑道に侵入されたりと大きな被害を被る。フランス軍兵士の間ではスペイン軍指揮官Gregorio de Britoが狼に変身しフランス包囲線をスパイしているという噂まで流れていたらしい。結局コンデ公はスペイン軍救援部隊の存在が確認されたことなどから撤退する。

フランス側の輸送・動員能力とスペイン側の夜襲能力が印象に残ったが他にも諜報や二重スパイなど面白いエピソードがいろいろ載っていて良かった。
あと出版しているThe Pike&Shot Societyは隔月で近世軍事史専門の雑誌出版してる団体らしいが、リビジョニスト派っぽい雰囲気。https://pikeandshotsociety.org

https://x.com/a3dayo/status/1482292596474974208?s=20

ジェイソン・C. シャーマン著『弱者の帝国』

めちゃくちゃ面白かった。
「軍事史にダーウィニズムを持ち込めると思うな」「個々の戦例を一般化して理論立たせた気になるな」「パーカーの本って緻密に史料集めて載せてて本人の軍事革命論を台無しにしてるよね」など皮肉抜きに正座して読むべき内容がたくさんあった
あと構成がうまい。ネタバレになるが最後の章でタイムスケールを19世紀を超えて現代にまで拡大したうえで軍事技術の優越と戦争の勝敗は関係ないというのを見せつけてくるのには参る。プロの技って感じがすごい。
今索引で数えてみたら本書中のロバーツへの言及が12回なのに対してパーカーへの言及が27回と大幅に差があって笑ってしまった 内容的に仕方ないと言えば仕方ないが

https://x.com/a3dayo/status/1362068786740822023?s=20

I.A.A Thompson 著『Money, Money, and Yet More Money!』

スペインにおける16〜17世紀の軍事費支出は大砲や銃、火薬などの製造費や要塞の建築費ではなく、単純に兵員数によって決定されていたとした上で、軍事費支出の拡大が見られる4つの時期について資金調達などを分析している。
その分析から軍事革命が起きたとされる時期に軍事支出の増大をもたらしたのは戦術面・技術面ではなく、戦略面と長く続く戦争にあったとしてる。更にこの時期に絶対主義の確立に失敗し、軍事支出を維持できる財政保護的なシステムを構築できず、自己破壊的な応急処置を取ってしまい、理論上は絶対主義だが、実際には制限された権力しか持たない中央政府が出来上がってしまったとしている。
面白い論文だし何よりタイトルが良い。

https://x.com/a3dayo/status/1005843023433891840?s=20

白幡俊輔著『軍事技術者のイタリアルネサンス』

数年前に金欠で買えずに立ち読みで済ませたきりだった『軍事技術者のイタリアルネサンス』、購入して読んだところ、やはり名著だという感想を得た。 多角形稜堡の成立史についてここまで丹念に追った本はなかなか読めない。

旗代太田著『Pike and Shotの時代: 歩兵の基礎』

特に『Push of Pikeの実相』が当時の多様な議論を整理しつつパイク兵による戦闘の実態が非常にわかりやすくまとめられてて大変よかった。ここまでのレベルのは英語圏の商業出版物でも見たことない気がする。
日本ではホール等の影響でパイク兵の防御的な性格ばかりが強調されてる気がするが、そんな中でパイク兵の攻撃的な面が本としてまとめられるのはかなり有意義なことなんじゃなかろうか。

https://x.com/a3dayo/status/1479800375582785537?s=20

Henry Kamen著『Alba: Statesman and Diplomat』

アルバ公の政治家・外交官としての面を論じた論説。ネーデルラント統治の6年間だけでなく、それ以前からの政治的活動に焦点を当てている。 常に宗教的対立よりも政治的対立を問題視し、プロテスタントに対して時に寛容とすら思える態度をとったり、ネーデルラントで異端的とされかねない出版物を出すなどのアルバ公の言動を詳細に論じ、『狂信者』ではなかったアルバ公を描き出している。
一方で、感情をそのまま口に出すため味方を減らしていったことや、政治家には性格的にあまり向いていなかったこと、ネーデルラントでは政治的対立を重要視してしまったためにむしろ宗教的対立を煽ってしまったことなどアルバ公の失敗についても触れられている。
タイトルから受ける印象と違い、どちらかというとアルバ公の個人的な性格の面に強く踏み込んでいる感がある。

特に興味深かったのがアルバ公の肖像画の話。 一枚目は1649年に描かれたもので、二枚目は1568年に描かれたもの。 実際にネーデルラントを統治した時期は物静かな印象を与える2枚目の方だが、アルバ公のイメージとして広まってしまったのは一枚目の方で、これが幾人かの美術史家に影響を与えてしまい、ブリューゲルの『嬰児虐殺』がスペイン軍の侵攻に反対して描かれた、なんて誤説を広めてしまったのではないか、ということが書いてある。

https://x.com/a3dayo/status/1034479966442778625?s=20

Thomas Arnold著『Renaissance at War』

16世紀の軍事に関する教科書的な本だった。
フランスとイタリアが中心に取り上げられているように感じた。東欧や北欧は触れられていない。
全体は導入+一般的な変化に触れた前半3章+個別の戦争に触れた後半3章の7つのパートに分かれる。
前半の3章ではそれぞれ大砲とイタリア式築城術、古代の文献の復活と歩兵の火器戦術、貴族層の変化と騎兵の火器戦術について語られ、後半3章では主に地中海を舞台にしたキリスト圏とイスラム圏、イタリア戦争、ユグノー内戦と八十年戦争前半の経過が語られる。
前半のうち特に興味が持てたのがイタリア式築城術の誕生に至る経過と古代の文献が復活した理由だった。
イタリア式がなぜ稜堡を備えたかや古代の文献が必要とされた理由について詳しく語られていてこれまで知らなかった知識を得ることができた。 後半についてはほとんど戦争の経過しか触れられていない。ただし、地中海からアラビア湾に至る戦闘や第二次ロードス島、マルタ、アルカセルキヴィール、ラヴェンナ、パヴィア、ローマ、イタリア戦争末期の北フランス戦役、第二次アントワープ、パルマ公のフランス侵入については絵入りの図解あり
引用文献がまったく示されてなかったり細かい数字が出なかったり概要ばかりだったりと不満点はあるけど、参考文献が解説付きで載ってるので詳しく知りたいならそれを読めということなのかも。

https://x.com/a3dayo/status/809894315665170432?s=20

José Antonio Pérez Gimena著『DE GRANADA A PAVÍA. LA EVOLUCIÓN DEL EJÉRCITO ESPAÑOL DESDE 1482 A 1525』

割とかなり微妙な気がするやつだったが、15世紀のAlonso de Palenciaが規律の重要性を訴えてるとかいくつか興味深い記述もあった。
イタリア戦争中のゴンサロ・コルドバの各戦例についてもそれなりに触れられていて、割と信用できそうな記述になっている。少なくとも他のスペイン語圏の研究者と大きく乖離しているわけではなさそう
あと1503年のサルサス包囲戦で救援側のスペイン軍が歩兵4万騎兵1.2万を集めたって記述、事実なら大変興味深いが、出典がついてなくて判断できないのが残念。

https://x.com/a3dayo/status/1455746288998236160?s=20

Terence Christian著『An Analysis of the European Fire Lance for Munitions Staging, Range and Lethality: A brief summary』

アルマダの沈没船から引き上げられた「Fire Lance」と呼ばれる木製銃器を複製し、発射実験を行うことで武器としての殺傷性・有効性を確認しようとした論文の要約。
再現実験の結果はFire Lanceの複製は複数回の発射に耐えることがわかった一方で殺傷性は低く心理的な効果を狙ったものだろうって結論になってるが、1588年に出版された砲術書『Three bookes of colloquies』のレシピに記載のある遅燃性混合物が発射炎の大きさと持続期間を向上させるって事実は面白い。
発射炎の大きさと持続期間が向上すれば相手に与える心理的効果も大きくなることが予想されるし、何より1588年の段階で硝酸化合物の性質がかなり理解されていたと言うのは割と驚異的な気がする。
当時の火薬兵器のレシピの中には消えない松明とか橋などの建造物を破壊するための爆弾とか色々あるが、一つづつ再現して効果を検証してみるみたいな実験考古学的な研究があってもいい気がしてきた(もうあるかも)。
あとEarlyEnglandBooksOnlineの軍事関係書籍だいたい読んだ気がしてたけど意外とそうでもないことがわかった Three bookes of colloquies https://quod.lib.umich.edu/e/eebo2/A13381.0001.001?view=toc

https://x.com/a3dayo/status/1400074415182778373?s=20

Andre Schurger著『Theoretical calibre specifications of hackbuts and matchlock muskets in 16th and 17th century military handbooks』

戦場考古学のカンファレンスで発表された1630年代頃までの口径をめぐる銃器史の話。二次資料多めだけどドイツ語圏のものが多いおかげで新規性感じる。
当時の軍事文献にしばしば記述されるが混同されやすい銃の口径と弾丸の直径の話から17世紀初頭に始まる小口径化と軽量化、その後の大口径への回帰が、当時の軍隊における銃器の多様性を踏まえつつ短くまとめられててわかりやすい。
あとこのFields of Conflictってカンファレンス、2016年の発表を全部公開してくれていて大変親切。内容的にも古代ローマから第二次世界大戦まで幅広いっぽい。
fieldsofconflict.com/c_conf_papers.

https://x.com/a3dayo/status/1399950457414447106?s=20

André Schürger著『The archaeology of the Battle of Lützen: an examination of 17th century military material culture.』

リュッツェンの戦いの戦場考古学的調査の論文。
文献調査と考古調査を組み合わせて非常に説得力がある戦闘叙述になっててすごい
白眉なのが戦場で見つかった銃弾のサイズから銃器のモデルとそれを使用していた部隊を先行研究や文献調査に基づいて特定していく第5章。
第8章の戦闘の叙述も目撃者の残した一次史料をフルに使いつつ、スウェーデン軍最右翼や皇帝軍右翼は考古資料に基づいてブレジンスキら最新の研究にもない新たな知見提供してて新規かつ説得力高いものになってる。
長いが全部読む価値のある論文。

https://x.com/a3dayo/status/1329887743673921537?s=20

終わり

特にタグ付け等をしていなかったTwitterでの感想ポストはもっとありそうだが、キリがなくなりそうなので一旦終わり。

Lodovico Melzoの騎兵論と装甲の放棄

はじめに

ヨーロッパにおける火器の受容は13世紀末から14世紀初めの時期に始まったとされる。 その後の火器の威力向上と配備数の増加は、16世紀以降に鎧の肥厚化とコストの増大を招いた。 この影響は歩兵よりも騎兵がより強く受けたと言われる。 鎧の肥厚に伴う重量の増加する一方で、増加する鎧の重量を受け止め、ますます密度の高くなる銃撃下を可能な限り素早く移動し、襲歩で敵兵に突撃することができる馬はますます少なくなっていったからである。*1

結果として、西ヨーロッパでは重量増加に耐えきれなくなった騎兵は分厚い鎧で全身を覆う試みを放棄し、心臓など重要器官の集まる胸部のみを防御する胸甲騎兵へと生まれ変わった、と説明されることが多い。 このプロセスは、16世紀後半から始まったとされるいわゆる軍事革命などの変化と関連づけて語られることが多かった*2

ただ、一般に装甲が担う機能、弾丸や刃物による受傷から、心理的にも身体的にも受傷を防ぐ、という効果から考えると、重量増加に耐えきれなくなった結果装甲を放棄する、といったプロセスは奇妙である。 自身の生存に直結する防具を外し、より無防備な装備で戦闘に参加しなければならないということを指すためである。

本稿では、17世紀初頭、まさに騎兵鎧が廃れ始める中で執筆されたLodvico Melzoの著作をもとに、当時の状況における装甲の意義を考察し、次いでより後代の著作と比較することで、騎兵における装甲の放棄がどのように進行したのかを考察する。 また20世紀終盤のアメリカにおいてより軽量かつ軽装甲の装甲戦闘車両の開発を目指した次世代装備調達プログラムFuture Combat Systemとそれに対して寄せられた批判、その後の戦争における教訓と認識から、将来における装甲放棄の可能性について推測を述べる。

Lodovico Melzoについて

Lodovico Melzoはイタリア貴族として生まれ、低地地方で80年戦争に従軍したスペイン軍人であり、1609年に12年停戦条約が結ばれた時点でフランドル駐留軍における騎兵組織のトップである騎兵総監の地位にあった人物である*3
停戦中の1611年、Melzoは『Regole Militari sopra il Goverro e Servitio della Cavalleria』をアントワープにて出版する。 本書はイタリア語で執筆されており、スペイン軍に従軍するイタリア人将校を想定する読者として執筆されたと考えられるが、1615年にはフランス語版が出版され、1619年にはミラノでスペイン語版が出版されるなど、比較的短期間で国際的な普及を見せた*4

当時としては比較的珍しく騎兵に関して集中的に取り上げた著作であり、かつ経験豊かな高位の軍人による実例を豊富に含むと言う点で重要である*5

騎兵の変遷

定説では16世紀における騎兵の変遷の源流は短銃を装備した騎兵の登場に求められることが多い。 16世紀中盤ごろ、ドイツにおいて槍の代わりに短銃を装備した騎兵が登場した。フランスでreiterと呼ばれたこの騎兵種は上半身を装甲で防御しつつ、gendarmeと呼ばれた槍騎兵とは異なり脚部の装甲を身につけていなかった*6。 1557年のSaint-Quentinの戦いの後、アンリ2世はReiterの積極的な採用を始め、ユグノー内戦ではユグノーカトリック両陣営共に傭兵としてReiterを雇用し戦闘に投入した*7。 reiterは従来の槍騎兵がとっていた薄い戦列 en haieと襲歩による突撃ではなく、12列から16列に至る深い縦深からなる隊列を採用し、至近距離からピストルを発砲した後に回頭する、いわゆるカラコール戦術を使用した*8

カラコール戦術はしばしば槍騎兵によるen haieを打ち破り、en haieや槍騎兵に対する優位性が知られ始めていた*9

しかしその一方で同時代人による批判も多くなされていた。 当時のピストルは命中率が低く、ごく至近距離から発砲する必要があると認識されていたが、Reiterは遠すぎる距離から発砲しているとみなされており、しばしば空中に向けて発射していると非難された*10

1589年に王位についたアンリ4世は財政と人員の欠乏のため、gendarmeではなく比較的コストが低いピストル騎兵の採用を進めた。アンリ4世の元ではピストル騎兵は4列から6列程度の比較的浅い縦深の隊列を組み、襲歩で突撃を行い、しばしばピストルを使用しないよう訓練され、従来の槍騎兵やen haieの隊列に対して効果を上げた*11

またアンリ4世は騎兵を支援するために、火縄銃を装備する歩兵または下馬したアルケブス騎兵の部隊により突撃後の騎兵の再集結や敵騎兵の突撃への逆襲などを行わせた*12

いわゆる軍事革命論の立場からは騎兵の変化に重要な役割を果たしたのはスウェーデンのグスタフ=アドルフであるとされる*13

スウェーデンはより南方の諸国に比べて騎兵の伝統に乏しく、小型の馬を使用しており、1620年代にグスタフ=アドルフが改革に着手する時点では騎兵部隊の数・質共に劣っていた。 1621年、第一次ポーランド遠征より帰還したグスタフ=アドルフは騎兵の改革を始め、それまで火縄銃を装備していたスウェーデン軽騎兵の装備をピストルへと変更させた*14。 グスタフ=アドルフは騎兵に対し、3列の横隊を組み、第一列のみ、または第一列及び第二列にのみ至近距離からの射撃とその後にピストルを剣にもちかえ突撃するよう指示し、第三列はピストルを使用せず剣のみで突撃するよう指示した。 この指示はしばしばグスタフ=アドルフによるカラコールの廃止と見做されるが、実際には1630年代において一般化しつつある戦術だったとRichard Brzezinskiは指摘している*15

また、グスタフ=アドルフはアンリ4世と同様にアルケブスを装備した50〜200名程度の歩兵分隊を騎兵部隊の間に配置し、攻撃や再集結のための支援を行わせた。 これは1620年代のポーランド遠征中に初めて行われたとされ、しばしばティリーのようなカトリック側の将軍に対し、グスタフ=アドルフによる革新性を強調する文脈で言及される*16

さらにグスタフ=アドルフは騎兵の鎧を大幅に減らし、胸甲と背甲のみとしたことでも知られる。 ただしこの施策は必ずしも意図したものではなかった。 1628年以降、多数のドイツ騎兵を雇用したグスタフ=アドルフは、1627年の負傷以降鎧を着用することができなくなっていたが、三十年戦争への介入以降も、配下の指揮官や騎兵には鎧の着用を行わさせていたことが知られている。 こうした状況が変化したのは、新たに立ち上げた騎兵連隊に対し、鎧を提供できないままブライテンフェルトの戦いに突入して以降だとされる。 この戦い以降、グスタフ=アドルフは武器製造業者Louis De Geerへの注文をキャンセルし、スウェーデン軍では騎兵用鎧の優先度が著しく低下した こうした変化は神聖ローマ帝国軍などにも素早く受容され、19世紀まで続く騎兵装甲のスタンダードとなる。 *17

ただし、必ずしも同時代の人間がグスタフ=アドルフに同意していたわけではない。 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、リュッツェンの戦いの経験から、騎兵はむしろ重装甲の方が良いという結論を得ていた。 *18

スペインにおける騎兵

前項で見たように、16世紀後半から始まる騎兵の変化に関する定説では主にフランス及びスウェーデンが主導し、騎兵の突撃法、他兵種との協働、装備などの変化が起きた、と説明される。 従って定説ではスペインにおける騎兵がどのように運用され、変化したのか、という点に触れられることがほとんどない。 本項では主にネーデルラントに派遣されたスペイン・フランドル駐留軍の騎兵運用について、簡単に述べる。

1567年、ネーデルラントにおける「反乱」を鎮圧するためにイタリアを出発したスペイン軍は騎兵1200名歩兵8652名で構成されていた*19。 しかし1572年秋には地形が不適であることなどを理由として全ての重装騎兵部隊を解散させた*20。 これ以降、スペインのフランドル駐留軍では1630年代まで騎兵の大部分を軽装騎兵が占め、重装騎兵はネーデルラント南部または東部の都市密度が低く平地での会戦が行われやすい場所への軍事遠征を除いては見られなくなった*21

しかし平地における会戦以外でも騎兵はその役割を果たしている。 例えば1584年のアントワープ包囲戦ではメッヘレンとアントワープ間のコミュニケーションを軽騎兵が遮断するなど、フランドルの戦闘において数多く見られた包囲戦においてもしばしば重要な存在となった*22

また、1605年のフリジア遠征では、遠征軍にはLuis de Valescoが指揮する2500名の騎兵がいた*23。 この遠征中に行われたMulheimの戦いでは、マウリッツ・ファン・ナッサウ率いるオランダ軍による奇襲と数的不利という状況下にありながら、騎兵部隊が中心となって反撃を行い、オランダ軍を撤退させることに成功している。 特に戦闘初期において槍騎兵中隊中隊長のFernando de Guevaraは歩兵と連携することでオランダ軍のルール川渡河の妨害に成功した*24

Melzoが本書を執筆した時点で、フランドル駐留軍では、騎兵の多くをアルケブス騎兵などの軽騎兵が占める状況が続いてはいたが、重装騎兵もその限界が認識されてはいたものの、軽騎兵と同様に戦力と見做されている状況であった。

Lodovico Melzoの主張

Melzoは騎兵を槍騎兵*25、アルケブス騎兵*26、胸甲騎兵*27の3種類に分類し、それぞれの武装や戦闘における役割、配置、飼い葉の調達や略奪、拠点防衛における騎兵の役割などを実例を交えながら詳述している。

本書の冒頭では「学術と真の学問及び軍事規律が花開いた」フランドルにおいて歩兵にのみ焦点が当てられ、その他の分野がおざなりになっていることを指摘しており、こうしたアンバランスさが執筆の動機に繋がったと見られる*28

つまり本書の内容は単なる軍事理論を説くというよりは、指揮官に対し即席の知識や経験を継承することに主眼が置かれていると見られる。

Melzoの騎兵論と騎兵の変遷

アルケブス騎兵

Melzoの説明する騎兵種のうち、装甲が最も少ないとされるのはアルケブス騎兵である。

具体的な装備の説明は以下のようにされる。 ここでは中隊長は戦闘時に胸甲および背甲を身につけることとされるが、アルケブス騎兵が身につける防具は兜のみとされている。

戦闘が起きた状況や、不審な場所を行軍する際に、中隊長たちは背甲やアルケブスに対する抗弾性のある胸甲、軽く折り返し付きの後方に四筋の筋金入り、耳覆いと顔を守るための鉄棒付きの兜を身につけることが常とするが、いかなる場合でも腿当てと腰当てを身につけるべきではない。

兵士たちは以下の図のように銃身は4パルモ、1オンサ半の車輪マスケットを弾薬帯と共に右側に持ち、また中隊長のものと同じ質・形の兜を身に付けなければならない。 *29

アルケブス騎兵の装備
*30

こうした軽装備の理由として、Melzoは装甲が下馬した際の運動の邪魔になるためとする。

アルケブス騎兵は胸甲と背甲を身につけることが適当であるとする意見がある。しかし試したところ、それらは明らかに予期された結果とならなかった。鎧に腕を通すと、先述した通りの、地に足をつけた状況やその他の、軽快さと大胆さが必要とされる場合に働くことができないのである。 *31

Melzoは実際にアルケブス騎兵に装甲を身につけさせ、その効果をテストした経験から、アルケブス騎兵による鎧の着用は「軽快さや大胆さ」を損なうものとしている。

唯一例外的な状況として、アルケブス騎兵からなる部隊が単独で行動する場合にその半数に鎧を着用させるべきだとする

いかにもアルケブス騎兵が単独で、境界地の警備を行う際は、中隊のうち少なくとも半数、より強靭で良い馬を持つ者に、敵に立ち向かうことができるよう、鎧を着用させている。 *32

では鎧を持たないアルケブス騎兵はどのように戦闘に参加していたのか?

Melzoによれば、アルケブス騎兵は他の兵種と共同で戦闘に参加することが必要である。 そして鎧を着用しないために敵の突撃に対抗できず、配置に気をつけるべきだとする。

また、その発明者の意図では、アルケブス騎兵は胸甲騎兵や槍騎兵と協働しないまま働くことがなく、そのために胸甲騎兵または槍騎兵の部隊の支援もないまま戦闘に加わることは推奨されない。その上(装甲を持たないため)部隊を形成することも敵の突撃に持ち堪えることすらないということが一度の戦いに何度も起きると予想される。容易に無秩序に陥るために突撃を受ける可能性がある場所に配置してもいけない。また、この状況は特に混乱させられた時や狭い場所で戦う場合に起こる。 *33

具体的な戦闘方法は射撃によって敵を攻撃するとされる。

敵が接近する前に、部隊の先鋒にいる中隊長は、その中尉(原語:Teniente)を、20騎または25騎の騎兵と共に、その任務を与え、送り出さねばならない。また、これらの兵士は良い歩調(原語:buen paso)で、兵士が近づきすぎることなく、全員が容易に分散できるよう一列あたり6人からなる隊列を作らねばならない。 敵の部隊や兵士に突撃を行う前に、中隊長はその部隊の少なくとも真中の位置に着くために正面に進み、そうしないならば、その後衛が敵の正面にぶつかるようにするため左側面の位置に着くことを考慮し、それから突撃するが、しかし、可能な限り近付き、射撃することを試みるべきで、銃弾が威力を発揮できるように少なくとも40〜50歩以上離れて射撃するべきではない。その突撃後に、中隊長は火縄銃兵がカラコールで行うように右手に転回する。 *34

ここでは20〜25人程度のアルケブス騎兵部隊が、一列6人からなる間隙のある隊形を作り、40〜50歩以内の距離で相手に射撃し、その後に右手にカラコールのように転回する、という突撃方法が推奨されていることがわかる。

また、白昼の行軍において、敵と遭遇した場合は以下のようにアルケブス騎兵に攻撃を行わさせるよう推奨している。

25人の騎兵と共に、少尉(Teniente)を良い速歩と襲歩で先行させ、この章の最後の図のBで見えるような方法で、多くのアルケブスを用いて敵を攻撃しなければならない。 *35

敵を攻撃するアルケブス騎兵
*36

ただし常に火縄銃を用いた攻撃方法が取られていたわけではないらしい。 Melzoはアルケブス騎兵に対し、剣を使った突撃の訓練を行わさせるよう推奨している。

野営地において、兵士にはしばしば徒歩及び騎乗での射撃、迅速さを伴う再装填、また、射撃後に右側の負い革にアルケブスまたはマスケットを落とし、剣に手をつけるよう訓練されねばならない。 *37

また、具体的な戦闘の様相などは記されてはいないものの、Melzoが引く戦例にはアルケブス騎兵中隊が単独で胸甲騎兵中隊を壊滅させたとするものがあり*38、アルケブス騎兵は必ずしもハラスメントや支援射撃のような戦闘方法のみを行なっていたわけではないと見られる。

なお、先述の通り通説では剣を持った比較的軽装の騎兵による突撃はグスタフ=アドルフが発明したとされるが、実行に移されていたかはともかくグスタフ=アドルフ以前から少なくともアイデアとしては存在していたことがわかる。 さらに、1615年のフランクフルトでは『Regole Militari sopra il Goverro e Servitio della Cavalleria』のフランス語版が販売されており、ドイツでも30年戦争開始以前からこうした知識が流入していた可能性が高い*39

同様に、槍騎兵に関する記述からは、火力と騎兵の協調もしばしばアンリ4世やグスタフアドルフに帰せられることが多いが、Melzoもこの点に関して独自の見解を持っていた。

槍騎兵

Melzoは槍騎兵の任務及びとりうる戦術を下記のように記す。

これら騎兵の用途と最も重要な職務はアルケブス騎兵に追従する事から成る。それらは、突撃を行った後、敵の騎兵に、別々に、側面に対しその突撃を行い、壊乱と混乱の打撃をもたらしたその後に、槍騎兵は断固とした突撃を、状況に応じて側面または正面に行う。 *40

大きな部隊で突撃することは推奨されない。なぜならこの騎兵は大変な速度で走るため、多くの騎兵が、お互いに邪魔をすることなく等しい速度で走ることは不可能であり、そのために、容易に分離し、とても弱くなり、何の効果もなくなるからである。 *41

状況と必要に即して25または30人よりも多く、または少ない部隊に分散配置され、秩序だった槍騎兵は、可能な限り敵部隊の側面を探り攻撃しなければならず、槍騎兵、胸甲騎兵の衝突の後に続き、優位を得て、その後に容易に敵を破る方法のように、アルケブス騎兵の突撃後のいかなる混乱にも目を開き、考慮し、状況を享受し、敵に損害を与えられる機会に応じて突撃できるように努めなければならない。しかし、たとえどんなに敵に対し阿り、探っても、側面を攻撃できるよう思われない場合は、戦隊は、等しい決意と激しさと共に、何ら考慮に入れることなく、正面に突撃するべきだ。

敵に突撃するに当たって留意しなければならないのは、騎兵が衝突しても(疲労のために)その活力が落ちないように、とても長い距離、50〜60歩以上の距離を走らないことだけでなく、馬が横に剃れることができるような空間を与えないことである。 *42

これらは槍騎兵の突撃の方法についての記述だが、槍騎兵はアルケブス騎兵による攻撃後に、25〜30人前後の槍騎兵が敵の正面ないしは側面に突撃を行う、といった戦闘方法が想定されていることがわかる。 比較的小規模の部隊となる理由について、その速度が大変早く、大人数の部隊では協調した歩調を取れないためとしており、おそらくは襲歩で移動していたものと見られる。

前述の通りアルケブス騎兵は射撃を行うものと想定されているため、この方法ではアルケブス騎兵の射撃後に混乱した敵部隊に槍騎兵の突撃を行うものと考えられる。

こうしたアルケブス騎兵との連携した攻撃は、騎兵相手だけではなく陣形を組んだ歩兵に対しても同様に行うものとされている。

一般の部隊を指揮する中隊長やその他の士官が、まだ新しい状態の敵の幾らかの歩兵部隊を攻撃する際には、基本的に平坦で開けた、騎兵にとって優位な位置を奪うことを試みることになっている。(中略)

しかしもし開けた土地で、既に戦闘隊形の状態で配置され、また釣り合いの取れる数(訳注:の敵の部隊)を発見したなら、頻繁に攻撃的な突撃を行う幾らかのアルケブス騎兵部隊を先頭に、その後に25騎のその他の騎兵か、もしくは30騎の槍騎兵で、両翼か、戦闘部隊を取る部隊の他の部分に、亀裂を作ることを試みるために攻撃されねばならない。残りの騎兵は、毅然と支援をするため、また騎兵によって作られる亀裂や部隊に生まれるごく小さな無秩序に備えて警戒する。

ここでも先述と同じくアルケブス騎兵が攻撃し、その後槍騎兵が攻撃する。 この攻撃の段階において、騎兵はそれぞれ、アルケブス騎兵が無秩序(desorden)を生み、槍騎兵が亀裂(abertura)を生じさせ、その後にその他の騎兵が生じた亀裂や無秩序を利用した攻撃を行う、という機能の分担がされている。

この役割のために槍騎兵は近接戦闘を行う必要があり、アルケブス騎兵のものと比べて装甲で覆われる面積は広くなっている。

槍騎兵の中隊長の武装は、銃弾に耐えられる胸甲及び背甲、腿当て、腰当て、腕甲、面頰付き兜、そして少なくとも左手用の籠手である。槍騎兵の中隊長も、同じく旗を持たねばならず、それはその小姓に持たせ、常に正面かつトランペット兵の後ろを行軍させるべきだ。

兵士たちも、腿当てを除き槍騎兵の職務にとっては古流の逆に草摺か、四つの部品を身につけ、他は同様に中隊長と同じ鎧で武装する。同じく旗を持たねばならない、なぜなら、それは最も輝かしい事物であり、また驚嘆すべき物に思え、そのために多くの数が中隊にあってもそれぞれがよく知られ、区別されるからだ。鞍骨の片側ではピストルか、他の兜を運ぶべきだ。

ここで語られる槍騎兵の武装はその特性をよく示しており、アルケブス騎兵が中隊長ですら兜と胸甲及び背甲のみだったのに対し、槍騎兵は兜、胸甲、背甲に加え、籠手、腰当て、腿当てを含む。

槍騎兵の武装

*43

また、Melzoは槍を持ち運ぶ負担が大きいことから、兵士とは別に分けて運ぶよう推奨している。

他ならぬこれに関連して、より称賛されるのは、中隊長が槍を別々に、大砲の荷車の後に、弾薬を運ぶ人々に運ばさせることだ。 *44

なお火力と連携する場合、必ずしも火力の提供元がアルケブス騎兵である必要はなかったらしい。 Melzoは以下のように述べている。

今これに付け加えると、経験によって見出された、大いに利益のあるものとして、しばしば敵が騎兵で優る時に、状況と必要に応じて、騎兵部隊を、幾らかのマスケット兵の分隊(mangas de mosqueteros)と混ぜ合わせることだ。 *45

これはアンリ4世が行ったとされる歩兵による火力の支援と同様の戦術が、17世紀初頭のスペイン軍でも実践されていたことを示唆する。

一方、部隊規模という点ではアルケブス騎兵と槍騎兵のいずれも20〜30騎程度の単位で部隊を編成し、攻撃するものとされている。 興味深い点として、こうした比較的少人数の部隊でも大きな効果を生む可能性があるとMelzoは認識していた。

多くの、また異なった場面での経験が、時宜を得た状況で側面に突撃すれば、少数の部隊を相手にするときだけでなく、より多勢の部隊に対しても、いくつもの利点が少数の槍騎兵の働きにあることを証明している。 1574年に、歩兵と騎兵の大集団と共に、兄弟であるオレンジ公に合流するためにフランドル州に侵入したルイス・デ・ナッサウ公は、その進路を防ごうとするSancho de Avilaが指揮するカトリック軍の一部にヘルダーラント州のMocq村で追いつかれた。公は戦闘を強いられ、小戦が始まると、王の騎兵に突撃させるため、千騎のピストル騎兵(原語:Raitres)を出撃させた。(訳注:王の騎兵の)一部は、良い機会を捉え、強い決心を持って前進し、中隊長Pedro Antonio de Sasoferrato、中尉Camillo del Monte、25騎の槍騎兵が、公の騎兵の側面を攻撃し、そのうちの60騎を突き倒し、その死体が残された。この少尉の突撃は、残りのピストル騎兵を恐怖させ、それらの猛烈さを制止するほどの効果だった。 *46

ピストル騎兵の人数には若干の誇張が含まれる可能性はあるが、数百騎程度の集団だった可能性が高く、30騎以下の槍騎兵が効果的にその前進を停止させたのは確かだと思われる。 ピストル騎兵と槍騎兵の対決では、前者が有利であるとする認識が同時代の軍人たちの著書には見られる*47が、Melzoはむしろ槍騎兵が優位にあると考えていた節がある。

ではピストル騎兵と同等の装備を持つ胸甲騎兵について、Melzoはどのように記述しているのか?

胸甲騎兵

胸甲騎兵の任務は以下のように語られる

胸甲騎兵の性質と目的は、中程度の速歩で槍騎兵の後に続き、そして敵の部隊に開けられた亀裂といった機会を捉えることだ。また、胸甲騎兵の性質は、無秩序とは全く正反対であるから、突撃をしたいと思う時まで襲歩の歩調を取ってはならない。旋回は常に、カラコールと同じように左手側へ行うこと。

ここでは胸甲騎兵の任務が槍騎兵の後に続いて敵の部隊を攻撃することであると述べられる。 しかし槍騎兵とは異なり、胸甲騎兵は速歩で移動し、襲歩は突撃を試みる際まで行ってはならないとされる。

さらに続けて胸甲騎兵の部隊の運動や隊形について説明される。

胸甲騎兵の歩調と運動は、上述の通りわずかの時間でも決して速歩から外れることはない。また、胸甲騎兵の分離や、集結するときに危険に陥らないように、その自然本性の、間隙を開けず、纏まった突撃という強力な要素を持つよう分厚い隊形を作るように纏まらせるよう指揮することが望ましい。これに関連して、より多くの士官兵(原文:reformado)が隊形にいるほど良く、より優れており、良い結果が期待できる。

胸甲騎兵の多くの性質は、戦いにおいて、200人、または必要に応じて騎兵の数が400人にさえなる大きな戦隊を形成するために生じることとなる。これらは、堅牢戦隊(Escuadrones firmes)と呼ばれるか、またはその効果から名前をつけ、防御戦隊(Escuadrones de reparo)または予備陣形(de reserva)と呼ばれる。なぜなら敵と出会った際の、波の激しさにもぐらつかない岩のような抵抗に加えて、戦闘時に兵士を元気づけ、または兵士たちを回復させるために防御し、また兵士たちが戦い終わった後でもう一度集結させるために大きな便益を生むためだ。また、それらは最善を尽くす最後の時のために保存される予備部隊でもある。 *48

胸甲騎兵が槍騎兵やアルケブス騎兵とは異なり、数百騎程度の部隊を形成することが推奨されている。 また部隊規模の大きさにも関わらず、その役割は防御や予備とされている。

槍騎兵は突撃後に胸甲騎兵の部隊の背後で再集結することが期待されていた。

もし敵に対し攻撃した後で、陣形を組むか、少なくとも良質な一部の騎兵で戦うのなら、兵士を軍旗とその中隊長に従わせるべきだ。中隊長はその部下を直ちに集め、防御戦隊(escuadrones de reparo)の一つの後方で、そこで立て直し、新たな隊形をとって突撃に戻れるよう再集結するよう努めねばならない。 *49

胸甲騎兵の武装は槍騎兵とほぼ同じで、下半身の防御がやや異なる。

胸甲騎兵中隊の兵士たちは、ピストルに耐えられる胸甲と背甲、及びその他の槍騎兵が身につけるもので武装しなければならず、それに加えて腿当てを身につけた方が良い。

胸甲騎兵の装備

*50

こうした武装は下男に運搬させるよう忠告している

しかしこれらを持つ者は、馬の胆力を失わせないために下男たちに運ばせるのが賢明だ。しかし、下男たちを連れて行けないような場所に行く必要があるときは、左の腕で兜を保持するべきだ。

一方で、乗馬や兵士の訓練といった要素は槍騎兵と比べて劣る。

この騎兵の馬は中程度に良ければ十分である。また、胸甲騎兵が必要とするもの全てをもつ人物なら、その武器に容易に熟達することができるだろう。

槍騎兵と比較した場合、胸甲騎兵は、槍騎兵とほぼ同じ装甲と劣った馬を持ち、武装のピストルは槍と比較して訓練が容易であるとされている。

戦術面から両者を比較すると、素早く移動する槍騎兵は小規模な部隊で敵陣に突撃し、亀裂(abertura)を生じさせ、より大きな部隊規模を持ち、比較的緩慢に運動し、大規模な部隊からなる胸甲騎兵が予備(reserva)として亀裂に突撃し、戦果を拡大する、といった、それぞれが異なる戦術と目的を持つことがわかる。 少なくともMelzoの認識では、槍騎兵と胸甲騎兵の差異は槍かピストルか、といった武装の差に止まらず、とりうる戦術や目的の差であり、異なる機能を有していた。

アルケブス騎兵との関係において、胸甲騎兵の機能はより明確になる。 すでに述べたように、アルケブス騎兵は通常、敵に対し射撃による無秩序(desorden)状態を作り出す機能を持っていた。 そのため、戦闘時の部隊配置では、通常アルケブス騎兵が先鋒となるが、宿営地に対する襲撃の場合には胸甲騎兵が先鋒

例として、400騎の騎兵が、上述の通り1000人の兵士がいる宿営地を襲撃しようとする場合、その400騎は100騎ごとに四つの部隊に分かれるべきだ。それらの部隊では、胸甲騎兵の部隊は、幾らかの斥候を除き、火縄銃の射程内で先鋒として進む。なぜならいかなる戦いにおいても、より敵の撃退に敵しているためだ。 *51

前述の通り、Melzoはアルケブス騎兵を装甲を持たないために敵の突撃に抵抗できないとみなしていた。 ここでは胸甲騎兵はより脆弱なアルケブス騎兵を盾のように守る役割を果たしている。

Melzoの騎兵論において、胸甲騎兵は、その装甲や分厚い隊形を生かし、他の部隊の援護を行ったり、あるいは突破後の戦果の拡大に投入するといった機能を果たすことを期待されていたのである。

Melzoの思想とその後の騎兵

Melzoは3種の騎兵をそれぞれ異なる特性を持つものとして捉え、それらを状況に応じて組み合わせ、機能させることによって戦果が得られると考えていた。

胸甲騎兵の中隊は、槍騎兵より低い資質や評価とされるが、しかしこれは非常に有能で才能のある中隊長に任せられないからである。 しばしばこれらの中隊は、多くの時間をアルケブス騎兵として勤務した中隊長たちに任せられる。しかし、君主が報酬を与えることを望んだ時、より良い方便として、またより目的に適った、名誉と恩恵を伴う他の形式として、彼のアルケブス騎兵中隊での職務を続けさせるようにした方がいいだろう。なぜなら、アルケブス騎兵、胸甲騎兵、槍騎兵の統制と指揮には大きな違いがあるためだ。時々あるように、アルケブス騎兵のみでなる中隊は、その全てを胸甲騎兵に変えさせられるが、これは他のものに比べてあまり目的に適わない。なぜならアルケブス騎兵に特有の任務は、胸甲騎兵や槍騎兵のそれとは大きく異なるからだ。 *52

これらの騎兵のうち、近接戦闘や他の部隊の盾となる役割を期待される槍騎兵と胸甲騎兵は、手足部を含めた上半身と下半身の大部分を装甲で覆っていた。 一方、ほとんど装甲を持たないアルケブス騎兵に対しては、剣を手にした突撃を訓練するよう推奨する一方で、敵の突撃に抵抗することができないとする見解を繰り返し表明している。 例えば、狭隘地における軍隊の行軍について、アルケブス騎兵の部隊に先導させるべきではないとしている。

しかし、多くのアルケブス騎兵が狭い土地にいる時に敵に発見された場合の損害を避け、危険から逃れるために、より確実な経験から判断すると、下にある形式で行進することを中隊に命ずるべきだ。なぜなら上述の、先鋒に鎧を身につけないアルケブス騎兵を多く入れる方法では、隊形を作ることもそのために敵に抵抗することもできず、無秩序と大きな損害を生む壊乱に陥ってしまう。 *53

これらのことから、Melzoが装甲を重要視していたのは明らかである。 ただし同時に装甲が兵士の運動に不利になるという認識を持っており、そのためにアルケブス騎兵には装甲を身につけさせようとはしなかった。

つまり、Melzoの理想の騎兵とは、軽快な運動が可能なアルケブス騎兵の射撃によって敵の戦列を混乱させ、重装甲の槍騎兵の突撃によって亀裂を生じさせ、同じく重装甲であり、かつ予備部隊でもある胸甲騎兵がしばしば他の部隊の盾となりつつ状況に応じて突撃する、といった装甲を持つものと持たないものによる機能の分担と協調であった。 この中で装甲は近接戦闘において兵士の安全を確保する役目を担ったのと同時に、運動の障害になるという性質を持ち合わせていた。

Melzoの持つ異なる種類の騎兵の協調というアイデアはほぼ同時代の軍事思想家Johan Wallhausenなどの著作にも見られることが知られており*54、特異的なものというよりは一般的な思想である。

しかし、すでに述べた通り、Melzoが本書を執筆した時点で、フランスではこの理想に必要な槍騎兵は廃れつつあった。 スペインでも槍騎兵は1640年までにほとんど消え去ることとなる。 槍騎兵の代わりに増大したのは胸甲騎兵であったが、胸甲騎兵はその装甲を失っていき、胴体部と兜のみの装甲という、Melzoの基準ではアルケブス騎兵と同等の装甲のみが残ることとなる。

例えば、騎兵の軽装化が進行していたイベリア半島では、1640年の時点で胸甲騎兵の装甲は胸甲と背甲、兜のみとなり、しばしば兜さえ帽子と置き換えられた。アルケブス騎兵は兜を身につけるか、あるいはバフコート以外の装甲を全く身につけないかであった。この時期、イベリア半島における騎兵は、70〜80%が胸甲騎兵であった*55

このような状況がいかにして発生したのか、1640年代に出版された二つの軍事書からその経緯を考察する。

槍騎兵の消滅と軽装甲化への系譜

1640年に出版されたJuan Munoz del Peral著『Reglas militares para el servicio de la cavalleria』は、その内容の一部をMelzoの著書から転写しており、オリジナルの部分は多くない。 しかしそれらの差異は騎兵の装備や戦術に関する著者間の認知の時代差を表すと考えられる。

Munoz del Peralは胸甲騎兵の武装を以下のように描写する。

胸甲騎兵は、胸甲及び背甲と腕甲、腰当て、また二丁のピストルとその覆い付きケース、右後方には通常は面頰つき兜かブルゴネットが括り付けられる。 *56

ここではMelzoの書籍に登場していた草摺などの下半身の防御が登場しない。 槍騎兵の記述は章ごと削除される一方で、胸甲騎兵の装備や隊形の描写はMelzoのものとほとんど同じであり、部隊の規模を「200人かそれ以上」とした以外は同じく部隊による密集した速歩での突撃を推奨している*57

アルケブス騎兵についてもほとんどの記述はMelzoの著書を転写したものだが、武装はやや異なる。

兵士たちは銃身は4パルモの車輪マスケットを弾薬帯と共に右側に持ち、また中隊長のものと同じ形の兜、胸甲、背甲を身に付けなければならない。 *58

Munoz del PeralはMelzoが批判していたアルケブス騎兵への鎧の着用を認めていることがわかる。

一方で、突撃については別個に章が立てられており、こちらはほぼオリジナルの内容となっている。 章の中では、騎兵種を限定しない各々100騎同士の騎兵中隊の戦いを例に挙げ、退却する敵に対し攻撃を行う状況を以下のように描写している・

そのような場合、片方の中隊長はその中尉を20人の騎兵と共に、退却する敵の殿を攻撃し、雄々しく戦うために送り出し、中尉の後に同じ目的のために中隊長が、50人の騎兵と共に続き、それらは可能な限り閉じた隊形を取り、残りの兵士は良い伍長と共に他の兵士の背後につき、敵が回頭した場合は戦端を開かず、その中尉や中隊長が、敵を攻撃する際に窮地に陥った時に、規律を取り戻す時間を与えるために、その敵に対して断固として結集する。なぜならわずかな乱れや進路の変更でも、敵の勢いに対し、わずかでも保たせるための加勢が来ないなら、立ち直らせる手段を持たず、そのまま戦うほど悪いことはなく、また一度に全ての兵士を戦わせるほど非難されることもないからだ。 *59

ここでは100人の中隊を20人、50人、30人の三つの部隊に分け、30人の部隊を予備とし攻撃する、といった方法が取られており、複数の騎兵種を混合させるような運用はされていない。 また、突撃する騎兵は、可能な限り閉じる(原文: los mas cerrados que fuere posible)としていることから、密集した隊形を使うことがわかる。

1644年に出版されたKarel Bonieres著『Arte militar deducida de sus principios fundamentales』には騎兵種とその装備について以下のような記載がある。

1598年、スペイン王国フランス王国の間で和平がもたれた際は、騎兵のほとんど3分の1が槍騎兵だった。のちに、戦争の行われる土地が適さなくなったため、または高い技術を持った者と優秀な馬を必要とするその武装を使用する状況が少なくなったために放棄され、のちにはポーランドを除いてヨーロッパの諸国ではほとんど使われることもなく…… 槍騎兵が放棄された際、適度な数のアルケブス騎兵と共に胸甲騎兵の数が増加した。その行き先がヨーロッパ全体を不安にさせた直近の諸戦争の後、巨大な軍隊の運動(movimientos)とその継続のために、多くの武装の重さを放棄することを余儀なくし、それらは騎兵をより軽く、敏速にしたが、幾らかの、Escuadrones gruesosや予備、いつなんどきの小競り合いや戦闘などの状況において重要な、十分な武装をした胸甲騎兵を維持する慎重な中隊長たちがいなくなることはなかった。 *60

騎兵において、槍騎兵はただポーランドの軍隊が維持するのみであり、フランドルでは幾らかが、しかしかつてのその有効性や使用法の記憶として残るのみである。胸甲騎兵は存続し、使われているが、その武装はわずかしか維持されておらず、兵士はそれらを運ぶための助けとなる下男や馬を持たたず、全てを身につけているのは実に難しいと聞いた。 (Bonieres, p222)

ここでは槍騎兵がヨーロッパのほとんどで消滅した一方で、一部の中隊を除いて胸甲騎兵もその装甲を失っていることがわかる。 Bonieresは槍騎兵が消滅した理由として、地理的要因と武装の使用頻度が減少したことをあげ、槍騎兵の代わりに胸甲騎兵の数が増えたとしている。 これはMelzoが槍騎兵は平坦な土地でのみしか運用できないとしていた点と付合する。 またEscuadrones gruesosへの言及があることから、胸甲騎兵は密集した隊形を取っていたことが推測できる。

また、アルケブス騎兵については騎銃兵(原文:Carabinas)として登場し、4種目の騎兵として竜騎兵(原文:Dragones)について述べられる。

もう一方の騎銃兵は、幾らかのものがブルゴーニュ風の胸甲と背甲を装備している。竜騎兵は軽マスケットまたは火縄付きアルケブスを持ち、防御のための武装は持たない。

Munoz del Peralと同様に、Bonieresも鎧の着用を認めているが、竜騎兵については兜すら着用しないとしている。 さらにMelzoはフランス騎兵をスペイン騎兵と対比させて以下のように述べている。

フランス人たちは、その騎兵全てに、兵士一人一人に、銃火器よりも信頼できる鞍に取り付ける一振りの良い剣と、戦闘用の槌が支給されるよう試みた。スペイン軍においては、アルケブス騎兵が、フランス人のものに加えて、一丁の火縄銃か騎兵銃を持つ。これは突撃がうまくいった状況では大いに効果がある。しかし、多くのフランス人は兵士が精力を注がず、またその騎銃を信じもしないこの組み合わせを制限する判断をした。また、確かに敵を偵察するための少数の部隊でも、または大部隊の隣でその突撃を側面に与える時でも、騎兵は分厚い隊列か、形成された大隊の方がより良いと思われる。 *61

ここではフランス人の取り組みとして剣と槌による武装と騎銃との組み合わせの制限が述べられている。 これはアルケブスや騎銃を用いた射撃ではなく、剣による接近戦を前提とした突撃がフランスで行われていた可能性を示唆するが、同様の訓練を提案していたMelzoの名前は現れない。

スペイン軍のアルケブス騎兵はフランス騎兵の剣と槌に加え、火縄銃または騎銃を持つとされているが、著者は現状に同意しておらず、突撃時には分厚い隊列が良いとしている。

Munoz del PeralとBonieres両者の記述はいくつか共通する点を持つ。 両者共に槍騎兵の消滅と胸甲騎兵の軽装化、アルケブス騎兵の装甲化を示す一方で、その突撃方法は密集した隊形を取るとしている。

つまりMelzoの想定していた「少数かつ襲歩で移動する槍騎兵」が消え、代わりに乗馬襲撃を担うようになったのは、部隊の規模も歩調の速度も異なる上に装甲を捨て去りつつあった胸甲騎兵と、鎧を纏い剣を使うアルケブス騎兵であった。

Melzoが反対意見として触れていることからわかる通り、アルケブス騎兵に胸甲を装備させるべきだという意見はもともと存在していた。

胸甲騎兵についてはよく知られているように、槍騎兵から移行はスペイン特有の事例ではなく、ポーランドなど一部の東欧諸国を除いたヨーロッパ全体で起きていた。

一方で、通説では胸甲騎兵はアンリ4世やグスタフ=アドルフの「改革」の結果、分厚い隊形やカラコールといった戦術を捨て去り、しばしば襲歩による突撃を行うようになった、とされる。

しかし、フランス軍神聖ローマ皇帝軍の事例を調査したChauvireによれば、実際には17世紀を通して国を問わずほとんどの胸甲騎兵は速歩による堅固で分厚い隊列とピストルによる射撃に頼っており、グスタヴ=アドルフ自身の騎兵も、歩調は速歩を基本としていたとされる*62

このような突撃方法が普及した要因として、Chauvireは訓練の不足と心理的要素を挙げている。 Chauvireによれば、本来人間にとって不自然な行為である面と向かっての闘争を、部隊を構成する兵士に強制するために密集した陣形が必要とされ、また密集した陣形自体が、相対する敵に恐怖を与える要素になりえた。このような状況下では、物理的な衝突以前に相対する部隊のどちらかが壊乱する状況が多いが、仮に物理的衝突に至った場合でも、密集した陣形は白兵戦のもたらす混乱から部隊の崩壊を防ぐために役立った*63

ここで挙げられる心理的要因から、Melzoがなぜ槍騎兵に訓練と人員の質を求めたのかを説明することができる。 槍騎兵はその武器の扱いが難しいという点以外にも、20人から30人程度の部隊で多勢の敵と相対することから、心理的な障壁は胸甲騎兵のものと比べて高いと思われる。 また、突撃後には胸甲騎兵の部隊の背後での再集結を行った後で、再度突撃することが想定されているため、突撃後には部隊の分裂が想定されており、再集結するまでに兵士個人の判断で行動する必要があったことが想定される このような障壁や判断を求められる騎兵種であったために、槍騎兵には特に訓練による条件付けと個人の気質が重要視されていたと考えられる。

そしてそうした人材はBonieresの述べる通りほとんど得られなくなっていた。


一方で、胸甲騎兵が物理的な衝突を伴う戦闘に対する心理的抵抗から密集隊形を選択したならば、むしろ心理的抵抗を増すような軽装甲化、つまり装甲の一部放棄を選択する、というのは奇妙に思える。

こうした要因を歩兵火力の増大に求めるのは誤りであると思われる。 胸甲騎兵は装甲を放棄した後も隊形を維持するために歩調は速歩のままであり、敵歩兵の射程距離を迅速に駆け抜けるための速度ではなく、より標的にされやすい密集隊形を重視していたためだ。

軽装化の要因は、戦場の外にあると考えるべきだろう。

Bonieresは武装を運ぶための下男や馬など、運搬リソースが不足したことを要因として挙げている。 既に見た通り、Melzoは馬の体力を奪わないように胸甲騎兵の武装を下男に運ばせることを推奨しており、Bonieresの供述と一致する。

当時の軍隊には兵士と契約関係を結び、給与を受け取りながら武具の運搬や清掃、食事の調達や洗濯などを担当する従者が存在していた。 Bonieresのいう下男は原文ではcriadosとあるが、他にpersonas、bouches、mozosなどの呼称が存在している。

こうした従者たちはしばしば膨大な数になり得たと考えられている。 例えば1567年にフランドルに向かうアルバ公は、配下の歩兵8652名、騎兵1200名の兵士に対し、養うべき「口」と馬がそれぞれ1万6000と3000存在するという言及をしている*64

はっきりとした数字が残る例としては、1577年のある騎兵中隊では兵士の人数110名に対し従者が最低でも117名いたとされる*65

こうした兵士に付き従う従者たちは遠征などにおいて、紛れもなく軍隊の活動に欠かせない存在であった。

しかし、軍隊組織はむしろこうした従者たちの人数を制限することを試みていた。 例えば16世紀のスペイン軍兵士であったSancho de Londoñoの著作では兵士300人あたり30人の従者という数字を挙げており *66、軍の規則では、従者の数は一個中隊あたりわずか3人しか認められていなかった*67

また当時は兵士の妻が遠征に帯同し、従者に近い役割を果たすこともあったが、1618年には既婚兵士の入隊及び兵士の結婚を事実上制限する勅令が出されるなど、17世紀以降に戦闘以外の役割を果たす非戦闘員の排除策が施行されていた。*68

こうした施策は着実に効果を発揮していた可能性が高い。 その数の少なさから断定はできないものの、わずかに残された従者の数が記載される1590年代から1620年代にかけて残された四つの歩兵部隊の史料では、時代を経るたびに部隊における従者の割合が減少していることが示唆される(Parker, p252))。

従者や下男、兵士の妻などの非戦闘員を排した軍隊は、よりロジスティクス上の負担の少ない、運動性の高い野戦軍となり得た。 こうした動きは、David Parrottの主張する1630年代以降の野戦軍の小型化による運動性の追求とロジスティクスの負担減少を志向する動き*69に類似する点があり、何らかの影響が考えられる。

Bonieresの述べる装備を運ぶ下男や馬の減少は、こうした動きに由来するものと考えられる。

兵士個人と契約し付き従う従者の減少は、中世以来続いていた騎士身分の者が郎党を引き連れ戦場に向かう封建制軍隊の残滓が完全に消滅しつつあったことを示す。

つまり胸甲騎兵の軽装化は、巨大な非戦闘員の群れを引き連れて移動する中世的残滓を残す軍隊から、より「近代」的な軍隊への変化が要因となって引き起こされたのである。 兵士自身の臣下を持たない「近代的」軍隊において、個人の装備を兵士自身で携行することが求められた。 軽装化した胸甲騎兵と装甲化したアルケブス騎兵が同等程度の装備である理由は、それ以上の装備を個人で運搬することが難しいためであったと考えるべきだろう。

では装甲を放棄する過程で当然引き起こされるはずの心理的抵抗はどのように乗り越えられたのか。 この疑問には、軽装であったアルケブス騎兵の役割の変化に着目するべきだと考える。


すでに述べたように、アルケブス騎兵が装甲を身に纏うことに反対していたMelzoとは反対に、Munoz del PeralとBonieresは装甲化について述べている。 これは本来よりアルケブス騎兵が突撃に用いられやすくなったという傾向を反映している可能性が高い。

Melzoが訓練を推奨していることからもわかる通り、アルケブス騎兵による乗馬襲撃というアイデア自体はおそらく16世紀末から17世紀初頭にかけてすでに存在していたが、乗馬襲撃における主な役割は襲撃前に相手の戦列を射撃により混乱させることにあり、実際の突撃の担い手は槍騎兵と胸甲騎兵であった。 しかしMunoz del Peralが騎兵襲撃に関してその騎兵種を限定していないこと、Bonieresがアルケブス騎兵の襲撃に関して武装と隊形を改善するよう示唆するに留まり、アルケブス騎兵の乗馬襲撃の是非そのものは前提であるように扱っていることから、1640年代にはすでにアルケブス騎兵による乗馬襲撃が一般化していたと見られる。

これは1640年代までにアルケブス騎兵に求められる役割が変化していたことを示唆する。

変化の要因について、竜騎兵の登場により下馬戦闘の役割が求められなくなったため、アルケブス騎兵は乗馬戦闘に集中したという側面も考えられる。

より重要な要因として、軽装騎兵による乗馬襲撃が可能であるとのアイデアが広まったことが挙げられる。 Bonieresの述べる剣を使用した襲撃は、Melzoの提唱していた乗馬襲撃訓練と似ているにもかかわらずフランスの方法とされており、恐らくはMelzo自身もフランスから影響を受け、剣による乗馬襲撃を推奨したと考えられる。 すでに述べたとおり、フランスでは人員と財政の問題のために槍騎兵からピストル騎兵への移行が行われていた。 当時のフランスでものちにグスタフ=アドルフが経験するような装備の欠乏により、軽装騎兵による突撃を行なわなくてはならない状況が起こり、Melzoはそうした試みを目撃していた可能性がある。 つまり、軽装騎兵による乗馬襲撃は、当初は必ずしも意図されたものではなかったが、戦闘を経てその有用性が示されていったと考えられる。 Melzoの引くアルケブス騎兵中隊が胸甲騎兵中隊を壊滅させた事例もそうした有用性を示す一事例だったのかもしれない。

そしてすでに述べたようにMelzoの著作は複数の言語に翻訳され、1610年代に書物市などを通してヨーロッパ中に伝播しており、剣を装備した軽装騎兵による乗馬襲撃というアイデアが普及していたと考えられる。 グスタフ=アドルフによる装甲の放棄が即座に神聖ローマ帝国軍などに受け入れられたのも、すでに知識として伝播していたためだろう。 そしてこのアイデアにより胸甲騎兵による装甲の放棄という心理的障壁を乗り越えることができたと思われる。

つまり、アルケブス騎兵による乗馬襲撃というアイデアが広まるほど、胸甲騎兵が負担となる装甲を放棄できる理由づけがされ、胸甲騎兵が装甲を放棄し、アルケブス騎兵の装甲に近づくほど、アルケブス騎兵が胸甲騎兵の役割である乗馬襲撃を行うことができるという認識が強化された。

わずか三十年ほどで装甲の放棄が達成された背景にはこうしたフィードバックループが存在していた可能性が考えられる。

同時にこのループは胸甲騎兵とアルケブス騎兵の役割が似通っていく要因ともなり、異なる装備を持つ多数の騎兵種から、同じような装備を持機能の差異が少ない騎兵種となったのである。

21世紀における装甲放棄の試みとしての「FCS Viecle」

西ヨーロッパにおける装甲の放棄プロセスは17世紀より本格化し、わずか30年ほどで完了した。その結果、胸甲、背甲と兜という組み合わせとして装甲が再定義され、数百年にわたってこの地域における標準形となった。 この現象は明らかに特殊でもなければ一回限りの事例でもない。

アジアやアフリカにおいても同様の事例が確認できるだろうし、また現代においても起こりうる事象である。

本項ではアメリカ陸軍における装甲放棄の試みとして、FCSプログラム及び現在進行形の将来戦構想を取り上げる。 なお筆者は18世紀以降の軍隊について無知であるため、検証が容易となるようオープンソースとなっている資料を利用した。

FCS Viecle

1989年に冷戦が終結して以降、仮想敵であるソ連を失ったアメリカ陸軍は、将来作戦構想における投資の範囲を大きく変更することとなった。 2年後に勃発した湾岸戦争では、情報技術の優位性が注目され、いわゆるRMAなどの概念が提唱された一方で、ロジスティクスや軍隊の展開能力に問題があると見做され、将来におけるより展開能力の高い軍隊を訴求する動きが形成された*70

1990年代後半より先進的なセンサーや通信機器等の情報技術のための実験部隊Force XXIやそれを軍隊へ受容するための将来戦力構築プログラムArmy After Nextといった取り組みが行われるようになった。 Army After Nextでは、正規戦を想定した2015年から2025年を想定したウォーゲーム演習が定期的に行われており、のちにFCSプログラムにおける重要な基盤となる地上部隊の迅速な展開などが形成された。 こうした迅速な戦力投射は、敵兵力が有利な位置に展開するのを防ぐだけではなく、戦略的な抑止効果をも持つと期待されていた。 またこうした兵力展開のために空中機動が検討され、特に演習の初期では数百機の垂直離着陸機を使用する想定となっていた。このアイデアは、のちにC-130輸送機を用いた部隊展開へと変化していく。

Army After Nextにおける検討が進む中で行われた1999年のコソヴォ空爆において、アメリカ陸軍はアルバニアへの展開速度が遅すぎるとして批判を招き、同時にほとんど存在価値を示すことができなかった。直後に行われた将来におけるより軽快で迅速に機動可能な軍隊への転換の必要性を強く意識することになった。 1999年10月、陸軍参謀総長であったEric Shinsekiは、合衆国陸軍協会の定例集会の場で行われたスピーチにおいて、必要な機動性の欠如や路地スティカル・フットプリントの巨大化を問題点として挙げ、これらの問題を解決するために、96時間以内に旅団を世界中のどこにでも展開できる能力とそのための重量20トン以下の車両などを開発する計画を発表した*71

2000年1月にDARPAによって纏められたプロジェクトのゴールには、C-130輸送機による運搬可能性かつ車両重量が20t未満であること、33-50%のロジスティクス維持要件の削減、 再補給なしで五日間の作戦が実行可能であることなどが盛り込まれた *72

2001年に提出されたホワイトペーパーでは、上記のプロジェクトゴールを引き継ぎつつ、FCSプログラムが達成された際に期待される戦術を具体化している。

作戦は非接触状況での展開、有利な位置への機動、敵兵器の射程外での接敵、精密射及び必要とされる場合は、自ら選択した時間と場所における戦術的襲撃による撃破によって特徴づけられる。指揮官は、分散配置され、一般的な状況における優位を確立にするためにウェブ中心のC4ISRによりリンクされた、Future Combat System部隊を機動させることによってこれを達成する。これらの能力により、目標とする将来戦力は、作戦のあらゆるレベルにおける遷移を習得する。

このホワイトペーパーでは、こうした特徴を下記の標語に纏めている

  • see first, understand first, act first and finish decisively as the means to tactical success.*

つまり戦術レベルではこのシステムは敵の探知や必要な情報の収集、判断を重視し、有利な位置・距離から敵の戦力を破壊または士気を喪失させることを目標としていた。 *73

一方、システム自体の生存性は反対に敵に探知されないことを重視していた。 C-130による運搬可能性のための重量制限のために、従来の装甲に頼ることができないことは初期から認識されていた。 そのため、カモフラージュなどの使用による探知の回避やアクティブ防御システムなどにより、敵による検知、ターゲティング、被弾、車体の損傷、乗員の死傷の各段階を回避できるような多層的な生存戦略が図られていた*74

ホワイトペーパーではこうした生存戦略を攻勢への志向とも関連づけている。

地上及び空中のプラットフォームは低い被観測性、低減された電子痕跡、防弾性、長距離の目標補足、早期かつ個別のターゲティング、先制攻撃、一撃ごとの標的撃破の最適なコンビネーションを利用する。目標とする将来戦力の生存性は、その速度や殺傷性と同様に、本質的に攻勢への志向と関連する。

兵士及びプラットフォームは、物理エネルギー兵器と、現在の、及び想定される敵の殺傷効果に対する生存性を強化するために、軽量な、より効果的な防弾性(複合素材)を、アクティブ及びパッシブ防御システムに統合する。地上プラットフォームは、低被検知技術、内蔵された多用途かつ特殊な能力、長距離目標補足、早期かつ個別のターゲティング、先制攻撃、一撃ごとの標的撃破の最適なコンビネーションを利用する。各プラットフォームは、敵の地上及び空中の通常型またはスマート兵器に対する早期警戒と打破能力を向上させる。 *75

こうした生存戦略は各システム間をネットワークにより接続し、情報を融通し合うことで可能だと考えられていた。

戦闘単位中の情報・監視・偵察(ISR)アセットは———戦闘単位外及びより高階梯のものと同じく———時宜を得た、正確な状況認識を提供し、敵の火力を回避し、精密なネットワーク化された火力を可能にし、接敵中コンタクトを維持することで生存性を向上させる。

*76

つまりFCSプロジェクトは、部隊の展開能力のために重量を軽減した結果、装甲を減少させ、それを補うためにネットワーク化された情報面で優位に立ち、敵の探知を避け、相手よりも先に敵の戦力を撃破することを目的としていた。 FCSプロジェクトには4種のUAV、3種のUGV、8種の有人車両が含まれており、実現されていれば「革命的」な変革が達成され、その展開能力は戦略的な抑止効果さえ発揮しうると考えられた("FCS 18+1+1 White Paper", p4. Pernin et al, p51, 59-60))。

FCSプロジェクトへの批判

FCSプロジェクトには当時から多くの批判があり、実際に問題も多かった。 例えばShinsekiのスピーチにおいて提唱された96時間以内の展開や20トン以下の重量の戦闘車両といった要素は技術的な裏付けをほとんど持たないだけでなく、先行していたArmy After Nextなどで検証されたものですらなかった。 その一方で、他の要件はイノベーションを促すために曖昧で概念的なものに留まり、結果として十分な分析のないまま20トンの重量制限とC-130による運搬可能性の二つの要件を優先することとなったが、このうち後者については少なくとも2005年までにはほぼ不可能であるという認識が広まっており、前者を達成するための強制関数であるという認識に変化していた*77

またアフガニスタン及びイラクにおける非対称戦争はFCSプロジェクトとそれへの批判に強い影響を与えた。 FCSプロジェクトは進行中の戦争に対して開発中の技術を「スピンアウト」する方針を導入し、結果としてプロジェクト全体にかかるコストを増大させた*78。 特に都市部における非対称戦闘について、FCSプロジェクト発足以前からチェチェン紛争などの戦訓を元に、速度や機動性を有効活用できず、情報の優位性も活かしにくく、結果として戦闘が困難になるという批判が存在していたが、*79こうした批判はイラクアフガニスタンにおける戦訓を経てより具体化された。

こうした批判のうち、2004年にScott Bostonによりアメリカ陸軍戦略大学の季刊誌「Parameters」に投稿された論文は、イラク戦争での戦訓を反映させることでFCSプロジェクトの生存戦略を否定した点で重要である。

Bostonは最初にFCSプログラムにおける多層的な生存戦略というコンセプトについて、実際にはシステム間のネットワークに依存している点が大きいことを指摘し、以下のように批判した。

FCSの生存能力が、全体的には現在の軍隊のそれよりも高くなるとの主張に留意したとしても、ネットワークと運動性への依存は将来戦力の生存能力の70%を占めている。直接火力と装甲防護の減少は、特により防護され、より重武装した軍隊が、同等のネットワークとアクティブ防護を採用することができた場合に高い代償となる。運動性能と先進的なコミュニケーションおよび偵察能力への高依存は、この問題に対するバランスの取れた解答とはなり得ず、またそれはごくわずかな助長性しか提供しない。アメリカの軍隊は、彼らに利用可能なコミュニケーションまたは情報が侵害されたとしても、作戦を継続できるようにあるべきだ。 *80

戦闘単位の重点を精密長距離火力と高機動性及び広範なコミュニケーションと偵察能力に置くことは、平地での戦いにおいて比べるもののない軍隊を作りだすことになる可能性が高い。敵にそのような望まない状況下で接敵してもらうほど愚かでいてもらわなければならないが。しかし、他の多様な状況において、軽量な戦闘車両を基底とするのはリスクとなるだろう。霧や激しい雨、砂嵐などの視界を妨げるものの効果は、偵察・観測能力が開発され、より良いものになるにつれて徐々に減少するだろうが、可視性の制限された環境は問題であり続けるだろう。偵察能力が減衰することは、敵を最初に観測し、一定の距離から接敵することに依存した軍隊にとって、生存能力の低下を意味する。 *81

ここでBostonはネットワーク化された装甲防護を持たない軍隊よりも、ネットワーク化された装甲防護を持つ軍隊の方が良いとする見解を示している。 またシステム間の情報のやり取りがうまくいかない場合や観測能力が上手く機能しない環境下では、FCSプロジェクトが目指すような軍隊は生存能力が大きく損なわれるとしている。

またBostonにとって装甲による防護能力は攻勢において、より大胆な行動をとることができるという点で重要視であり、これはFCSの目指すような軽装甲の部隊には得ることができない利点であるとされた。

十分に防護された部隊は作戦計画時及び実行時により大きなリスクを受け入れることができ、その物理的な干渉力と行動と存在によって戦場を形作る能力は重要になるだろう。そのような防護を欠く部隊もまた、それらの部隊から支援を受けることができる。戦場における摩擦は無くなることがないだろうが、高い機動力を持つネットワーク化された軽装部隊にとって、予期できない戦場環境に対する防止策としてバックアッププランを持つのは有用だろう。重・軽が混合された機械化部隊は単一のタイプに対する防御を計画する敵を敗北させる。それ以上に、近接戦闘に最適化された重装部隊は未来の指揮官にとって、保険として重要な意味を持つ。防護された部隊を統制する時に指揮官が持つこの種のオプションは、 諸兵科連合の歴史において豊富であるが、「イラクの自由」作戦における経験は、最も顕著な事例の一つである。2003年4月5日、第3歩兵師団第二旅団タスクフォース1-64がバグダットへ至る高速道路8号線沿いに奇襲攻撃を行った際、敵の強さや位置について何ら情報を得ないままそれを行った。4月5日におけるタスクフォース1-64の奇襲攻撃の成功は、政権崩壊に寄与した第二旅団がバグダットへ侵攻する際の4月7日のより大規模な攻撃につながった。両者の攻撃において、アメリカ軍のより優れた訓練と協調性は、非常に数で上回られ、複雑な地形を占領する敵について限られた情報しか持たなかったにも関わらず、火力と防護における優位を最大限に発揮することを可能にした。 *82

一方で、Bostonも既存車両の持つ欠点にも注意を払っており、M1エイブラムスを中心とする重装甲部隊の展開能力や将来登場するであろう兵器に対しては限定的な防護しか持ち得ないと言った欠点についても指摘し、その置き換えを主張している。

現代の装甲車両は大きくかつ重く、広範なロジスティクスに関わる支援を必要とする。これは展開と戦略距離を超えた補給を困難にし、そのサイズと重量の問題は、特にほとんど開発されていないインフラストラクチャーしかもたない地域の戦域において、再び問題となる。多くの第三世界の国々における都市部の狭い通りは深刻な問題となる。将来における戦闘環境は、バグダットを通る比較的広い高速道路よりは、閉所恐怖症的なグロズヌイの路地になるだろう。

2020年にはM1エイブラムス戦車は開発から40年を迎える。アップグレードはその効果を数年は延ばすだろうが、この車両の迅速な展開に関する問題は解決できないだろうし、イラクにおける二つの戦争のチャンピョンであるこの戦車に対抗するために特別に脅威に対しても限定された防護しか提供しないだろう。

代替案として、またはFCS有人戦闘車両の装甲防護を改良するのに加えて、陸軍は現在の重装部隊を置き換える次世代装甲部隊を開発するべきだ。この部隊は、火力、防護、戦術的機動を、有り得る最適な割合で組み合わせた、陸軍にとって必殺の一撃となる部隊だ。 *83

最終的にBostonはFCSプロジェクトにおいて、将来の装甲車両の基底として、重量30〜40トンの車両を目標とするべきだとしている。


Bostonの批判に見られるように、アフガニスタンイラクにおける非対称戦争の経験は、対称戦争を想定していたFCSプロジェクトへの疑念を深める効果を果たした*84

こうした影響は、2009年4月にFCSプロジェクトが公式にキャンセルされた際に確定的なものとなった。 この際に、キャンセルの要因として以下の四つが挙げられた。

  • FCS車両の設計戦略に関する膨大な答えられていない疑問
  • FCS車両は———より低い重量と高い燃料効率、そして優れた状況認識能力は、軽装甲を補うと期待されていた———イラクアフガニスタンにおける治安作戦と近接戦闘の教訓を十分に反映していない。
  • 9年前に開発された現在の車両計画には、2500億ドル投資されたMRAP車両の役割が含まれていない。
  • 現在の契約条件、特にとても魅力のない報酬構造による問題 *85

FCSプロジェクトは必ずしも非対称戦争を想定していなかったわけではない。 しかしArmy After Nextにおいて想定されていた同等の技術と装備を持つ敵との正規戦と、イラクアフガニスタンで経験した軍民が混在する市街部における非対称戦争という全く異なる戦争での戦い方をどのように両立させるのかという点について、具体的な方法論を持っていなかったのである(Pernin et al, p78-80))。

こうしてFCSプロジェクトは、技術想定の甘さやスケジュールの度重なる変更、コストの高騰といった要因に加え、非対称戦争の戦訓の影響により中止に追い込まれた。 その後のアメリカ陸軍による次世代戦闘車両の開発の試みにおいて、空輸可能な車両による迅速な展開というコンセプトは2020年にOMFVが中止されるまで残り続けるなどしたが、2015年の時点で軽装部隊には十分な殺傷力がないとし、重装部隊の必要性を認めるなど、装甲の重要性に回帰したように見える*86

しかし、こうした姿勢は再度転換される可能性があると考える。 正規戦への回帰とドローンの広範な利用が、アメリカ陸軍の予測する将来戦像に影響を与え、変化させていると見られるためだ。

正規戦への回帰と変化する将来戦像

主に中東における非対称戦争が区切りを迎えたと判断された後、アメリカが主要な競争相手と位置付けたのは中国及びロシアであった。 これを受けてアメリカ陸軍は中国及びロシアへの対抗のため、2018年の現代化戦略において、領域横断的なマルチドメインオペレーション能力を持つことを目標と定めた上で、2035年までに優先して開発するべき項目として長距離精密火力や次世代戦闘車両群を含む6つの優先開発事項を定めた。

  • 長射程精密火力
  • 次世代戦闘車両
  • 将来垂直離着陸機
  • 分散した部隊との指揮通信のためのネットワーク技術の現代化
  • 防空・ミサイル防衛の強化
  • 兵士個人の殺傷力の強化

*87

またここに含まれる次世代戦闘車両(NGCV)プロジェクトに含まれる機動防護火力(MPF)は、歩兵旅団戦闘団への配備を前提に開発され、それまで配備していたHMMWVでは不足する火力や防護力を提供できるとされた。 同時に、機甲旅団戦闘団の持つM1エイブラムス戦車はその展開能力とロジスティクスへの負担が大きいことから、MPFはより軽量な装甲車両として、比較的貧弱なインフラストラクチャーしか持たないような地域にも展開可能であり、多様な紛争・地形に対応可能であると考えられていた。 公式にはMPFは戦車とは見做されていないが、実際には陸軍内部にも軽戦車のカテゴリに含める見方が強い *88

MPFは2022年にGeneral Dynamics Land Systems社との間に初期低率生産に関する契約が結ばれ、M10ブッカーと名称を変更して生産が開始された*89

2022年10月に発表されたアメリカ陸軍は2030年における陸軍の将来像において、以下の能力を獲得しているべきだとした。

  • 敵よりも遠く、永続的に多数を捉えることができるセンサー
  • より殺傷能力の高く、探知されにくい戦闘部隊を、分散された配置から迅速に選択したタイミングと場所に集中させる能力
  • 統合軍の一部として前線から遠距離かつ大量の敵部隊に対して行う精密長射程火力の発揮
  • 空中及びミサイル、ドローンからの防護
  • 我々自身及び姉妹群、同盟相手との信頼できるコミュニケーションとデータ共有のために、敵のサイバー及び電子攻撃から安全であること
  • 戦闘地帯において、想定される時間以上に戦い続けることができる能力を持つこと *90

こうした目標の一部、低被検知能力や精密火力などの要素はFCSプロジェクトにおけるゴールと共通している点が見られる。 陸軍がこうした目標を定めるに至った背景として、同年にはじまったロシアによるウクライナ侵略戦争の影響が想定される*91

しかしこの戦争において、アメリカ陸軍の想定する将来戦場像はArmy of 2030の想定を超えて変化する可能性がある。

Institute for the Study of Warの直近のレポートでは、ウクライナ軍とロシア軍双方におけるドローンの使用と火力との連携を分析し、偵察・攻撃ドローンと砲兵による連携された火力の発揮を戦術偵察打撃コンプレックス(TRSC)と名付けて評価している。 このレポートでは2023年のウクライナ軍の南部への反抗は、その前進のほぼ全てをロシア軍のドローンに観察されており、攻撃ドローンや砲兵と連携することで反撃以前にウクライナ軍に多大な損害を与えることに成功していたとする。 一方、ロシア軍の2024年の攻勢では、都市部へのミサイル攻撃により前線から対空アセットを引き上げさせることで滑空爆弾によるウクライナ軍陣地への空爆を可能にし、大量の装甲車両による突破を試みたが、ほとんど成果を得られなかった。これはウクライナ軍がFPVドローンを用いて敵装甲車両の光学機器やエンジン、履帯を破壊することでミッションキルに追い込む手法に熟練しており、かつドローンによる砲兵の弾着観測を利用することで効果的な車両の破壊に成功していたためだとされる。その結果、ロシア軍の進撃速度は歩兵と同等にまで落ち込んだ。 *92

こうしたウクライナにおける戦争を戦訓として取り入れる動きがある。 アメリカ陸軍少将Curt Taylorは、ナショナルトレーニングセンター(NTC)ウクライナでの観察を参考にした模擬戦闘で得られた教訓について、Modern War Instituteの公式サイトに投稿している。 *93 それによるとドローンだけでなく、商業衛星画像やソーシャルネットワークに投稿された画像、私服の偵察員すら使用されたという。 これらの演習では、単に探知を避けるだけでなく、敵による目標の識別を困難にするための偽装やデコイの使用が有効であるとされた。 これは対砲迫射撃による撃破を避けるために、砲兵は射撃後に移動する必要があり、必然的に射撃の回数が減少し、限られた射撃機会でより大きな効果を産むために目標の選定が特に重要となるためである

また、被害を避けるために、車両などのアセットの配置の分散化も重要であるとされる。 演習に参加した旅団戦闘団の指揮官曰く、「アメリカンフットボールを隣の車両に投げられるなら、それは近づきすぎているということだ」。 これは同時に部隊を迅速に選択した場所とタイミングで集中させる能力がますます必要になることを示唆する。

Bostonの主張していたような、装甲により指揮官や兵士がよりリスクの高い行動をとることができるようになる、という認識に関する戦例も得られた。 TRADOCのアナリストによるレポートでは、ウクライナ戦争におけるUGCVの活用と前線への襲撃に注目し、将来戦への教訓と位置付けている。 このレポートによれば、複数のUGCV及びUAS、FPVドローンが作戦に参加し、ロシア軍部隊を撤退させることに成功したとされる*94。 レポート内ではこの作戦は兵士の命をリスクに晒す可能性を減らしたとして高く評価されている。

アメリカ陸軍は兵士の安全性を高めるための装備として無人車両(UGV)に注目しており、次世代戦闘車両開発計画にはRobotics Combat Vehicleが加わっている。2017年に発表された将来開発ビジョンでは、将来的にUGVやUAVなどが近接戦闘の場に配備される構想が発表されている*95


アメリカ陸軍は90年代以降、一貫して長距離精密火力と敵の探知に関わるセンサー技術に注力していた。 識別能力への注目は、こうした能力を敵が発揮するようになったという認識に基づく。 そのためにアメリカ陸軍は検知を回避するだけではなく、検知され、かつ敵が十分な火力を発揮できることを前提とした戦力の構築を行う必要に駆られている。

次項では上記の前提をもとに、将来における装甲と車両の生存能力の関係を推測する

今後の展望

FCSプロジェクトでは展開能力のために重量制限が加えられ、結果として装甲に頼らない戦闘車両の必要性が生まれた。 この構想では敵からの探知の回避を重視し、敵よりも早く相手を探知し、先に撃破することで生存能力を確保しようとした。

しかしこの構想は、プロジェクト自体の杜撰さとその後に経験したアフガニスタン及びイラクでの戦訓をもとに否定される。 非対称戦争からニアピアを想定した正規戦への変換では、FCSプロジェクト以前から認識されていたM1エイブラムスの展開能力やロジスティクス負担といった問題を補うために、実質的に軽戦車であるMPFの開発が進められた。

しかしウクライナにおける戦争では、ドローンと砲兵が連携して発揮する火力や、衛星画像等を利用することにより、アメリカ軍がそれ以前の20年間で経験した非対称戦争とは異なり、探知と火力の発揮がより効率的に行えるようになっていた。

ウクライナ戦争を参考にした将来戦の演習からは探知された後に敵による識別を困難にし、あるいは撃破を避けるために車両などのアセットの分散化が推奨されると同時に、戦例からは近接戦闘におけるリスクをUGVに肩代わりさせられる可能性が示唆されている。 こうしたNTCにおける演習やウクライナ戦争における戦訓の解釈から、探知されることを前提に、戦闘車両を含めた部隊の生存能力を高めるために優先するべき事項が装甲ではなくなりつつあることをアメリカ陸軍が認識しつつある可能性が示唆される。

この推測が正しかった場合、アメリカ陸軍の将来装甲戦闘車両は大幅に軽量化される可能性がある。 すでに装甲はその重量のために展開能力やロジスティクスの問題を助長させると考えられているが、さらに識別の容易さや運動性能といった、将来戦環境において不利を生じると見做されうる要素を助長する側面がある。

軽量化の結果、装甲に頼らずに生存能力を向上させる要素として、これまで挙げられた要素の他にアクティブ防護システム等が加えられるだろう。 ただし砲兵とは異なり隠蔽されたドローン陣地から安全に攻撃可能なFPVドローン部隊*96などにとっては、価値が高いアセットほど高いコストをかけるべき撃破対象になりうる。 TRSCと装甲車両の間に一種の軍拡競争が行われると仮定した場合、前者は隠蔽の利点を最大限に活かせるのに対し、後者はコスト面や戦闘効率の面で不利を被ると考えられる。

そのため、アクティブ防護システムやRWS、ドローンジャマーなどの車両への搭載は、魔法の杖ではなくあくまで識別回避能力を補助するものに留まる可能性が高い。

近接戦闘におけるリスクも、戦闘車両へのUGVやUAVの随伴により分散され、結果として装甲=重量の軽減が進むだろう。

ただし、例えアクティブ防護システムや識別回避のためのシステムがどれほど加えられたとしても装甲が完全に放棄されるわけでもないだろう。 ロジスティクスの負担や運動性能、再補給なしでの作戦継続可能時間との兼ね合いの上で重量が制限され、その範囲内で搭乗員保護のために定められた一定の装甲を持つことになると思われる。

恐らく30年以内に、装甲戦闘車両はBostonの主張と同様に重量30〜40トン程度になり、その分の装甲は失われ、他の形で補われることとなるのではないか。 さらに長期的には30トンを下回る可能性もありうる。


ただしこうした推測が外れる可能性は当然ながらある。

例えばウクライナ戦争において、グスタフ=アドルフとヴァレンシュタインが騎兵の装甲について異なる見解を得たように、ウクライナ戦争から得られた戦訓について異なる見解を持つ可能性がある。 またウクライナ戦争以外の戦争が勃発した場合にも同様に異なる戦訓が得られる可能性がある。 仮に識別の妨害や部隊の分散といった戦訓が得られたとしても、装備や部隊への反映方法は上記の推測以外の方法でなされる可能性もある。

技術的な要素の発展も重要である。 中期的にはTRSCを機能させないために対ドローン技術や砲戦技術が発展する可能性が高いだろう。 だが、TRSCを構成するドローン陣地が持つ隠蔽された陣地から敵を探知・観測・攻撃可能という特徴がすぐに失われることは考えにくい。 さらに、TRSCの自動化や、空中・地上における火力プラットフォームやさらに多様な種類の空中・地上ドローンが追加されるなどの洗練が起きる可能性は高い。 ドローン対策と同様に、ドローンを用いた戦術も未だ洗練過程にあり、解決されていない問題点も多い*97

装甲車両によってTRSCを構成し、機動化を志向する場合は、推測とは逆に重装甲化がもたらされる可能性があるが、技術的なハードルは高いだろう。

他に政治的な要素も強い影響を及ぼす。 すでに現行のトランプ政権ではM10ブッカーの調達及びRCVプロジェクトがキャンセルされている*98。 M10ブッカーについては、適当な白人兵士の名前がついてたら調達がキャンセルされることはなかったのではと思わなくもない。

アメリカ国内の要因以外では、恐らく中国の次世代主力戦車が最も影響を与えうる。 例え直接的な対決が想定されないにせよ、ドローンなどを利用したTRSC-Likeな運用は中国が先行していると考えられるため、何らかの影響を与えるだろう*99

しかし最も影響の大きい要素は、17世紀の西ヨーロッパの軍人たちが騎兵種の変遷の過程で体験したように、アメリカ軍が自ら参戦する戦場において、どのような経験を得るかという点だろう。

おわりに

本稿ではまず17世紀初頭の軍人Lodovico Melzoの著作を元に、当時における騎兵種とその戦闘方法からMelzo自身の持っていた装甲に対する価値観を考察した。 Melzoは装甲を重要な要素と見做すと同時に、装甲をほとんど持たないアルケブス騎兵を含めた兵種間の協調を重視しており、異なる装備を持つ兵種の協働を理想としていた。

次におよそ30〜35年後の軍事著作家2名の文献から騎兵種の変遷を辿り、それぞれの記述をMelzoのものと比較することで装甲を放棄するに至った要因を考察した。 両者ともに胸甲騎兵が軽装化しつつあるという点で一致を見ており、その要因としては武具を運搬する従者らの存在が減少したことが挙げられる。 また、アルケブス騎兵による騎兵襲撃の一般化は軽装化を助長した。

軽装の騎兵による剣を利用した突撃というアイデアは、近世ヨーロッパ特有の恒常的な戦争状態のなかにあってさえ、一般化するのに30年程度の時間を要した。 この年数自体が、装甲の放棄に対する心理的抵抗を表してもいる。


20世紀終盤のアメリカでは、来るべき正規戦に備えるために、展開能力とロジスティクス負担の問題を解消する動きが生じ、FCSプロジェクトとして劇的に重量を減らした装甲戦闘車両が構想されるに至った。 この構想では重量制限のために減らされた装甲を補うために敵による被探知の回避など、装甲に頼らない生存能力が追求された。 しかし21世紀初頭にアメリカ軍が経験した非正規戦争の経験からこれらの構想は否定される。

正規戦への回帰後、一部の要素は前世紀終盤から引き継がれ、新たにM1エイブラムス戦車よりも軽量な「軽戦車」MPFが構想された。 2022年より始まったウクライナ戦争は、一貫して探知能力と長距離精密火力を志向してきたアメリカ軍に認識の変換を迫りつつある可能性があり、識別の回避や部隊の分散といった要素が注目されている。 その結果、不確定な要素が多いものの、30年以内に重量の軽減、つまり装甲の放棄が始まる可能性がある。


17世紀における装甲の放棄と、20世紀終盤から初頭におけるその試み、また2020年代以降に起こりうる2度目の試みでは、それぞれ異なる要因によるものであることがわかる。

いずれの要因も軍隊の構成員の変化や戦略・戦術上の変化が認識された結果もたらされた要求であり、武装はそれぞれの要求に適合することが求められるものとなる。 言い換えれば、優れた武装が存在するのではなく、適した武装が存在する。

また、それぞれの時代に存在した装甲の放棄への反発は、装甲が生存能力に直結するためであり、運動能力やロジスティクス上の負担といった要素よりも優先するべきものだという軍事パラダイムが存在していたことを示唆する。 17世紀の事例から、こうしたパラダイムの変換には、知識だけではなく実践が必要だったことが示されている。 これは事前の知識に基づく予測とそれが実行に移された際に得られる経験の差異に基づくものであり、軍事装備の将来予測が困難である要因でもある。

そのため、過去の出来事にせよ未来の予測にせよ、こうした経験、つまり戦場での出来事をどう認識するのか、あるいはどのように語るのか、といった点に注意を払う必要がある。 こうした手法はおそらくはWar Narratives研究を参考に、Military Narrativesの分析として確立できる可能性がある。

以上。

追記

20250722

以下の出典を追記

  • Lamal, p237

  • Kagan .et al, p41. この利点は今後も長期的に不変ではないかと考えられる。被検知が前提となる戦場においてこの利点が兵士や指揮官にもたらす心理的効果は絶大なものだろう。

*1:Treva J. Tucker, "Eminence over Efficacy: Social Status and Cavalry Service in Sixteenth-Century France", The Sixteenth Century Journal , Winter, 2001, Vol. 32, No. 4, p1066

*2:Michel Roberts, "The Military Revolution, 1560-1660", The Military Revolution Debate, 2019, p23

*3:Allan Gilbert, "Fr. Lodovico Melzo's Rules for Cavalry", Studies in the Renaissance, Vol. 1, p106

*4:Nina Lamal, "Publishing Military Books in the Low Countries and in Italy in the Early Seventeenth Century", p229, 232, 237

*5:Melzoは本書中でも自身の率いた騎兵による襲撃に関して触れているp34-35

*6:Treva J. Tucker, "Eminence over Efficacy: Social Status and Cavalry Service in Sixteenth-Century France", p1061-1062

*7:Tucker, p1072.

*8:Tucker, p1069. John A. Lynn, "TACTICAL EVOLUTION IN THE FRENCH",p183.

*9:Tucker, p1070-1072. Ronald S. Love, ""All the King's Horsemen": The Equestrian Army of Henri IV, 1585-1598", The Sixteenth Century Journal, Vol. 22, No. 3 (Autumn, 1991), p515-516

*10:Tucker, p1073

*11:Love, p513-515, 517-519

*12:Love, p523-524

*13:Michael Roberts, "The Military Revolution, 1560-1660”, The Military Revolution Debate, p14

*14:Richard Brzezinski, "The Army of Gustavus Adolphus(2) Cavalry", p4

*15:Brzezinski, 1993, p24-33

*16:Brzezinski, 1993, p33-34. Frederic Chauvire, "The New Knights: The Development of Cavalry in Western Europe, 1562-1700", p191

*17:Brzezinski, 1993, p9-11

*18:Richard Brzezinski, "Lützen 1632: Climax of the Thirty Years War", p89-90

*19:Geoffrey Parker, "The Army of Flanders and the Spanish Road 1567-1659", 2004, p79

*20:Parker, p9

*21:Parker, Ibid, p235

*22:di Gaspare De Caro, "BASTA, Giorgio", Dizionario Biografico degli Italiani - Volume 7, 1970

*23:Eduardo De Mesa Gallego, "La pacificación de Flandes Spínola y las campañas de Frisia (1604-1609)", 2009, p49, 65.

*24:De Mesa, Ibid, p85-89

*25:lanzas

*26:Arcabuceros

*27:Corazas

*28:Melzo, p23

*29:Melzo, p23

*30:出典: München, Bayerische Staatsbibliothek, https://www.digitale-sammlungen.de/en/details/bsb10526388

*31:Melzo, p23

*32:Melzo, p23

*33:Melzo, p23

*34:Melzo, p24

*35:Melzo, p100

*36:出典: München, Bayerische Staatsbibliothek,

https://www.digitale-sammlungen.de/en/details/bsb10526388

*37:Melzo, p24

*38:Melzo, p104

*39:Lamal, p237

*40:Melzo, p26

*41:Melzo, p26

*42:p26-27

*43:出典: München, Bayerische Staatsbibliothek, https://www.digitale-sammlungen.de/en/details/bsb10526388

*44:Melzo, p27

*45:Melzo, p90

*46:Melzo, p88

*47:バート・S・ホール, "火器の誕生とヨーロッパの戦争", 1999, p298-313

*48:Melzo, p29

*49:Melzo, p27-28

*50:出典: München, Bayerische Staatsbibliothek, https://www.digitale-sammlungen.de/en/details/bsb10526388

*51:Melzo, p93

*52:Melzo, p29

*53:Melzo. p36

*54: Laurence Spring, "The Bavarian Army During the Thirty Years War, 1618-1648: The Backbone of the Catholic League", 2021, p113-115

*55:Pierre A. Picouet, "The Franco-Spanish War: the Siege of Lleida from 1644 to 1647", p13

*56:Munoz del Peral, p26

*57:Munoz del Peral, p26-27

*58:Munoz del Peral, p21-22

*59:Munoz del Peral, p62-63

*60:Bonieres, p128-129

*61:Bonieres, p129

*62:Chauvire, p107, p119-124

*63:Chauvire, p146-151

*64:Parker, p79

*65:Parker, p252

*66:Sancho de Londoño, Discurso sobre la forma de reducir la disciplina a mejor y antiguo estado,p25

*67:Parker, p151

*68:CHARLES H. CARTER, "BELGIAN "AUTONOMY" UNDER THE ARCHDUKES, 1598-1621", THE JOURNAL OF MODERN HISTORY Vol.34. No.3, p251

*69:David Parrott, "Buisiness of War", p182-189

*70:Christopher G. Pernin et al, "Lessons from the Army’s Future Combat Systems Program", p5-6,

https://www.rand.org/pubs/monographs/MG1206.html

. Pat Proctor, "Lessons Unlearned: Army Transformation and Low-Intensity Conflict", p33-34,

https://press.armywarcollege.edu/parameters/vol47/iss4/6/

*71:Pernin, p6-17

*72:Brian R.Zahn, "The Future Combat System: Minimizing Risk While Maximizing Capability", p13, https://apps.dtic.mil/sti/pdfs/ADA574181.pdf

*73:Department of the Army Chief of Staff, "Concepts for the Objective Force", 2001, p6, https://apps.dtic.mil/sti/pdfs/ADA578581.pdf

*74:R.Zahn, p27-28

*75:"Concepts for the Objective Force", p14-15

*76:"FCS 18+1+1 White Paper", p6, https://www.govinfo.gov/content/pkg/GOVPUB-D101-PURL-LPS62251/pdf/GOVPUB-D101-PURL-LPS62251.pdf

*77:Pernin et al, p 62−65

*78:Pernin et al, p36−40

*79:Proctor, p39

*80:Scott Boston, "Toward a Protected F otected Future Force", p57,https://press.armywarcollege.edu/parameters/vol34/iss4/3/

*81:Boston, p61

*82:Boston, p62-63

*83:Boston, p65-67

*84:Pernin et al, p53

*85:Pernin et al, p47-48

*86:"The US Army Combat Vehicle Modernization Strategy", p2

*87:"2019 Army Modernization Strategy: Investing In Future", p3-7, https://www.usarpac.army.mil/Portals/113/PDF%20Files/2019_army_modernization_strategy_final.pdf?ver=-_Oh23XuHOewM94XwLz0Rw%3D%3D×tamp=1669926984938

*88:Ben Ferguson & Lennard Salcedo, "Mobile Protected Firepower: An Opportunity", p1-6, https://www.benning.army.mil/infantry/magazine/issues/2022/Winter/pdf/13_Salcedo_Ferguson-MPF.pdf

*89:Department of Defence, "Modernized Selected Acquisition Report (MSAR) M10 Booker (Booker)", p5, https://www.esd.whs.mil/Portals/54/Documents/FOID/Reading%20Room/Selected_Acquisition_Reports/FY_2023_SARS/Booker_MSAR_Dec_2023.pdf

*90:U.S. Army, "Army of 2030", https://api.army.mil/e2/c/downloads/2022/10/06/4632c205/army-2030-information-paper.pdf

*91:現にArmy of 2030ではロシアが「深刻な脅威」を引き起こしているとしている

*92:Frederick W. Kagan .et al, "Ukraine and the Problem of Restoring Maneuver in Contemporary War", p27-35, https://www.understandingwar.org/backgrounder/ukraine-and-problem-restoring-maneuver-contemporary-war

*93:Curt Taylor, "Preparing to Win the First Fight of the Next War", https://mwi.westpoint.edu/preparing-to-win-the-first-fight-of-the-next-war/

*94:Dorsel Boyer II,, "Ukraine’s Uncrewed Air and Ground Systems Teaming Marks a Watershed Moment"

*95:"The U.S. Army Robotic and Autonomous Systems Strategy", p2-6, https://mronline.org/wp-content/uploads/2018/02/RAS_Strategy.pdf

*96:Kagan .et al, p41. この利点は今後も長期的に不変ではないかと考えられる。被検知が前提となる戦場においてこの利点が兵士や指揮官にもたらす心理的効果は絶大なものだろう。

*97:Kagan .et al, p45-46

*98:Breaking Defense, "Army to cancel planned Robotic Combat Vehicle award, pause howitzer competition: Sources", Army to cancel planned Robotic Combat Vehicle award, pause howitzer competition: Sources - Breaking Defense

*99:2020年9月初めに放映されたCCTVの番組「军迷天下」において、AFT-10部隊が訓練目標の観測のために小型ドローンを使用している様子が確認できる。ただしこの時点では正式に訓練に取り入れられたものではない可能性がある。 https://youtu.be/pY4LPP8wzRw?t=909

トーマス・ロックリーの著作について

はじめに

本稿ではトーマス・ロックリーの著作およびTwitter上で見られる批判について記述する。

ロックリーへの中傷が拡大した経緯については以下のブログが詳しい。

nou-yunyun.hatenablog.com

上記のブログでは、たとえ「中心となる言説が伝言ゲームから変容した単純なデマ」であっても、目にした人間がそれを内面化したまま「不信感」と「懸念」という印象を残すことについて触れられている。

したがって本稿はロックリーの著作だけではなく、その著作に対する批判を含めて検証する。

なお、弥助の身分に関する批判は歴史研究者の平山優が具体的な基準を示す解説を行なっている*1

K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
なんか、織田信長に仕えた黒人の弥助の話題になっているみたい。彼に関する史料はかなり乏しいが、信長に仕える「侍」身分であったことはまちがいなかろう。出身の身分がどうであれ、主人が「侍」分に取り立てれば、そうなれたのが中世(戦国)社会。なんでそんなことが言えるかといえば、①信長より「扶持」を与えられている、②屋敷を与えられている、③太刀を与えられている、と史料に登場するから。「扶持」を与えられ、信長に近侍しているということは「主従の契約」「扶持の約諾」という重要な用件を満たしている。また、太刀を許されているので、二刀指であり、下人などではない(下人には刀指が認められていない)ことも重要。ましてや、屋敷拝領ならば、疑問の余地はない。宣教師の奴隷を、信長が譲り受けたところまでは、奴隷だったのだろうが、上記の①~③により、彼の意思によって「侍」分になったのだろう。本能寺の変時に、明智方が「動物」「日本人に非ず」などとして殺害しなかったというのは、それは明智が弥助を「侍」と認定しなかった(差別意識があったのだろう)だけにすぎない。身分が低い者を、主人が「侍」に取り立てることは、当時としては当たり前であった。そもそも、秀吉って立派な事例があるじゃんね。
午前2:47 · 2024年7月20日
900.2万 件の表示

また弥助関連史料が以下のブログにまとめられた。

sleepcratic-republic.hatenablog.com

特に上記に付け加えることもないため、本稿では主にアフリカ人奴隷の日本における存在に関するロックリーの主張と批判について記述する。

「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」及び「African Odysseys:AFRICA, INDIA AND BEYOND IN THE EARLY MODERN WORLD」

『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』はロックリーが執筆し、2017年に太田出版より販売された書籍であり、全7章と後書きから構成されている。

この本は物語形式で語られる箇所と史料やインタビューをもとに歴史上の弥助や現代における弥助の受容について語られる箇所に大きく分けられる。 物語形式となっているのは、弥助の日本上陸から本能寺の変までが語られる第一章前半部と、弥助の出身地から本能寺後の人生までが語られる第七章の二つの章である。 それ以外の章では、インタビューをもとに現代の弥助像とその需要が語られる第三章を除いて、資料と著者の仮説に基づき弥助と弥助の生きた同時代の環境について語られる。

つまり最初に物語として弥助の人生の一部を取り上げ、ついで資料を挙げながら物語の根拠となるものを示し、足りない部分は仮説で埋めつつ、最後の第七章で弥助の人生そのものを物語として再構成する、という形式になっている。 こうした「歴史物語」的なパートと史実を解説するパートが混淆する形式は、日本においては珍しいものではない*2

ロックリーはこうした本書のスタンスについて、後書きで以下のように述べている。

私がこの本を書くに至ったきっかけは偶然だったが、書けば書くほど、それに値する題材だと実感した。しかし、執筆はそう簡単にはいかなかった。専門外の内容であり、また史料の数がきわめて少ないうえに、矛盾した記述や不正確な記述にあふれていた。難しい判断を迫られることも、子供の頃にしか使ったことのない想像力を駆使せざるをえないこともあった──弥助はどんな容貌だったのか?  彼の姿を見たとき信長はどんな反応をしたのか?  また、なぜ信長はその反応を示したのか?  つまり、この本の基となった弥助に関する論文を読んでくれた専門家の言葉を借りれば、こういうことになる。「君は最大主義者的手法を取っているように思う。同じだけの確率で〝ないかもしれない〟場合にも、だいたいにおいて〝あるかもしれない〟方を採用している。とはいっても、史料が不充分な場合には、そうでもしないと先に進めないだろう」。その言葉は、本書のスタンスを端的に表している。

つまりロックリーは本書が信頼性に欠けることを意識し、楽観的な願望が入り混じっていることを率直に認めている。

またロックリーは後書きにおいて、弥助について興味を持ち、調査するうちに近世における世界規模の人の移動へと興味が移っていったことを述べている。*3

その興味が反映されたのが2020年に出版された『African Rulers and Generals in India』に収録されたエッセイ「African Odysseys」であると見られる。 このエッセイはインド、中国、日本へのアフリカ人の移動に焦点を当てており、弥助は登場するものの主題ではない。 「信長と弥助」と共通する記述が見られるだけでなく、後述するリチャード・コックスの日誌など「信長と弥助」の内容を一部補完する要素も備えている。 こちらのエッセイでは「信長と弥助」に見られるような仮説は大幅に後退しており、先行する文献の内容をまとめたものとなっている。

ロックリーの著作は両者とも参考文献の記述をもとにしており、仮説はそれらと区別して書かれている。 また「信長と弥助」において、仮説が頻繁に現れるのは弥助が来日する以前の経歴である。 これは弥助に関する史料のほとんどが来日後のものであり、来日前の経歴は不明であるため、仮説で補う必要性があったためだとと考えられる。

参考文献もほとんどが論文等の学術資料であり、信頼性に欠けることを意識しつつも記述の妥当性に一定程度気を配りながら記述されたと考える。

「黒人奴隷」は流行したのか

「信長と弥助」には「黒人奴隷が日本国内で流行した」という記述が見られる。 本稿ではこの記述について、初めにツイッター上で拡散された誤読に基づく批判を取り上げ、次いで「流行」が存在した可能性について、ロックリーが参照したと考えられる先行研究をもとにしながら述べる。

「誤読」の拡散

いつ
@naturalbarance
今トーマスロックリーの本読んでるんだけど、ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんてそんなひどい嘘ある…?
午後6:47 · 2024年7月15日
349.5万 件の表示

同ツイートに添付された画像

添付された画像は「信長と弥助」の13ページ目に当たる箇所である。 「ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんて」とは以下の記述を指すと見られる。

地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。

しかしこの記述を持って「日本全体でアフリカ人奴隷を使う流行」があったとは言えない。 この文章の直前で九州に言及しており、「地元」が九州を指すものと読み取れるからだ。

この当時は貿易商が九州沿岸にある港から離れることは滅多になかった。したがって弥助は内陸部に赴くたびに、大騒ぎを引き起こした。

直後のページでも「弥助が九州を沸かせた」という表現があり*4、これらの文章で舞台として想定されているのが九州であることがわかる。 つまり「日本全体でアフリカ人奴隷を使う流行した」というのは明らかに過剰な表現である。

「いつ@naturalbarance」というアカウントは、前述のツイートに対して以下のように説明している。

いつ
@naturalbarance
なんか見た。ロックリー氏の著書の例の部分って、『弥助が内陸部に行く度に話題になって、そっからアフリカ人奴隷が流行った。弥助はこの流行の草分け的存在』ってことが書いてあるのね。それって九州→京都間、つまり西日本で流行ったってことだなって読み方を私はして、
午後2:43 · 2024年7月22日
297 件の表示

前述したように、ロックリーは該当の文章の前後で九州のみに言及している。 「内陸部」という表現もその直前の「九州沿岸部」という表現と対になっており、「九州の内陸部」を示していると考えるべきである。 従ってここで示される解釈は誤りであり、「ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんて」という解釈が誤読によるものであったことがわかる。

しかし当該アカウントのその他の投稿を確認する限り、明らかに悪意のない誤読であるといえる。 「日本でアフリカ人奴隷が流行した」という表現はロックリーの元の文章と比べて明らかに過剰な表現といえるが、画像を添付することでロックリーの文意を読者が検証可能にしており、自身の投稿を利用したロックリーへの中傷を止めるよう呼びかけてもいる。

いつ
@naturalbarance
ロックリー氏への誹謗中傷を扇動しているかのように見える動画制作の仕方はとても嫌です。
私のポストを引用するのは構いませんが、くれぐれもよろしくお願いします。(欲を言えばお知らせ頂ければありがたいです)
午後8:23 · 2024年7月21日
711 件の表示

ロックリーの著作を実際に参照し、引用元を明らかにした上で根拠となる画像を示し、結論に至るまでのプロセスを開示し、中傷を止めるよう呼びかけている点で、非常に誠実といえる。

他にも「信長と弥助」の画像を添付しつつ、「日本でアフリカ人奴隷が流行した」という表現を用いたアカウントは複数確認できたが、上記のような手順を踏んだアカウントは他に確認できなかった。

一方で、「日本で黒人奴隷が流行した」という記述を批判する投稿は、これ以降繰り返し発信され、拡散される。

ケイ
@ksk0628ps
アサクリ、話が凄い勢いで展開してる

ロックリーの「日本が黒人奴隷を流行らせた」というのは、おそらく世界史上最悪の歴史改竄やね

日本では鎌倉時代に定められた御成敗式目(要するに法律)で人身売買は禁止、奴婢も一定期間で解放するよう定められた

それ以降、日本に奴隷は存在しない
午後9:13 · 2024年7月16日
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しゃいん
@shine_sann
日本で黒人奴隷が流行していて、それを見た教会は反対したとか本に書いちゃう海外の超ド級のバカと、日本に奴隷はいなかったとかいう超ド級の防御ラインを設定しちゃう日本の超ド級のバカの、バカ頂上決戦が行われている。
ここはX。通称、バカッター。
午後8:42 · 2024年7月18日
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上記の他にもバックグラウンドの異なる複数のアカウントが同様の主張を発信・拡散していることが確認できる。 これらは全て誤読に基づいており、ロックリーへの批判としては適当でない。 興味深い点として、「日本が黒人奴隷を流行らせた」「日本で流行っている黒人奴隷に教会が反対した」など、文章が微妙に改変されながら再発信されていることが確認できる。

前述したように、ロックリーの文意は「九州の沿岸部の名士の間に、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うことが流行した」であり、「日本が黒人奴隷を流行らせた」「日本で流行っている黒人奴隷に教会が反対した」という主張ではない。 反対にロックリーはポルトガル人が来日以前からアフリカ人奴隷を使役していたこと、キリスト教修道会が奴隷制度の正当化に加担していたこと*5について記述しており、上記の改変によって加えられた文脈はロックリーの主張ではない。

従ってこれらのアカウントはロックリーの著作を参照しないまま批判をおこなっている可能性が高いと考える。

ロックリーの主張の検証

該当の記述は第一章前半に登場する。 この箇所を含む第一章前半部分は歴史物語という形式をとっているため、すべての記述をロックリーの主張と受け取るのではなく、脚色があることを前提に考えるべきである。 一方で、この歴史物語に登場するその他の脚色やストーリーなどの根拠となる史料や仮説は後続の章において語られているため、この「黒人奴隷が流行」していたという表現にも何かしらの根拠が存在すると見られる。 先行研究においても、奴隷であったか否かについては触れていないものの、カフル人を配下にする「流行」に触れているものが存在している*6

実際に第三章において以下の記述が見られる。

一六一三(慶長十八)年から一六二三(元和九)年まで在日イギリス商館長を務めたリチャード・コックスも、その手記の中で、ヨーロッパ人貿易商だけでなく、有馬氏、松浦氏、島津氏に仕えたアフリカ系の人々(カフロ)にも触れている[9]。コックスの在任時には日本はおおむね平和だったこともあり、船乗り、使者、召使、奴隷として仕えていたと書かれているが、アントニーという名の松浦家の元奴隷をあるイギリス人が行政職で雇用したという記述もある*7

「流行」については触れていないものの、ロックリーがコックスの手記を元に九州大名に奴隷を含むアフリカ系の配下が存在していたと判断していることがわかる。

またこうした外国人奴隷の実態について、ロックリーは以下のように述べている。

当時の奴隷制度の形態は、現在、一般的に考えられている形態とは異なり、契約労働者に近いものだった。日本在住の黒人、中国人、朝鮮人奴隷たちは職業を持ち、所有者の家に養子として迎えられたり、家族の誰かと結婚したりすることもあった*8

ここでロックリーは外国人奴隷が奉公人や下人として日本社会に組み込まれていったことを想定していると見られる。 参考文献として挙げられているThomas Nelson, 『Slavery in Medieval Japan』では奉公人は債務奴隷の一種と見做されている。*9

奴隷とは動産又は財産であると見做され、権利を制限された人間を指すが、その実態は時代、地域に応じて多様な形態を取り、権利の制限の度合いも様々である。 例えばスペインやポルトガルの奴隷は、法的に定義される存在であり、国王による保護を受けることができた。 奴隷は法律上裁判権を有しており、自身の所有者を提訴し、「正当な奴隷」ではないことが判明すれば自由民となることができた*10

一方で一部の奴隷、特に債務奴隷は、しばしば動産ではないservitudeとの区分が曖昧であり、例えば同時代のフィリピン諸島のalipinsおよびoripusは債務奴隷debt-slaveと見做されてきたが、近年になって債務に基づくservitudeである、という見方が優勢になった*11

従って日本における奉公人が奴隷slaveとして見做されうるかどうか、といった問題が当然想起されるが、ロックリーではなくNelsonの問題なのでスルーする。

日本におけるアフリカ人奴隷の価値について、ロックリーは2020年のエッセイの中で黒人奴隷の価格について述べている。

アフリカ人奴隷の価格として請求される金額は法外なものになりえた。日本在住のあるスペイン人、ミゲル・デ・サリナスは(アントニーと呼ばれる黒人奴隷を購入するために)4000タイスを払ってでも手に入れたい、と語ったと引用されている。この価格は誇張されたものだが、コックスは1人の黒人奴隷に50レアル支払われた例に言及しており、これはモザンビークにおける黒人奴隷一人当たり5~7ローマンスクードという価格と比較できる。*12

ここでは黒人奴隷が日本では高価な存在であったことが述べられている。

ロックリーが根拠として挙げるコックスの日記を確認すると、1618年1月1日付の証文では「平戸の王」への貸付金が3000タイス、火薬半樽の価格が10タイスである。また1620年1月31日には自身の所有する船舶の食糧代として2000タイスを支払っている。 1615年2月22日付の記載では「Mats」という名前の少年が10タイスで売買されており、4000タイスという額がかなり高額であることがわかる。

一方「黒人奴隷に50レアル支払われた例」とは1621年1月28日付の記載であり、ここでいう50レアルとは原文では「50 R. of 8」、つまり50 Real de ochoであり、ペソに換算すると50ペソに当たる。*13 しかしここではcaffroではなくnegroという単語が使われており、アフリカ人ではない可能性が想起されるため、以下金額と合わせて検証する。

50 Real de ocho、または50ペソという金額について、1617年6月28日付の日記では、オランダ船レッド・ライオン号の船長及びその他の船員の衣服を作るための布の価値が総額「50 R. of 8」であると記載されている。 1619年12月23日付の日記には金の鎖に対し「1 C. x R. of 8」、110 Real de ochoを支払ったとしている。

1タイス=10レアル=1.2 Real de ochoという換算率*14で計算すると、50 Real de ochoは41タイスであり、「Mats」と比較して4倍以上高い。

ルシオ・デ・ソウザは長崎で取引されていた年少の年季奉公人の記録から、年季奉公1年あたり1ペソあたりが相場であったと仮定している*15。 またこうした記録では日本人奴隷は10〜12ペソで取引されていたことがわかる。

従って50 Real de ocho、または50ペソという金額は、4000タイスという金額に比べて大幅に低いものの、長崎における奴隷の値段としては高価である可能性が高い。

またnegroという単語についても、日記を読む限りcaffroとnegroは区別せず使われているようである。 平戸領主松浦氏に支えていた解放奴隷AntonyまたはAnthonyはCaffroともnegroとも呼ばれている*16

従ってわずか2例ではあるものの*17、どちらもアフリカ人奴隷は日本において高価であった、というロックリーの見解を肯定するものと見做せる。

このような値段高騰の理由をロックリーは述べていないものの、移動距離の長さがその要因として考えられる。 ソウザはポルトガルへ渡った日本人や中国人の奴隷の価格が数百倍に上昇していたことを指摘し、要因として転売が繰り返されたことを挙げる。 後述する太平洋奴隷貿易においても、南米へ運搬されるアジア人奴隷の価格が高騰していたことがわかっている。

アフリカから日本へ運搬される黒人奴隷もモザンビーク、ゴア、マラッカ、マカオなど複数の奴隷市場で転売が繰り返されたことが想定されるため、同様に価格の高騰が起こり得る。

またコックスの日記上で確認できる日本人に仕える外国人の存在を確認したところ、日本人と主従関係または契約関係にある外国人は「Caffro」*18の他「Corean」つまり朝鮮人しかいないように思われる*19

従って日本において高価な存在であるカフル人を、おそらくは他の外国人より優先して雇用または購入の対象としていた大名や奉行が複数存在していた、という可能性がある。 例えばコックスらは朝鮮人通訳を雇用している一方で、イギリス商館が置かれた平戸を支配する松浦氏は、後述するようにコックスとのやり取りにおいてアフリカ人奴隷を使用している*20

通訳者のような専門的職務を果たす人材が必要なのであれば、雇用又は購入する外国人をカフル人に限定する必要性はないと考えられるため、カフル人の高価さや希少性が重視され、権威を示すディスプレイとして雇用された、という仮説は成り立ちうると思われる。

ロックリーはこうした仮説を物語の1パートとして採用したのではないかと考えられる。

「黒人奴隷」はどのように日本に到達したのか

上記の「流行」に関して、輸入経路から批判する投稿が見られた。 この項ではアジアの奴隷貿易に関する先行研究から、批判に含まれる仮定が成り立たないことを示す。 次いでロックリーの想定する奴隷の輸入経路について述べる。

「マニラ経由による黒人奴隷の輸入」という誤謬

やすゑ
@mammal11111
より正確に言えるのは、日本で黒人奴隷が流行ったらマニラ経由でスペイン人が嬉々として連れてくるはずなんですよね
でも黒人奴隷の商品としてのまとまった輸出は1570年代~1620年代の間には見られない。当時のマニラを専門に研究して、50年分の記録全部見たからこれは確実。
午後8:51 · 2024年7月18日
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とど丸@ウマ息子アグネスタキオン
@todomaru2
弥助絡みの黒人奴隷デマ
悪魔の証明要求の次の言い訳として記録は全部レイシストの日本人が削除したとか嘘と罪(誹謗中傷)を重ねてるらしいが
マニラ等中継地点の記録に日本人奴隷輸入の記録があるのに、黒人奴隷輸出の記録がないのはなんでだろうねぇ(棒
他国の記録まで消せますってか嘘吐きめ
午後0:05 · 2024年7月20日
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これらのツイートには二つの問題がある。 まず「マニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という仮定はマニラにおける奴隷貿易に関する先行研究から見ると明らかに成り立たないこと、次にロックリーの著作を参照しないままロックリーの著作を批判していると見られることである。

スペインによって黒人奴隷の対日輸出が行われなかった理由は明らかである。

まずそもそもトルデリシャス条約によりスペインはアフリカに進出することができず、同時に希望峰・インドを経由しアジアへ到達するルートが阻まれていた。 そのためスペインのフィリピン到達は南米と太平洋を経由して行われ、この航路は後にスペインが他国の領土を経由せずマニラへ到達できる唯一のルートとなる。 このルートを通してマニラ─中南米間の貿易が行われたが、イベリア半島及び中南米の産業を保護するため、隻数や運搬重量、物資の価格に制限が課せられるようになる。 こうした制限のうち、重量や価格はほとんど守られなかったが、隻数は守られ続けた*21

従ってスペイン人が黒人奴隷を「嬉々として連れてくる」ためにはアフリカ沿岸のポルトガル商人からアフリカ人奴隷を購入し、ついで中南米を経由し、アカプルコに達したところで年2隻に制限されたマニラ・ガレオンが来るのを待ち、その後に太平洋を横断する必要がある。

また、中南米では1574年に全「インディオ」の奴隷化が禁止されて以降、「インディオ」に当てはまらない奴隷、黒人奴隷やアジア人奴隷の需要が高まっていた。 中南米における奴隷の価格はアジアにおけるそれを遥かに上回り、メキシコシティでは奴隷1人の価格が400ペソに達した*22

この高騰は、アジアの奴隷をマニラ・ガレオン経由で輸出するビジネスの創出につながり、大量のアジア人奴隷およびアフリカ人奴隷が太平洋を超えて輸送されることとなる。

マニラ自体も単なる仲介地点ではなく、黒人奴隷の消費地でもあった。 1574年の「インディオ」奴隷化禁止の流れはフィリピンにも到達し、1583年にはイスラム教徒を除くフィリピンの「インディオ」は奴隷化が禁止されることとなる*23。 一方で、スペイン領フィリピンの維持には奴隷を欠かすことができず、極端な例では1621年のイントラムロスは人口のうち、三分の一が非自由民であった*24

マニラにおける奴隷の中南米向け輸出及び消費という需要に応えたのが、アジア奴隷貿易のハブとなっていたマカオであった。 1581年のトマール条約によりイベリア半島外でのスペイン領土とポルトガル領土の交易は禁止されていたが、マニラ─マカオ・モルッカ間の交易は黙認され、その結果マニラはマカオにとって有力な奴隷の輸出先となった*25

つまり中南米の奴隷価格は「インディオ」を奴隷とすることを禁ずる反奴隷制政策によって高騰しており、マニラのスペイン人は中南米を経由して黒人奴隷を連れてくるのではなく、より近いマカオから購入していた。 更にそうして購入された奴隷は、アフリカ人、アジア人共に、奴隷価格が高騰していた中南米へと再輸出されるか、現地で消費されるという構造が存在した。

「日本で黒人奴隷が流行したらマニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という主張は、上記のような太平洋両岸の奴隷供給力の差によって生まれた太平洋奴隷貿易の構造から見て成り立たないと思われる。

太平洋奴隷貿易に関しては本稿で利用したTatiana Seijasによる著名な先行研究が存在しており、「マニラを専門に研究」した人物がこうした貿易の構造について知見がないのは奇妙に思える。 ただそもそもマニラ史研究自体非常に範囲が広いため、対日貿易にのみ焦点を当てて研究をおこなっていたとするなら理解できる。

なお、マカオの場合は太平洋奴隷貿易の起点であったマニラとはやや異なる事情から対日奴隷輸出が難しい状況にあったと見られる。

マニラを介して中南米と接続された奴隷貿易システムにおいて、日本は日本人奴隷のみならず中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給地点の一つに当たる。 ポルトガルマカオはこうした日本の奴隷輸出をほぼ独占していたが、マカオ対日貿易を俯瞰するとロックリーが述べる通り*26、中国との仲介貿易という側面が強い。 つまりマカオの交易船は中国産の品物を日本へと輸送し、代金として銀を受け取り、そのついでに空いたスペースに奴隷を積む、という交易をおこなっていた*27マカオの主な輸出品目であった中国産の絹糸の利益は高く、撚糸の場合60キログラムあたりの利益は45タエル以上、上質なものでは260タエルに達し、運搬される量は一度の航海で400〜500ピコ、すなわち22~30トンに達した*28。 更にマカオ総主教メルヒオール・カルネイロに主導された改革により、armação方式が導入された後、私貿易船は厳しい取り締まりを受け、マカオ─長崎貿易は実質的にカピタン・モール船による独占が行われることとなる*29

カピタン・モール船に集約された対日貿易では、奴隷のようにスペースを圧迫する積荷を大量に輸送することは困難だったと考えれる。

マニラでは1604年に朱印船貿易が開始されるまで、寄港する日本船によって貿易が行われていたが、これらの私貿易船によってマニラから日本へ運搬された物資の記録はごく断片的なものが報告書などの形で残っている*30。 それによると、マニラにおける対日貿易でもマカオと同様に、中国産の絹は鹿皮などのフィリピン諸島で生産された物資とともに対日輸出において重要な位置を占めていた*31

つまり、マカオは船内スペースと競合商品の存在から、マニラではより魅力的な市場である中南米とやはり競合商品の存在から、またそもそも日本が奴隷の供給地であるという需給の点から、奴隷の対日輸出に障壁が存在していたと言える。

ロックリーの主張

ではロックリーは奴隷の輸入経路をどのように想定しているのか。 実はロックリーは黒人奴隷が商品として輸入されたとは考えておらず、来日した商人などの従者や家内奴隷が売却されるケースを想定している。

ポルトガル人などの外国人は、本国から弥助のような奴隷や召使を連れて来日し、なかには日本人に売り渡される奴隷もいた。

ロックリーは実例を挙げていないものの、例えば1611年に来日したスペイン使節ビスカイノは船の修繕費を捻出するために黒人奴隷を売却する計画を立てており、ロックリーの想定に当てはまると思われる*32。 また弥助自身も、奴隷身分であったとすればこのケースに当てはまる。

ロックリーは1630年代までに日本に居住したアフリカ人を数百人程度と見做しており、ここには自由人や日本人に売却されなかった黒人奴隷を含む*33。 日本人に売却されたアフリカ人奴隷はこれ以下の数字になるため、ロックリーは日本人に所有されるアフリカ人奴隷を最大でも数百人以下と見做していたことがわかる。 これらのことからロックリーは日本人に所有されていた黒人奴隷は少数であり、商業的に大規模な奴隷の輸入は行われていなかったと見ている。

従って「マニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という仮定は、それ自体が成り立たないばかりでなく、ロックリーに対する批判としても成立していない。

近世日本におけるアフリカ人奴隷の存在に関して、ロックリーの見解をまとめると以下のようになると思われる。

黒人奴隷は商品としてではなく、来日する宣教師や商人の従者として連れてこられ、そのうち少数が売却などの手段を通して日本人に所有された。 買い手となったのは主に九州沿岸部の複数の有力者であり、彼らは主に権威のディスプレイとして黒人奴隷を所有した。

またロックリーはこうした奴隷身分のアフリカ人以外に、自由身分のアフリカ人が居住していた点についても触れており*34、これらの記述に関して問題があるようには見受けられない。

総評

『信長と弥助』について

『信長と弥助』はグローバルヒストリーの観点から弥助という個人の人生を復元することを試みている。 弥助は来日以前の記録がほとんど残っていないため、著者は想像によってそれらの箇所を埋めているが、来日以後は概ね関連する先行研究や史料に基づいて記述されている。 また、近世におけるグローバルな人の移動という観点から弥助以外の来日アフリカ人についても記述されているが、こちらも大きな問題は見受けられない。

ただしロックリーの見解について、いくつかの疑問点は残る。 例えば弥助の位置付けについて、ロックリーは信長が弥助を召し抱えたのは「新しい知識の習得意欲や外国人を物珍しがる気質によるもの」と推測をしている*35

弥助に対する好奇心が弥助を召し抱える理由になったとするものだが、これには疑問が残る。

本能寺の変の際、信長が安土から引き連れてきたのは「御小姓衆二、三十人」だったとされる*36。 一方、信長公記では中間等を含めて50名以上の討死があったとしており、実際にはそれ以上の人数だった可能性が高い。 しかしごく少数であったことは間違いないと言える。

つまり弥助は安土からの上洛に付き従う少数の手勢に含まれていたと考えられ、これは信長と弥助が行動を共にしていた可能性を示唆する。 その一方で、ロックリーが主張する通り、弥助はこの時点では「小姓に過ぎない」存在であり、後年に召し抱えられた外国人とは異なり、重要な存在ではなかった*37

つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するなど、重要人物であるかのような振る舞いを見せるという矛盾した要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位は、信長が弥助に何らかの政治的な意義を見出していたために起きたのではないか。 そしてその背景には、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。

信長は宣教師との会見を通して旧来の「唐・天竺・南蛮」からなる国際情勢認識を更新させ、その過程で地球儀を使った地理の説明を受けている。 つまり信長は弥助の出身地について、正確な地理的理解を持つことができた。 こうした国際認識の変化の結果、信長はいわゆる「日本型華夷秩序意識」を持つに至り、大陸領土の征服を志向するようになったとされる。 こうした意識は国内では三職推任問題となって現れ、堀新は国内における信長の地位は「もはや律令官職体系上では表現することができなかった」とし、信長に対して「日本国王」という呼称を提案している*38

信長が弥助を召し抱えた動機には上記の要因、つまり信長の国際認識の更新と海外進出への意思、それらに伴う新たな地位の訴求という文脈があると考える。 つまり信長は自身の「日本国王」としての地位と権威を強調する意図で、新たに認識された夷狄のアフリカ人である弥助を召し抱え、帯同していたのではないか。

しかし本書最大の問題点は、ロックリーの主張そのものではなく、日本におけるアフリカ人の移入というテーマに関する学術的な先行研究がほとんど存在しない、という点であるように思われる。

例えば弥助以外にもコックスの日記に現れるAntonio/Anthony/Antonyという奴隷・解放奴隷は、松浦家とイギリス商館の関係において、伝言や書簡の取次などを行っている様子が確認でき*39、解放後に4000タイスという金額で、恐らくは年季奉公の交渉が行われていることから、明らかに重要な存在と見なされており、この人物についての研究が見当たらないのは割と驚きである。

学術的な研究が行われないまま執筆された一般書という立場が「信長と弥助」の評価を難しいものにしている。

ただし、今後そういった学術的研究が行われたとしても、(弥助の来日以前の経歴はともかく)日本におけるアフリカ人の存在について、ロックリーの主張の大部分は認められるのではないかと思われる。

SNS上で見られるロックリー批判について

一方で、本書に対するSNS上の批判はほとんどが誤読に基づくか、あるいは存在しない記述を問題にしているように見受けられる。 おそらく批判者のほとんどはロックリーの著作を実際に読まず、伝聞やネット上のミームに基づいて批判を行い、拡散者も同様にロックリーの著作を読んでいない。

実はこうした傾向はロックリーに対する批判が始まった当初から見られる。

三等船客
@1LdDv0sZ4GfNCp4
アサシンクリード はトマスロックリーの書籍を元にしてるとデマぶっこいてたアカウント、思いっきりツリーごとサイレント削除してんじゃなねーか。ファミ通のサイレント削除はタチが悪いと批判してたのにどうして。

午後1:03 · 2024年5月21日

7.7万 件の表示

このツイートに添付されている画像では、「 人間ジェネリック@DividedSelf_94 」というアカウントのツイートが1200万回近く表示されていることが確認できる。 元の投稿は削除されているものの、ツイートログサービス「ツイログ」にて関連する投稿を確認することができた。

twilog.togetter.com

人間ジェネリック@DividedSelf_94

炎上している「アサシンクリード・シャドウズ」、調べてみると日本人が思ってる以上にヤバイことになってることがわかった。

ほぼ資料が存在していない「弥助」を研究したロックリー・トーマスという在日の研究者が(ほぼ自分の想像で余白を埋めた)弥助の歴史本を刊行する→

posted at 01:15:32

人間ジェネリック@DividedSelf_94

アメリカで大ヒットし、そのロックリー・トーマスの本が資料扱いされて様々なメディアに翻案される→

→外国人の書いた本を資料にしてトンデモ日本ゲーが歴史モノとして作られている(イマココ)

一人の外人が書いた小説が日本の「史実」に成り代わろうとしてるの、ヤバイよ。危機感持ったほうがいい

posted at 01:15:32

人間ジェネリック@DividedSelf_94

なにがヤバイって、「歴史考証」で圧倒的な信頼を得ていたUbiソフトまでがこの想像と妄想だらけの本を素地に「日本」をゲームにしてしまってるということ。
弥助については資料が少なすぎて「よく分からん」としかいえないものなのに、それを想像で埋める彼の本が史実扱いになっている。

posted at 01:19:57

人間ジェネリック@DividedSelf_94

司馬遼太郎の本が史実扱いされてるようなものだよね。
それを日本人がコントロールしてメディア化するのならまだいいけれど、外国人が語る日本史をもとに外国人が日本を描き、無数のそれらが存在しない「過去の日本」の捏造を産み始めている。すでに”弥助像”は既存の資料からかなり歪んでいる。

posted at 01:23:26

人間ジェネリック@DividedSelf_94

x.com/OliverJia1014/…

ロックリー・トーマスの本には「弥助には子供がいた!(かも)」なんてことまで書いてあるそうなので、ほぼトンデモ本といっていいと思う。 彼の本にはこういった憶測がまるで史実のように書かれていると批判も多い。それがいまの「弥助」像のベースになってしまっている。

posted at 01:36:24

人間ジェネリック@DividedSelf_94

そもそも弥助の全資料を漁っても数十行か数ページというくらい資料の存在しない人なので、それが400pの本になるということがおかしい。つまり、ほぼロックリー氏の創作・想像なわけだが、メディアによる引用・孫引きの連続によって外国ではロックリー氏の歴史観が「史実」となってしまってる。

posted at 10:02:42

人間ジェネリック@DividedSelf_94

意図してない伝わり方をしているので付け足しますが、「国外での弥助の受容がヤバイ」という主題で「アサクリ」の話をしているわけではないです。
トーマス氏も歴史家として一説を投じただけで、彼の本が悪いというつもりもないです。ただ彼の「説」と「資料から読み取れる史実」の区別が国外では

posted at 11:33:13

人間ジェネリック@DividedSelf_94

(おそらく又引されるうちに)曖昧になっていて、クオリティペーパーですら混同して拡散しています。さらには氏のドラマチックな「説」をもとに>(自覚的にせよ無自覚にせよ)さまざまなフィクションの弥助が描かれた結果、創作・メディアの両面から偽史の弥助像が作られてしまっています。

posted at 11:33:55

人間ジェネリック@DividedSelf_94

外国の人がフィクションの弥助から史実の弥助に興味を持っても、そこで出会うのは確証の怪しい「トーマス氏の弥助」像・史なのです。これからさらにどんな尾ひれがつくかも分からず、日本人が日本史のコントロールが出来なくなっていることに末恐ろしさを覚えます。

posted at 11:34:06

ロックリーの「想像と妄想だらけ」の「歴史本」が「トンデモ本」であり、それが日本国外で「史実」となってしまっている状況が存在すると主張し、「日本人が日本史のコントロールが出来なくなっている」ことに恐ろしさを覚え、「危機感」を持つよう促している内容であったことがわかる。

ただしこれらのツイートではロックリーの著作のうちどのタイトルについての批判なのか明言されず、具体的なソースが提示されないまま「危機感持ったほうがいい」などの感情的な文言が使用されている。

ロックリーの「憶測」の根拠として示される弥助に子供がいた可能性は「書いてあるそう」と伝聞系で表現され、「トンデモ本」と結論している。 また、資料に「数十行か数ページ」しか記述のない人物についての本が400ページの本になることを「おかしい」と表現している。 仮説の提示を否定し、原資料の文字数から乖離した研究を認めない、という姿勢が示されているのは興味深い。 加えて批判の根拠を伝聞系で表現していることから、批判対象であるロックリーの著作を読んでいない可能性が高い。

なお、ロックリーの著作のうち400ページを超え、かつ弥助を主題とする著作は二冊存在するが、どちらも歴史書ではなく歴史物語のカテゴリに属するものと思われる。

ロックリーの主張によって「偽史」が作られたと断定し、「日本人が日本史のコントロールが出来なくなっている」との主張が見られるが、これはロックリーへの批判に度々見られるナショナリズムイデオロギーがかなり早い段階で確認できることを示す。

上記の事柄から、このアカウントによるロックリー批判は、ロックリーの著作を実際には読まないまま、伝聞を根拠にナショナリズムに訴える文章を加え、危機感を煽る文脈に構成し直して発信したものと思われる。

本稿冒頭に取り上げたアカウント「いつ@naturalbarance」のように、批判対象を読んだ上で、誤読や前提知識の欠如を意識できないまま批判してしまうのは避けられない行為であり、むやみに批判されるべきではないと考える。

しかしTwitter上で見られるロックリー批判者の場合、明らかに伝聞とわかるツイートの拡散、誤読とは全く異なるレベルでロックリーの主張とは異なる主張への批判を行うなど、そもそも批判対象である本を読んでいないとしか思えない行為が目につき、しばしば中傷をおこなっている例すら見られる。

つまり問題はロックリーやロックリーの著作にあるのではなく、ロックリーの著作を一切参照しないまま批判を行うインターネット上のロックリー批判者や、その拡散者の情報リテラシーの低さにある。

もしこれを読んでる人でそういったツイートを拡散した人がいるなら、実際に活用するかは別として、とりあえず下に紹介する偽情報対策のフレームワークとか覚えておいてほしい。

firstdraftnews.org

ロックリーの本読まずに事実に基づかない批判を発信した人がいるなら、まずSNSやめてロックリーの本読むところから始めるべきでは。

以上。

加筆修正箇所

8月30日にこのブログ記事に追記と既存の文章の修正を行った。 加筆修正をおこなった箇所は以下の通り

また弥助関連史料が以下のブログにまとめられた。


[https://sleepcratic-republic.hatenablog.com/entry/2024/07/30/225016:embed:cite]
つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するという、矛盾する要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位について、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。
つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するなど、重要人物であるかのような振る舞いを見せるという矛盾した要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位は、信長が弥助に何らかの政治的な意義を見出していたために起きたのではないか。
そしてその背景には、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。

参考文献

  • トーマス・ロックリー, 信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍(2017)
  • Thomas Lockley, African Odysseys: AFRICA, INDIA AND BEYOND IN THE EARLY MODERN WORLD(2020)
  • ルシオ・デ・ソウザ, 大航海時代の日本人奴隷 増補版(2021)
  • Thomas Nelson, "Slavery in Medieval Japan"
  • Tatiana Seijas, Asian Slaves in Colonial Mexico: From Chinos to Indians
  • Stephanie Joy Mawson, Incomplete Conquests
  • 岡美穂子, 商人と宣教師 南蛮貿易の世界
  • BENITO LEGARDA, JR, "Two and a Half Centuries of the Galleon Trade"
  • Birgit Tremml-Werner, Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644
  • Maria de Deus Beites Manso, Lúcio de Sousa, OS PORTUGUESES E O COMÉRCIO DE ESCRAVOS NAS FILIPINAS (1580-1600)
  • Lúcio de Sousa,The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan
  • Richard Cocks, Diary of Richard Cocks, Volume 1&2
  • 桑田忠親校注, 信長公記
  • 清水有子, "近世日本の形成と南蛮・キリシタン", 日本史研究 第七二六号
  • 堀新編, 信長公記を読む

*1:なお平山の解説に現れる「扶持」及び「近侍」といった要素はロックリーの著作にも登場する

*2:最近のものだと長尾剛著『女武者の日本史 卑弥呼巴御前から会津婦女隊まで (朝日新書)』が挙げられる

*3:ロックリー(2017), p234-p235

*4:ロックリー(2017), p14

*5:ロックリー(2017), p111, p146-148

*6:ルシオ・デ・ソウザ, 大航海時代の日本人奴隷 増補版(2021), p236. 原著は2014年に出版された

*7:ロックリー(2017), p104

*8:ロックリー(2017), p110-p111

*9:Thomas Nelson, "Slavery in Medieval Japan", p475-477. なお後述のようにdebt servitudeとの混同が考えられる。

*10:Tatiana Seijas, Asian Slaves in Colonial Mexico: From Chinos to Indians, p2, p54, p67

*11:Stephanie Joy Mawson, Incomplete Conquests, p38-39. もちろんこれはslaveよりservitudeの方が待遇がよりマシである、という話ではない。

*12:Lockly(2020),p154. 訳文はこのブログの筆者によるもの。

*13:ロックリーも使用されている通貨単位がReal de ochoであることを把握しており、注でpiece of eightであると明記している。

*14:岡美穂子, 商人と宣教師 南蛮貿易の世界, p339を元に算出

*15:Sousa(2018), p287-288

*16:この解放奴隷はミゲル・デ・サリナスが購入を希望した人物と同一人物である。1615年4月20日、1617年11月27日、1618年7月28日の項目を参照。

*17:元々奴隷の価格は史料に残りにくいことで知られている。

*18:Caffreの男性形。カフル人の男性を指す

*19:1617年4月19日付に日本人の有力者の子供を産んだ朝鮮人女性が登場する

*20:1616年5月5日付の日記には「Corean jurebasso」であるMiguellが起こした諍いについて記述されている

*21:BENITO LEGARDA, JR, "Two and a Half Centuries of the Galleon Trade",Philippine Studies, Vol. 3, No. 4 (DECEMBER, 1955), p352-359, p361-363

*22:Seijas, p73

*23:Birgit Tremml-Werner, Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644, p105

*24:Tremmle-Werner, p290

*25:Maria de Deus Beites Manso, Lúcio de Sousa, OS PORTUGUESES E O COMÉRCIO DE ESCRAVOS NAS FILIPINAS (1580-1600)

*26:ロックリー(2017), p113,p155

*27:Sousa, p23

*28:岡, p99-104, p339

*29:Michael Cooper, "The Mechanics of the Macao-Nagasaki Silk Trade", Monumenta Nipponica, p429-431

*30:岡本良知, "一五九〇年以前における日本フィリッピン間の交通と貿易", キリシタンの時代 : その文化と貿易, p551-560

*31:IbId, Tremmle-Werner, p143, p156-157

*32:村上直次郎 訳註, ビスカイノ金銀島探検報告, p155

*33:ロックリー(2017), p125

*34:ロックリー(2017), p129, p136

*35:ロックリー(2017), p128

*36:桑田忠親, 信長公記, p388

*37:ロックリー(2017), p74

*38:清水有子, "近世日本の形成と南蛮・キリシタン", 日本史研究 第七二六号, p33. 堀新, "信長公記とその時代", 信長公記を読む, p30-34

*39:1615年10月14日付及び1616年4月1日付

スペインはなぜ日本を「征服」しなかったのか

はじめに

先日Twitterにて以下のようなやりとりをおこなった。

この議論はいわゆる「イベリア・インパクト論」(またはその変形)に対して反論する中で、当時のスペイン軍が日本に侵攻する可能性を軍事リソースの不足から否定する立場の方に対し、私から軍事リソースは必ずしも不足していたとは言えないとする立場の主張を行ったものである。 ただしTwitterでは文字数の制限から説明不足になってしまった感があるし、何よりスペインが侵攻意図を持たなかった理由について述べていないため、改めて本稿で現時点の私の考えを論じたい。

なお私も相手の方も「イベリア・インパクト論」へ反対の立場をとる点では共通しているため、本稿では「イベリア・インパクト論」への是非自体は論じない。

また本稿で「スペイン人」に対して言及する場合、現在のスペイン国家を出身とする人物やその領域の政治権力のみでなく、16世紀後期から17世紀前半において、「スペイン帝国」に統治されていた地域出身の人物を指す。 つまり「スペイン人兵士」とはイベリア半島カスティーリャ王国領土内で雇用された兵士だけでなく、アメリカ大陸で雇用されたメスティソインディオイタリア半島で雇用されたミラノ人なども含む。 ただし「ポルトガル」についてはスペイン帝国に組み込まれる以前に日本との接触を持っていたため、混乱を避けるために「スペイン」とは別個に扱う。 またフィリピン諸島における先住民も同様に別個に扱う。

軍事リソース不足論の問題点

「軍事リソースが不足していた」と言う説明にはしばしば根拠として16世紀後期の相次ぐ破産宣言や80年戦争、英西戦争に伴うイングランド侵攻作戦(いわゆるアルマダ)が挙げられる。 しかし、この説明には重大な欠点が伴う。 英西戦争や80年戦争を理由にリソースが不足していた、とするならば、1604年の英西条約や1609年の12年休戦によりリソースが回復したとみなすことができる(実際当時も同様の議論が存在した)が、その際に日本に侵攻しなかった理由について説明することができない。

また、この不足論には侵攻に必要なリソースについて過剰に高く見積もる傾向がある。 南米において活動していたいわゆるコンキスタドールの部隊のうち、スペイン人が占める割合はいずれも小さく、中米やペルーに対し行われた遠征に含まれていたスペイン人は概ね100名以下に収まっていた。 またカハマルカにおけるコルテスの168名という人数は、中南米の「征服」活動の中で例外的に大規模と言えるほど、スペイン人は少人数であったのである。 中南米においてスペイン人はこうしたごく限られた人員のみで「征服」を行うため、アフリカ出身の奴隷や現地先住民との連合・同盟に強く依存していた*1。 政治的同盟・臣従関係を結んだ現地勢力の協力を得て、ごく少人数のスペイン人のみで「征服」活動を行う事例は後述するフィリピンやポルトガルによるアフリカ干渉などでも見られ、当時の定石であったと言っていいのではないだろうか。 実際に、フランシスコ・デ・サンデは1576年に、5〜6000人のスペイン人で中国を「征服」可能としている*2。これは現代と当時のスペイン人との間の認識のずれを示す事例であると思われる。

従ってリソース不足論の欠点は以下のようにまとめられる

  • ヨーロッパにおける戦争が和平・小康状態で安定していた時期、つまりリソースが充足されていた時期に侵攻されなかった理由について説明できない。
  • 中南米やフィリピンの例から、当時のスペイン人が日本侵攻に必要なリソースを小さく見積もる可能性を否定できない。

次項ではフィリピンを含む東南アジアにおけるスペインの軍事能力・動員能力から、スペインが動員可能なリソースを推定する。

フィリピンにおけるスペインの軍事能力

1565年5月にミゲル・ロペス・デ・レガスピによりセブ島に都市が建設されたことがスペインによるフィリピン「征服」の始まりとなる*3。 なおこの時にレガスピ自身は植民の勅許を得ていなかったものの、のちに獲得することができた。

レガスピはやがてモロと呼ばれたムスリム系住民及びビサヤ諸島の勢力と連合してマニラへと移動し、現地のスルタンであるRajah Solimanを敗北させマニラを占領した。*4 1573年に土着の「インディオ」に対しいかなる損害も与えてはならないとする「発見、新入植及び平定に関する法典」が公布される4年前であった。

レガスピによる「征服」以降、マニラにおける総督府は一貫してフィリピン諸島南部への進出をめざし、居留地の建設や軍事遠征を行い続けた。 こうした状況下において、ニュースペインからは1年あたり平均して160名弱の兵士が毎年マニラへと送られてきていた*5。 一見南米より派遣される兵士は極めて不足しているように思われ、当時もことあるごとに兵士の派遣を求めるなど、兵士不足という認識は存在した。だが実際にはフィリピン先住民の兵士を雇用することで数の不足を補うことが可能であり、数千人規模の遠征が当たり前のように行われていた。 1578年にはボルネオ遠征のために400名のスペイン人兵士、1800名の先住民兵士が派遣された*6。 1592年にルソン島北部山岳地帯に対して行われた懲罰遠征ではスペイン人120名に対し3000名以上の先住民兵士、1597年のスールー王国への軍事遠征ではスペイン人230名に対し先住民の兵士1500名、1638年には500人のスペイン人兵士と3000名の先住民兵士がホロ島で三カ月の攻囲を行っている*7

また、マカオを拠点とするポルトガル勢力と合同した軍事遠征なども行われていた。 1580年にスペインの侵攻により同君連合化した両国は、1581年のトマール条約で行政権の分離とイベリア半島外における2国間交易の禁止が定められたため*8、一体化こそしなかったものの、その領域は次第に曖昧になっていた*9

1606年にテルナテ王国に対して行われた遠征では、1604年にヌエバエスパーニャより800名の増援を受けていたため、遠征隊におけるスペイン人兵士は1400名を数えた。 この遠征隊には他にポルトガルのティドレ島総督もポルトガル兵士と共に加わっており、5隻のガレオン船と4隻のガレー船を含む34隻の船が使用されたとしている。*10

テルナテ王国に対するさらに規模の大きな遠征としては、1593年に行われた遠征が挙げられる。 この遠征ではスペイン人1000名を含む計9800名と100隻の船からなる遠征隊が組織されたが、遠征隊に組み込まれた中国人が反乱を起こし、マニラ総督が殺害されたため瓦解した*11

1615年のモルッカ諸島に対する失敗した遠征では、ポルトガルの助力が得られない状況であったが、スペイン人兵士2000名を含む5000名の軍隊と、ガレオン船10隻、ガレー船4隻を含む船42隻がマニラに召集された*12

ポルトガルマカオ総督府では、前述のトルデリシャス条約により希望峰を経由してインド洋を渡るルートを独占しており、このルートによってイベリア半島から増援を得ることができた。 このルートを使い、東南アジアに進出したばかりのオランダに対抗するため、1597年から1606年にかけて3度の増援がスペイン本土及び経由地であるインドのゴヤより行われた。*13

1637年のミンダナオ遠征では250名のスペイン人兵士と3000名の先住民兵士が現地の王と戦った*14。 1638年にはホロ島に対しスペイン人兵士500名、先住民兵士3000名からなる遠征隊が組織され、3ヶ月の包囲戦を行った*15

1570年代から1630年代にかけて、東南アジアにおけるスペイン軍の動員実績から判断すると、スペイン軍は最大で10000名弱の軍隊を組織し、遠征を行う能力を持っていた。 スペイン人の比率はヌエバエスパーニャからの増援の多寡によって決まり、最大で2000名を占めることができた*16

上記の数字は日本で同盟または連合により得られると考えられた兵力によりさらに増加することができる。 後述するが、当時の日本にはスペイン人が味方と見做す可能性のある勢力が多数存在していた。 スペインによる南米やフィリピンの「征服」の際、スペイン人の人数は決して多くなく、数の上では先住民の勢力が多数派を占めていたことが知られており、例えばマニラ「征服」の際にはスペイン人は110名ほどで、その他は全て現地の先住民だったとされる*17 つまりスペイン人自身が積んだ「征服」の経験から言えば、「征服」とは必ずしも数万の軍隊を必要とするような大事業ではなかったと認識していた可能性がある。 シャムやカンボジアへの軍事介入時に派兵されたスペイン人が120〜200名程度であったことからもこの認識が窺える*18

従って、スペインはフィリピンで最大1万人弱の軍隊を動員することが可能で、フィリピンから派遣するための複数の大型船を保有し、かつ同盟を組むことができるキリスト教勢力が日本には多数存在していた、といえる。 当時のスペイン人が日本を「征服」する構想を持っていた場合、リソースは十分に存在していたように見える。

しかし日本征服はついに計画すら存在しなかった。 これは中国に対する「征服計画」が何度も提言されていたことと比較すると差異は明らかである。

スペインに不足していたのは日本侵攻のためのリソースというよりも、日本を「征服」する意志と思われる。 つまりスペインにとって、日本は「征服」対象となるほどの戦略的重要性を持ち得なかったのである。

これを理解するためにはスペインが何を望んで東南アジアに進出し、スールー王国やテルナテ王国へ侵攻したのか、またなぜ明に対する武力侵攻計画を企画したのか、そして、スペインのアジア戦略において日本はどういう立場を占めており、東南アジアの諸勢力や明とは何が違ったのか、といった点を理解する必要がある。

スペインの東南アジアへの進出

スペインによる東南アジアへの進出は1520年代に遡る。 東南アジアで産出されるスパイスを巡るポルトガルとの政治的な争いを経た後、1529年にはサラゴサ条約により東南アジアでの両国の境界線が定められたものの、実際には境界線の解釈に関して曖昧な点が残されていたため、スペインはその後もモルッカ諸島への進出を試み続けた*19。 この努力はアンドレス・デ・ウルダネタらによるフィリピンからアカプルコへの復路の発見につながり、レガスピによるセブ島での植民都市拠点建設が行われる。*20

マニラはスペインによる「征服」以前から中国やモルッカ諸島の交易の結節点であり、その点がレガスピを惹きつけたと考えられる*21。 1570年代からはスパイスを東回り航路でヌエバエスパーニャ又はチリを経由しヨーロッパへ持ち込む構想のもとに繰り返しモルッカ諸島への進出が試みられた*22

また、スパイスを目的とした進出を行う一方で、近世期スペインによる植民事業は、支配領域の先住民に対する徴税と宣教を通した宗主権の拡大、つまり政治的な領土の拡大を志向していたという点で同時代に行われていた交易を中心とした同時代のイギリスやオランダによる「征服」とは異なる性格を持つことが指摘されている*23。 これを具体化するシステムがエンコミエンダ制や植民都市の建設であり、レガスピが勅許を得ないまま植民都市の建設に着手したのも領土的野心からであった。 植民開始後からエンコミエンダの総数は拡大していき、1591年には設置されるエンコミエンダの数は270に達したものの、土地所有者の政治的権力の増大が懸念されたため、17世紀以降マニラ総督府はエンコミエンダの抑制・回収に動く*24。 こうした拡張主義的な傾向が完全に達成されることはなかった。スペインの支配領域は地域的な偏りが見られ、ルソン島ですら空白地点が多数存在する。また、山岳地帯には金鉱山の存在が噂されており1570年代から侵攻構想が存在し、実際に何度も遠征が行われたものの、スペインがフィリピンを支配する時代に「征服」が達成されることはなかった*25

上記のスパイス及び領土的な拡張主義という動機から、スペインは1570年代よりフィリピン諸島南部への進出を図る。 この進出は、必然的に東南アジアの諸勢力、ボルネオ島ブルネイ、ホロ島のスールー王国ミンダナオ島のミギンダナオ、当時唯一のクローブ産出地であったテルナテ王国などとの対決を意味した。

1578年にスペインは当時東南アジアにおける交易の中心地点の一つであったブルネイの王位継承をめぐる争いへ介入し、軍事遠征を行う*26。 同年にはモルッカ諸島スールー王国への攻撃を行い、当時東南アジアで広く行われていた奴隷狩りの抑制と属国化を図った*27

しかしこれらの行為はブルネイスールー王国の反撃を招いた。 ブルネイは1578年の侵攻以降、スペインに対し島嶼部に居住する‘Camucones’と呼ばれる集団を利用して奴隷狩りを推奨することで積極的な代理戦争を行うようになった*28。 1575年にポルトガルを敗北させ、スパイス交易に強い影響力を有していたテルナテ王国は、ポルトガル連合王国化したスペインと敵対し、ミギンダナオ王国に対し軍事支援を行い、スペイン居留地への襲撃を行わせた*29。 1570年代からスペインによる侵攻を受けていたミンダナオでも、テルナテ王国の支援などにより1590年代から攻勢を始め、1595年にはヴィサヤ諸島居留地住民計1500人を奴隷として連行する*30

スペインもこうした奴隷狩りに対し、防衛艦隊の整備やマギンダナオとの外交交渉などを行うがいずれも失敗し、軍事遠征を行わざるを得なくなる。 1606年にスペインはテルナテ及び近隣のティドレ王国を攻撃し、首都を占領した。これはマギンダナオとの和平交渉を大きく進展させる効果を持つはずであったが、侵攻を指揮したマニラ総督アクーニャ・イ・ベハラノが毒殺を疑われる状況下で急死したことにより交渉は頓挫、1608年よりマギンダナオは奴隷狩りを再開した*31

東南アジアの諸勢力による抵抗によってスペインのスパイス交易やフィリピン諸島南部への進出は支障をきたしていた。 さらにスペインをより激しい抗争に巻き込む出来事が起こる。オランダの東南アジア進出である。

1600年のオランダによるマニラ包囲は、スペインにとっての東南アジアに新たな重要性を加える出来事でもあった。 スペインにとって、16世紀にはスパイスなどの奢侈品交易と拡張主義的野心を満たす場であった東南アジアは、17世紀にはオランダとの前線であることも認識されるようになった。こうした認識はモルッカ諸島への駐留などの軍事的行動を支える理論的根拠となった*32

オランダはスールー王国やテルナテ王国との同盟関係を結び、モルッカ諸島への進出を始めた。 1610年にはすでにモルッカ諸島内部に8つの拠点を有していた*33。スペインは1615年に反撃のための遠征を行うが失敗してしまう。 1618年にはオランダと同盟したスールー王国による襲撃が発生するが、王国内部の政変のため1624年にはスールー王国よりマニラへ和平のための使節が派遣される*34。しかしスペイン側ではこれを追い返してしまい、却って敵意を煽り立てることとなったため、両者の敵対は終わらなかった。

1619年ごろ、マギンダナオ王国は内紛により奴隷狩りを停止させるが、1630年代には新たな王カシール・クダラットの元でスペイン居留地に対し、再び奴隷狩りを行うようになった。さらにクダラットはスールー王国との同盟を成立させ、スペインではこれに対抗するため、ミンダナオ島サンボアンガに要塞を建築する*35。 1637年にはマニラ総督セバスティアン・ウルタード・デ・コルクエラによるミンダナオ遠征が行われ、クダラットは敗北するが、自身及び家族の逃亡とその軍隊の大部分の逃亡に成功する*36。 1638年にはスールー王国に対して遠征を行い、ミンダナオと同様に王の逃亡を許すが、家臣団を降伏させることに成功する*37

しかしこうした成功はすぐに終わってしまう。 クダラットはプランギ川北部に再び軍を集結させ、他の反スペイン派勢力との同盟により1642年にはスペインを撤退させ、元の領地を回復することに成功した*38。 ホロ島でもスールー王ブングスによる反攻が始まり、1639年にはスペインによる懲罰遠征が実施されるも抵抗は止まず、1640年にブルネイと共にマリンドゥケへの襲撃を行う*39

1644年には1637─38年の遠征による成果はほぼ失われていた。そしてスペインはついに外交姿勢を転換させ、東南アジアの諸勢力を対等の存在とみなすようになる。 1645年、ミンダナオ島における和平交渉では、それまでの交渉とは異なり、もはや相手をスペイン王の家臣として組み入れようとはしなかった*40。 同様の条約が1646年にスールー王国との間で結ばれた。しかし数年後にこの条約が破られると再び戦争が始まり、鄭成功の危機が高まった1662年には遂にミンダナオ以南からの撤退が始まる*41

スペインの東南アジアへの進出は、スパイスと拡張主義、宣教という動機が存在したが、実際に進出して以降は、反撃として行われたスペイン居留地に対する奴隷狩りやオランダというヨーロッパにおける敵の登場により更に対立が激化するといった様相を示した。 この結果、拡張主義の対象であった相手の自立と主権を認める1645年の妥協へとつながり、更に1663年にはミンダナオ以南より軍を撤退させることが決定する。 スペインの東南アジアへの武力侵攻は、複雑で多様な動機が存在した。

一方、実際には侵攻されなかったものの、「征服」の具体的な提案に至っていたのが明である。 なぜ明には積極的な「征服」策が繰り返し提言され、日本に対してはされなかったのか?

明に対する派兵論

明に対する派兵論はスペインがフィリピンに到達したごく初期の段階から確認することができる。 この派兵論は1569年から繰り返し書簡の形で表明されてきた*42が、モルッカ諸島への進出に見られるような一貫した目標があると言うよりは、主張する人物によって異なる動機が存在したように見える。 例えば、マニラ総督フランシスコ・デ・サンデによる「征服」構想は、後述するイエズス会アロンソ・サンチェスのものとは性質が異なり、同一線上にあったとは考えられないと平山篤子は指摘している*43

スペインはフィリピン諸島への到来初期から明との交易を志向しており、セブ島からマニラへと拠点を移動させたのも明との交易を優先させたためであった。この時期に明はいわゆる海禁政策を緩めた時期にあたり、絹製品などの交易を目的としたスペインにとっては都合が良かった*44。 この交易はフィリピン諸島における中国系住民の急激な人口増加をもたらすこととなる。

こうした貿易は主に私的なものであったが、その一方でスペインによる明との公の関係は1574年に始まった。 これは海賊林鳳によるスペイン人居留地への襲撃に対処するため、林鳳を追跡してきた王望高との間に結ばれた条約で、スペイン側が捕らえた林鳳の船を燃やすことを承認する内容であった*45。 スペイン側はこれを機に中国側との公式な外交関係の樹立を図り、使節の派遣を行い始める。 しかし福建省使節に応える形でフランシスコ会修道士を使節として派遣する往還が始まったものの、1576年には林鳳の取り扱いを巡って福建省側が疑念を抱いたことから態度を硬化させ、両国の外交関係は一旦途絶えることとなる*46。 その間もスペイン本国ではフェリペ王の名代として使節を派遣することを検討し、実際に1580年と1582年の二度に渡って明皇帝への贈り物を伴う使節の派遣が実行されたが、結局のところ失敗した*47。 1575年から1580年までマニラ総督の地位にあったサンデは、中国の朝貢貿易にスペインが組み込まれる恐れからこの使節に強く反対し、結果として更なる使節の派遣を阻止することに成功した。 サンデの持つ強い反明ポリシーの動機は本人の持つ拡張主義的な資質や後述する中国人への恐怖心に由来すると思われるが、いずれにせよスペイン前総督グイード・ラヴェサレスが当初親善の目論見を持っていたのと対照的に、中国人に対する極めて強い猜疑心と敵意を持っていたことは間違いなく、王望高にすらその敵意を剥き出しにしている*48。 一方、スペイン王フェリペ2世は、中国への武力を用いた拡張政策に反対し、防衛的な政策を支持する立場であり、一貫して非暴力的な手段をとっていた*49

こうした状況下において、イエズス会士サンチェスが登場する。 サンチェスは1582年と1585年の二度にわたってマニラから中国への出張を行い、直に中国を見聞する機会を得ており、中国におけるキリスト教宣教が進まない現状を目にしていた*50。 この経験を基にサンチェスは二度にわたって明への武力侵攻を訴える報告書をマドリッドへ送付し、対明武力宣教論の主唱者となる。 サンチェスは報告書の中で以下の事項を戦争権限として挙げている*51

  • 外国人の入国の拒否
  • 宣教の拒否及び改宗者への迫害
  • 通商の拒否

平山は上記の点に加え、サンチェスの真意は明の独自性を認識し、キリスト教宣教は武力以外に行う方法がないと判断していたことだとする*52。 いずれにせよサンチェスの対明武力宣教論は、初代マニラ司教ドミンゴ・デ・サラザールなどの賛同者を得るものの、アレハンドロ・ヴァリニャーロやイエズス総会長クラウディオ・アクアヴィーヴァなどからの反発を受け、活発化していく対明私的貿易の中で退潮していく*53

しかしこうした友好ムードは、1593年に遠征中のマニラ総督が中国人の漕ぎ手によって殺害されるという事件以降反転する。スペイン人にとってフィリピン諸島に在住する中国系住民は、その資産や中国本土という後背地の存在、マニラ経済における存在感の大きさ、諸島住民に占める割合の急激な増加、さらには華南の都市文明を体得した「文明人」であるという点で「恐れ」の対象だったと平山は指摘している*54

スペインは1598年に再び明との外交交渉を持ち、福建省より沿岸の小島に滞在する許可を得て明本土との交易を図るが、自らの交易に支障が出ることを恐れたポルトガルの妨害などにより短期間に終わる*55

1603年には明より金の探索を目的とした使節が到来するが、マニラ大司教ベナビーデスはこれを侵攻のための偵察であると判断し、公に反対論を唱えた結果、スペイン人と中国系住民の間に緊張が高まり、マニラにおける第一次華人暴動が勃発する*56。中国系住民の死者は2万人を超えたと言われる。

この暴動後、一時福建省よりの貿易船が減少し、マニラ総督府は明による報復攻撃を恐れるようになった。 この恐れは後述する徳川政権を同盟視する流れへとつながる。

再び華人人口が増加した1639年には過酷な開墾作業に反発した第二次華人暴動が発生した。 この時マニラ総督コルクエラによって中国系住民の抹殺が指示され、実際に暴動に関与していない住民を含め2万6000名が殺害されたと言われる。中国系住民であるというだけで、暴動に参加するのに十分な理由であるとみなされていた*57

スペインは当初から明との外交関係樹立を望んでいたものの、2国間の私的貿易の隆盛とは裏腹に、スペイン人はほとんどの期間中国系住民に対して警戒心を抱き続け、両国の外交は常に様々な理由で挫折していた。 結局のところ、明が滅亡するまで両国の間に安定的な関係が樹立されることはなかったのである。

つまり、スペインは明との国交を望んでいたにもかかわらず、宣教が受け入れられない一方でマニラ経済を支配されるという恐れにより武力宣教論が登場し、その後も過酷な取り扱いに端を発するマニラ総督の殺害や華人暴動などで明に対する恐れ・不信は落ち着くことはなかった。 スペインにとって明は直接敵対はしないものの、油断のならない隣人であったのである。

では日本はどうか。 日本はキリスト教宣教を受け入れた一方で、豊臣秀吉による服属要求などの強硬的な外交が行われたという経緯を持つ。 スペインは日本との関係をどう認識していたのか?

日本との関係

日本とスペインの外交関係は1582年に平戸にフランシスコ修道会士が偶然漂着したことに対し、平戸領主松浦重信よりマニラ総督宛に書簡が送られたことに始まる*58。 これ以降島津によるイエズス会を経由した宣教師派遣要請や、また大村純忠によるマニラへの使節派遣など、九州大名による積極的な外交関係樹立の試みがなされるようになる。 スペインにとって日本はデマルカシオンの境界線上に位置し、ポルトガルとの紛争が予期されたことから、明とは異なり確たる外交や宣教の方針が確立されていなかった*59が、1587年にはマニラ総督より公式の通商許可を求める請願がスペイン国王宛に出されるまで関係は深化する*60

九州大名の積極的な宣教師の招致活動には、当時南米からの銀が流入していたマニラとの交易を求める動機があったと推察されているが、宣教師たちはこの接近を強く歓迎し、マニラにおいても九州大名をある種の同盟者とみなし、日本本土の日本人を対明武力宣教に従軍させる構想も現れた。その一方で、明に対する接近と同様にポルトガルからの反発をも招き、交易商品を狙った倭寇の活動も活発化した*61。 日本の主な輸出品には火薬の原料である硝石や剣などが含まれており、日本との交易がスペインの軍事行動を下支えしていたことがわかる*62

こうした関係に変化がもたらされるのが1591年の豊臣秀吉によるマニラへの服属要求である。 これは壬辰戦争へとつながる華夷意識に基づく強硬姿勢であり、マニラにおいて日本に対する警戒心を高める働きをした*63。 マニラ総督府は時間を稼ぐことを狙い、返答の使節を派遣するなどその後もしばらくマニラ─日本間で服属要求をめぐって使節の往還がなされた。 しかし、日本側書簡の原文とマニラ総督府で閲覧されたスペイン語に翻訳された文を比較した清水有子によれば、スペイン語翻訳文には日本側使節原田喜右衛門による意図的な改ざんが行われており、1592年及び93年の書簡では原文に存在した服属要求が総督府に伝達されなかったという。その結果、マニラでは日本に対し一定の疑念を抱きつつも、友好関係を維持するとした*64

1594年には日本使節長谷川宗仁によってマニラに対する軍事遠征の否定と交易を求める旨の主張がなされた*65

ただしその後はサンフェリペ号事件やいわゆる26聖人殉教などのキリスト教弾圧、さらには長谷川宗仁を総督とするマニラ侵攻計画などの情報がもたらされたことから、マニラでは再び日本に対する警戒が高まった*66

しかしこの警戒心も、秀吉の死とそれに続く徳川家康の台頭によって消滅する。 徳川家康イエズス会士を通して交易の再開をマニラに対して申し入れ、関東─アメリカ大陸間の交易を求めた。さらにマニラ周辺における海賊対策にも乗り出し、スペイン船の遭難にも対処したことからマニラ総督府によって高く評価された。 早くも1600年にはマニラ総督フランシスコ・テリョ・デ・グスマンによって日本との関係は「最良」と評価され、1604年には公式に年間4隻の交易がスタートした。さらに前年に中国系住民の暴動をきっかけとする住民虐殺を行ったスペインは、中国本土からの報復を恐れていたが、再び日本を同盟者と見做すようになる*67

こうした友好ムードは、1609年オランダが平戸に商館を設置して以降悪化し始める。 敵国であるオランダと日本の親交はスペインの太平洋航路が脅かされる可能性を示唆するものであり、マニラにとって受け入れ難いものだった*68。 1611年には家康よりフランシスコ会修道士フライ・アロンソ・ムーニョスがスペインへの使節として送られ、1613年にはインディアス枢機会議においてヌエバエスパーニャと日本との交易がポルトガルイエズス会からの抗議を振り切って認められたものの、返答の使節はようやく1615年にヌエバエスパーニャを出航した。 この間日本では1614年には伴天連追放令が発出されるなどキリスト教徒に対する弾圧姿勢が強化され、スペイン側に警戒心を呼び起こしていた。さらヌエバエスパーニャからの使節は秀忠への謁見すら許されず、この時点で両国の外交関係は「凍結」することとなる*69

一方で、この「凍結」後も朱印船貿易を含む交易関係及びマニラ発の宣教師の密入国は続けられていた*70朱印船及び私的な貿易船の到来は1630年代まで続く。 1624年にマニラ総督府は日本に対し使節を派遣するが、この際に使用されたのも交易船であった。この使節はスペインによる台湾進出を背景の一つとして持ち、派遣当初の動機には台湾を拠点とする日本交易計画の実現が含まれていた*71。その上、それまで使節として派遣されることが多かった宣教師の乗組禁止を言い渡すなど、日本に大いに配慮した使節であったが、秀忠への謁見すら許されることはなかった。 1625年には再度交易船に乗り組んだ使節が派遣されるが、この乗組員に過去に日本を国外退去となっていたヨーロッパ人が乗り組んでいたため、家忠の態度の硬化を招き、スペイン船渡航禁止令が発出され、両国の「断交」が成立した*72

結論

東南アジアの諸勢力、明、日本を比較することで、この三つの地域・国がスペインにとって異なる意味合いを持っていたということがわかる。

東南アジアはスペインと最も早くに接触した地域であり、スペインにとってはスパイスの産出地であり、新領土の獲得先とも見られていた。またスペインに敵対する在地勢力は多くがイスラム教徒であり、スペイン居留地に対する奴隷狩りによって抵抗し、これに対処するために遠征や哨戒所の設置などの対策が行われた。さらに1600年以降はオランダの到来とその同盟により80年戦争という要素まで加わることになる。 つまり東南アジアにおけるスペインの軍事行動の動機には、スパイスという経済的動機、拡張主義、宗教対立、地域の安全保障、世界規模の戦争の一戦線という極めて多様な要素が存在した。

スペインは明との交易および宣教に価値を見出しており、当初は積極的な関係締結の働きかけをおこなっていた。 しかし明はキリスト教を受け入れることなく、交易の担い手であるフィリピン諸島に在住する中国系住民に対し、スペイン人は恐怖を募らせていた。 こうした背景の元でサンチェスによる明に対する武力宣教論が登場する。 この武力宣教論は一時マニラ司教らの支持を取り付け、フェリペ2世への謁見にも成功するが、結局のところ貿易の隆盛と共に放棄された。 しかし、貿易の隆盛と共に増加した中国系住民たちへのスペイン人の恐怖は放棄されることなく華人暴動とその後の虐殺を引き起こし、スペインの孤立感を強めていった。

スペインと日本の関係はこれらの地域・国とは異なる経緯を辿った。 東南アジアや明とは異なり、日本では地方領主たちによる積極的な関係樹立の試みがなされ、宣教師の招致活動が行われた。 これはスペインに強く歓迎され、日本をある種の同盟者と見る構想が現れた。 秀吉によるマニラ服属要求はスペイン側に一定の猜疑心を抱かせるが、秀吉の死去と家康の外交により再び友好国とみなされるようになる。 オランダの登場により関係が悪化し始めるのは1610年代である。 その後も交易関係については維持され続けており、完全な断交に至るのはようやく1620年代であった。

つまりスペインにとって日本は1610年代まで交易相手であり、しばしば潜在的な同盟国ともみなされていた。 キリスト教を受け入れ、積極的な交易関係を結ぼうとする国はアジアにおいて他になく、従って1610年代以前に日本に対し侵攻を行う積極的な理由は、拡張主義以外に見出すことができない。 そしてマニラ総督サンデの事例に見るように、当時すでに穏健政策を打ち出していたフェリペ2世が単純な拡張主義による侵攻を行うことは考えづらい。

1610年代以降、伴天連追放令などのキリスト教弾圧と外交関係の悪化が進展した時期は、東南アジアにおいてオランダの攻勢が強まった時期と重なる。 この時期も日本との間に交易関係は維持されていた。 1624年使節に見られる配慮からは、台湾進出のために日本側との交易が、また日本がもたらす軍事物資が重要であったことを示している。 そして台湾進出にはオランダへの対抗という要素が存在していた。 つまりこの時期スペインにとっての主敵はオランダとオランダと軍事同盟関係にある東南アジア勢力であり、日本への使節には戦略的な意味合いがあった。 スペインにとって日本は未だ交易関係にあり、軍事物資の供給元でもあったため、積極的に軍事行動をとる理由は存在しないと思われる。

1640年代はスペインにとってそれまで敵対していた諸勢力をも「対等」な存在と認識する転換期にあたる。 このような拡張主義が減退していく状況で、すでに外交関係も交易関係も絶たれていた日本に侵攻する動機はますます薄れたのではないか。

日本への侵攻に言及した人物は幾人か挙げることができる。 しかし実際の日本侵攻構想は、実際に侵攻を受けた東南アジアの諸勢力や、あるいは具体的な侵攻計画が語られた明とは異なり、書簡の中でわずかに言及されるだけに留まり、何ら次の段階を見ることがなかった。 その理由は、日本侵攻よりもはるかに重要性の高いモルッカ諸島やミンダナオなどの地域や、イスラム教徒、オランダ、あるいは明といった勢力が存在したためである、というのが結論となる。

以上。

余談

以下は本稿執筆中に思いついた余談。

もしもスペインが日本に侵攻するとしたら

逆にもしもスペインが日本に侵攻するとしたら、どのような状況がそれを可能にしただろうか。 まずスペイン本国が「インディオ」に対し融和的な処置をとる以前に接触がある方が蓋然性が高い。 次に日本側に何らかの事情でスペイン側の居留地を用意する勢力が存在した場合も同様に蓋然性が高くなる。

従って、シナリオとしては史実よりも数十年早くフィリピン諸島にスペイン勢力が到達した場合が想定される。 例えば1520年代に南米からモルッカ諸島を目指した艦隊がたまたまマニラやセブ島に拠点を建設し、交易を行い始め、日本側とも早期に接触していたと仮定する。 さらに日本側の九州戦国大名が、武器の輸入や南米産銀の魅力などの動機から交易を目的に九州のどこかにスペインに居留地建設と付近でのキリスト教宣教を認め、以降スペイン居留地が戦国時代の日本において一勢力として、エンコミエンダ制などを導入し、周辺勢力への侵攻や同盟を始める、とすると南米やフィリピン、アフリカで見られた様相と酷似してくるだろう。 ただしこの場合でも、日本にやってくるスペイン軍は、過半数が南米のインディオメスティソ、東南アジアの先住民からなる軍隊であった可能性が高く、実際に日本で組織される「スペイン軍」は現地で同盟・雇用下にある日本人が大半を占めていた可能性が高い。 そうしたローカル化されたスペイン軍と戦国日本の大名との戦争を単純にヨーロッパ対日本の争いと見ることができるかは疑問である。

奇妙な交易品 ─カスティーリャ産ワイン─

マニラから日本への輸出品の一つにカスティーリャ産ワインが挙げられる。 このワインは単なる輸出品としてだけではなく、日本の権力者への贈答品としても利用された*73。 しかし、Tremml-Wernerはカスティーリャ産ワインが日本へ届けられるまで少なくとも2年以上の歳月がかかることを指摘し、著しく劣化し酢になっていた可能性を指摘している*74徳川家康に対してもこのワインが贈答されている*75が味の記載はない。 贈り物は儀礼であって実用ではない、ということを象徴しているのかもしれないが、そのことを日本側が承知していたのかは謎である。

宣教師による軍事力の報告はどこまで頼りになるか

日本に滞在した宣教師の書簡には、日本の人口の稠密さ、日本人の理解力の高さなどの強調が多く見られるが、フアン・ヒルはこのような主張の背景として、日本が宣教の有望地であることをヨーロッパに対し宣伝するという要素が存在することを示唆している*76。 また、宣教師は日本の軍事力についても好意的な評価をおこなっていることはよく知られている。 だがこれは日本が優秀な兵士を大量に供給できる点を強調することで、明や朝鮮に対する武力宣教が容易になるという、やはりヨーロッパに対する宣伝の主張が背景にあると考えるべきなのではないか。

従ってこうした宣伝には誇大な表現が含まれている可能性が高く、批判的な検証が必要なのではないか。

「征服」とは

ある地域を「征服」した、という言説は、しばしば実態を伴わないことが多い。 南米「征服」が完了したのがいつだったのか、断言できる研究者はいないだろうし断言する研究者がいるとしたら脳内が19世紀で止まっている。 フィリピンも同様で、スペインがフィリピン諸島南部を「征服」することはできなかったという事実にもかかわらず、しばしば「フィリピン征服」という言葉が当たり前のように使われる。 この言葉は、それが一体誰にとってのナラティブなのか、という点を踏まえて使ったほうがいい気がしている。

本稿執筆の動機のようなもの

冒頭に挙げたように本稿執筆のきっかけとなったのはTwitter上のやりとりである。 「スペインは日本を侵略しようとしていたが恐れをなして取りやめた」という内容のツイートやそれに対する反論のツイートがバズったり注目集めることは、これまでも何度か繰り返されてきた。 このように同じような内容のツイートが繰り返し何度もバズることはSNSではよく見られる。 私はこれは発信者とそれに対し反応する者の両方にメリットがあるからだと考えている。 つまり発信者は自己顕示欲や金銭的利益などを得られ、反応者も、発信に対する賛否とは関わりなく、どのような反応を返すのが正解かを知っているため反応しやすい。 またこうしたコミュニケーションは発信者・反応者共にごく短時間のうちに思考することなく行うことができるため、自然とつぶやきの数やリツイートの数が増えてあたかも大勢このコミュニケーションをおこなっている人がいるかのように見えやすい。

個人的にこういった発信と反応が定型化したコミュニケーションは飽きがくる。

なので定型から外れるためにこうしたブログを書いてみた。

このブログが新たな定型になるのも癪なので、定型化させないためにこのブログの検証方法を下に書く。

このブログで用いた参考資料は有償のものと無償のものに分かれる。 有償のものは図書館やアマゾンなどで入手・閲覧できそうなものしかなく、無償のものはオープンアクセス化された論文やJsotrに登録すれば読めるものしかない。 JsotrのViewerはかつて解像度の低いGif画像を表示するスタイルだったため、視力を削りながら画面を見つめる必要があったが、現在ではPDFで表示してくれるようになったおかげで可視性がかなり向上した。

以下参考文献の項で有償・無償それぞれの資料を記す。

参考文献

有償

フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ: 16・17世紀のイスパニアと日本 (叢書・ウニベルシタス 693)", 2001年, 法政大学出版局

平山篤子, "スペイン帝国中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ", 2012年, 法政大学出版局

清水有子, "近世日本とルソン 「鎖国」形成史再考", 2012年, 東京堂出版

Matthew Restall, "Seven Myths of the Spanish Conquest", 2003年, Oxford University Press

無償

Birgit Tremml-Werner, "Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644 Local Comparisons and Global Connections", 2015年, Amsterdam University Press
https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/31437

Stephanie Joy Mawson, "INCOMPLETE CONQUESTS IN THE PHILIPPINE ARCHIPELAGO, 1565-1700", 2018年
https://www.repository.cam.ac.uk/items/86f4162c-e896-482a-a128-af1d357cf941

Ethan P. Hawkley, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", 2014年, Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3
https://www.jstor.org/stable/43818483

Jean-Noël Sánchez Pons, "EL NERVIO DE LA GUERRA: PROYECTOS, REFLEXIONES Y PRÁCTICAS EN TORNO AL CLAVO MOLUQUEÑO, 1579-1663", 2020年, Historia Social, No. 98
https://www.jstor.org/stable/26932769

JOSÉ ANTONIO CERVERA, "La expansión española en Asia Oriental en el siglo XVI: motivaciones y resultados", 2017年, Estudios de Asia y Africa, Vol. 52
https://www.jstor.org/stable/44272654

JOHN VILLIERS, "Manila and Maluku: Trade and Warfare in the Eastern Archipelago 1580 – 1640", 1986年, Philippine Studies, Vol. 34, No. 2
https://www.jstor.org/stable/42633589

Harry Kelsey, "Finding the Way Home: Spanish Exploration of the Round-Trip Route across the Pacific Ocean", 1986年, Western Historical Quarterly, Vol. 17, No. 2
https://www.jstor.org/stable/969278

ETHAN P. HAWKLEY, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", 2014年, Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3
https://www.jstor.org/stable/43818483

Carmencita T. Aguilar, "The Muslims in Manila Prior to Colonial Control", 1987年, Sojourn: Journal of Social Issues in Southeast Asia, Vol. 2, No. 1 https://www.jstor.org/stable/41056722

*1:Matthew Restall, "Seven Myths of the Spanish Conquest", なおアフリカ出身の奴隷のうち、ごく限られた人数ながら奴隷身分からの解放後にエンコミエンダを獲得した者もいる

*2:平山篤子, "スペイン帝国中華帝国の邂逅", p127

*3:Birgit Tremml-Werner, "Spain, China, and Japan in Manila. 1571-1644", p99

*4:Ethan P. Hawkley, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3, p292

*5:Stephanie Joy Mawson, "Incomplete Conquests: The Limits of Spanish Empire in the Seventeenth-Century Philippines", p192

*6:Hawkley, p294

*7:Mawson, p157-158, p226, p235-236

*8:John Villers, "Manila and Maluku: Trade and Warfare in the Eastern Archipelago 1580 – 1640", Philippine Studies, Vol. 34, No. 2, p147

*9:1582年にはポルトガル領インドの救援に応えるようマニラ総督に対し勅令が発行されている。Jean-Noël Sánchez Pons, "EL NERVIO DE LA GUERRA: PROYECTOS, REFLEXIONES Y PRÁCTICAS EN TORNO AL CLAVO MOLUQUEÑO, 1579-1663", Historia Social, No. 98, p133

*10:Villers, p150-151, Pons, p134. グレゴリオ・F・サイデ, "フィリピンの歴史", p183-184

*11:サイデ, p179-180

*12:Pons, p139. サイデ, p185-186

*13:2度目の増援はカスティーリャ王国より船団の貸与を受けて行われた。

*14:Mawson, p234-235

*15:Mawson,p235-236

*16:なおフィリピン諸島の各地に設けられていた前哨基地に駐屯していた兵士はこの数字に含まれない

*17:Carmencita T. Aguilar, "The Muslims in Manila Prior to Colonial Control", Sojourn: Journal of Social Issues in Southeast Asia, Vol. 2, No. 1, p155

*18:サイデ, p165-171

*19:Pons, p132

*20:Harry Kelsey, "Finding the Way Home: Spanish Exploration of the Round-Trip Route across the Pacific Ocean",Western Historical Quarterly, Vol. 17, No. 2 , p158−163

*21:VILLIERS, p147

*22:Pons, p133

*23:Tremml-Werner, p49

*24:Tremml-Werner, p104

*25:Mawson, p145-146

*26:サンデ, p231

*27:Mawson, p227

*28:Mawson, p214-216.

*29:Pons, p133.w Mawson, p216-218

*30:Mawson, p221-223. HAWKLEY, p302

*31:Mawson, p230-232

*32:Pons, p144−145

*33:Pons, p139

*34:Mawson, p223

*35:HAWKLEY, p302. Mawson, p234

*36:サイデ, p236. Mawson, p235

*37:Mawson, p235-236

*38:Mawson, p236-237

*39:Mawson, p237

*40:Mawson, p238

*41:Mawson, p239-240

*42:サイデ, p161-162

*43:平山, p81-82"

*44:JOSÉ ANTONIO CERVERA, "La expansión española en Asia Oriental en el siglo XVI: motivaciones y resultados", Estudios de Asia y Africa, Vol. 52, No. 1, p196-198

*45:Tremml-Werner, p181

*46:Tremml-Werner, p182

*47:Tremml-Werner, p184

*48:平山, p81-82, p102-103

*49:Tremml-Werner, p186-187

*50:平山, p85-93

*51:平山, p131-132

*52:平山, p146

*53:平山, p91-96

*54:平山, p306-307

*55:Tremml-Werner, p189-190

*56:平山, p327-336

*57:平山, p377-388

*58:Tremml-Werner, p192

*59:レガスピによる航海の際にカール5世は日本に漂着した場合、紛争を避けるために可能な限りポルトガル人を回避するよう指示している。清水有子, "近世日本とルソン ─「鎖国」形成史再考─", p26

*60:Tremml-Werner, p194

*61:フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ", p7-13. 清水, p305-313

*62:Tremml-Werner,, p158-161. 清水, p305-308

*63:ヒル, p18-25. 清水, p140-141

*64:清水, p140-162

*65:Tremml-Werner, p196-197

*66:ヒル, p53-62. Tremml-Werner, p196-199

*67:清水, p56-67. Tremml-Werner,、p199-203

*68:清水, p67-72

*69:ヒル, p266-275, 455-464. Tremml-Werner, p207. 清水, p73

*70:Tremml-Werner, p226. 清水, p235-236,p99−130. 平山, p61

*71:清水, p245. 台湾進出自体もオランダへの対抗、中国の関税の回避、宣教という複数の目標が絡み合っていた。Tremml-Werner, p240

*72:清水, p253-259

*73:ヒル, p113

*74:Tremml-Werner, p152

*75:ヒル, p352

*76:フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ", p267

『補給戦』の近世期の記述について

はじめに

マーチン・ファン・クレフェルトによる著書、『補給戦―何が勝敗を決定するのか』(原題:SUPPLYING WAR)は2023年に第二版が翻訳され、海上自衛隊の幹部学校のリーディングリストに載るなど、高い評価を得ている*1

しかし16〜17世紀を対象にした第一章前半部の内容には極めて問題が多い。近世ヨーロッパ軍事史研究の進展によって『時代遅れ』になった部分だけではなく*2、当時の研究水準を考慮に入れたとしても違和感を抱く記述は少なくない。

本稿では主に第一章前半部の記述からその誤りを指摘し、ついで補給戦の論述全体に存在する問題点について指摘する。

なお日本語圏ブログでにはすでに旗代太田氏による優れた批判記事が存在する。

しかしまずは本題に入る前に、『補給戦』がどのような目的で書かれた本であるかを解説する。

『補給戦』の目的と実態

著者の前書きによれば『補給戦』は

抽象的な理論化よりも、むしろ最も現実的な諸要因───食糧や弾薬、輸送───に注意を払う

ことで、

軍隊を動かし、軍隊に補給する際生じた問題が、技術や組織あるいはその他の関係諸要因の変化によって歴史的にどう影響を受けたかを理解すること

最近数世紀間にわたって、兵站術が戦略に与えた影響を調査すること

が目的であると述べている。
興味深いことに、タイトルが「補給戦」であるのにも関わらず、「兵站*3」が戦略に与えた影響を調査することを目的としている。

クレフェルトは兵站術を以下のように定義している。

兵站術とは、「軍隊を動かし、かつ軍隊に補給する実際的方法」

ここで軍隊に補給されるものとは「最も現実的な諸要因」である食糧・弾薬であろう。



では実際にクレフェルトは以上の目的をどの程度達成できたのか。

『補給戦』の出版後に、海戦史家のClark G. Reynoldsによって寄せられた書評の中に、以下の記述が存在する。

非の打ち所のない学識と多くの新規解釈───それらがこの本が軍事史の古典となることを運命付けている───がこの本を特徴付けているが、その例示の幅はとても選別されていることを理解する必要がある。この本はヨーロッパの陸戦のみを論じており、故意にいくつかの歴史的かつ壮観な機動作戦に集中している。 この本は制限戦争やヨーロッパ方面以外での戦争、海軍、空軍、恒常的な防衛軍、または退却中の軍隊の補給については何も語ってくれない。*4


Reynoldsの指摘通り、『補給戦』で扱われる補給の範囲は極めて狭い。包囲戦下の攻囲側、防衛側双方の補給や、要塞の駐屯部隊への補給について何も語られていない。軍隊が機動しながら海上部隊より補給を受けたケースや、あるいは軍隊が自国や友好国、中立国内を移動する時の補給方法について語ることもない。


つまりクレフェルトは「実際的方法」について記述すると言いながら、極めて限られたシチュエーションについて、さらに一部の事例を抽出し議論を行っている。 当然ながらこの方法では事例の抽出方法が果たして適切に行われているのかといった検証は欠かせないものになるだろうし、議論を一般化できるかどうかも疑わしい。 クレフェルトが目的とした「兵站術が戦略に与えた影響を調査」が達成されていたとしても、ごく一部、極めて限定的な状況においてのみ達成したといえるだろう。

『補給戦』の近世期の記述とその問題

クレフェルトは近世ヨーロッパに対しても議論を行い、いくつかの評価を下している。 以下ではそのうち二つの評価に対して検証を行い、実際の事例を挙げて反論する。

『無秩序な略奪』という神話

クレフェルトは近世期の軍隊の補給について以下のように語る。

一般的に各国の軍隊は傭兵から成っていた。そのような軍隊は兵卒に対して給料以外にほとんど金を支払わなかったが、兵達はその給料のうちから、日々の食糧のみならず、しばしば隊長からあらかじめ援助を受けていたものの、被服や装備、兵器、そして少なくともある例では弾薬を購入することが当然だと思われていた。財政当局が金を送り将校達が正直にそれを分配している限り、この補給制度は十分に働いていた。

しかし、ひとたび軍隊が駐屯地*5を離れて行動しなければならなくなったとき、事態は甚だしく異なってくる。

他方当時の補給制度は、敵地で作戦行動に移った軍隊を維持することはできなかった。そのような制度を作る必要性は、実に現代に至るまで感じられなかった。太古の昔から軍隊にその欲するものをすべて奪取させることによって、この問題は単純に解決されてきた。(中略) しかしながら十七世紀初期までに、古くから尊重されたこの「制度」は、もはや機能しようとはしなかった。軍隊の規模があまりにも大きくなったので、この制度は効かなくなったのだ。一方、統計資料や管理機構は、後世になって掠奪を組織的搾取に変えることにより兵員増加に対処する一助となったものだが、まだこの頃には存在していなかった。その結果、恐らく当時の軍隊は史上において最も補給が劣悪だった。

著者は続いていわゆる「軍税制」についての解説*6を述べた後、以下のように記す。

補給制度が戦略に及ぼした影響を調査する際、いちばん目立つ事実は、ほぼ永久的に一つの町に駐屯しない限り、軍隊というものは食っていくためには常に移動を続けねばならなかったということである。どんな方法を用いようと──ヴァレンシュタイン式の「軍税」であれ直接的な掠奪であれ──軍隊という大集団、あるいは軍紀のゆるんだ家臣団が存在すれば、ある一つの地域はたちまちのうちに疲弊したものだった。

クレフェルトの主張は以下のように要約できる。
近世の軍隊は「敵地で」*7「作戦行動」*8中の軍隊を維持する「補給制度」*9を持たず、代わりに「欲するものをすべて奪取させること」*10、つまり略奪により軍隊を維持していた。

しかし17世紀初頭に至るまでに、略奪による補給は「軍隊の規模があまりにも大きくなった」*11ために機能しなくなっていた。同時に、後世に誕生する「統計資料や管理機構」*12も未だ存在しなかったため、「史上において最も補給が劣悪」*13な状態であった。

つまり補給が戦略に与えた影響を調査すると、軍隊は「ほぼ永久的に」「一つの町に」駐屯しない限り「常に移動を続けなければならな」かったという事実がわかる。また軍隊がある地域に存在すれば、その地域は「たちまちのうちに疲弊」することとなった。

このクレフェルトの主張によれば、近世ヨーロッパの軍隊は補給のための管理機構を持たず、補給を掠奪に依存し、常に移動を繰り返し、ある地域を疲弊させたら次の地域へ向かう、イナゴのような組織であった。

しかしこの主張は史実の近世ヨーロッパ軍隊の実態とは乖離している。

近世ヨーロッパにおいて攻城戦はごく当たり前に行われており、都市への包囲が数ヶ月に及ぶことは珍しくなかった*14。3年間にわって攻囲が続けられたオーステンデのような例すらある。 従ってクレフェルトの主張するような「常に移動を繰り返す軍隊」という軍隊像は近世において一般的であったとは言えない。

補給を略奪に依存していた、という言説も誤りである。 当然ながら補給を略奪に依存していては数ヶ月に及ぶ攻囲中に軍隊を維持することは困難である。
近世期の軍隊は補給という問題に対して現代でもしばしば見られる解決方法を取った。 民間業者からの購買である。 クレフェルトは近世の軍隊に対して駐屯地を離れて行動する際は購買を行うことができないとしているが、明らかに誤りである。

近世のごく初期の段階から根拠地を離れた場所で購買による補給が行われていたことは明らかだ。 いわゆるイタリア戦争において、シャルル7世は占領地のミラノにおいて食糧及び弾薬を現地において購入している*15

16世紀における兵士の購買の実態を知ることができる資料は多い。例えば16世紀後期、イングランドにおいて出版された『The arte of warre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession』は、著者であるWilliam Gerradが低地地方における経験に基づいて執筆されたが、以下のような記述がある。

彼(兵士個人を指す)が中隊長及び出納係より受け取る給与・賃金は、命を繋ぐための食料、衣服、そして彼の武装を維持するためだけに使われなければならず、他のいかなる用途にも用いられるべきではない。*16

この文章は兵士のあるべき規律を記述したものであり、兵士に食糧・衣服・武装以外に出費するべきでないと説いている。これは当時の補給方法が兵士の自費による自弁行為が主であったことを示している。 ただし必ずしも食糧・弾薬の補給が自弁行為に完全に依存していたわけではない。*17

そしてこのような自弁行為のための環境整備、つまり物資価格の統制や商人たちの交通の保証などは上位の指揮官の義務とみなされていた。Gerradは以下の文章で給養人たちによる物資の販売が、軍の保護と価格統制を受けた上で行われていたことを示す。

商人、給養人、職人、その他商品を野営地*18へ運んでくる者は、彼らの商品を望み通り、安全に商えるよう、彼(野営地の責任者を指す)は丁重かつ好意的な取り扱いがされるように指令を出す。また、彼ら商人が良い値段で支払いを受けられることが予期できるよう彼らに対しては好い表情を見せ、また彼らに十分な護衛を与えてやり、行き来の際に彼ら自身の善意で持って一刻も早く戻ってくるようにしてやり、盗まれたり、盗品の商いで台無しにされたりする疑いなしにあらゆるものを満足させてやる。なぜならそれらの方法によって軍隊は適切に必要な物資を揃えられるからである。それに加えて、彼は兵士たちが重い負担に困窮しないよう、また給養人たちがパン、ビール、ワインのようなものから真に利益が得られるよう適切な値段を食料に設定しなければならない。*19

ここで触れられる野営地、the campeとは、遠征中などに造られる簡易的な防護施設を備えた野営地であり、軍隊が休息するために用いられた。 クレフェルトの主張に現れる駐屯地、permanent stationとは全く別個のものである。

商人の保護が軍の責任であるという見解は他の著者に対しても共有されており、例えば1598年に出版されたThe theorike and practikeではLord high Marshall of the field、すなわち軍の最高責任者に必要な能力について以下のように語っている。

私の知る限り、戦争において、理解するのに大いに実践と経験が必要な領域、すなわち騎兵に適した配置、歩兵に適した配置、砲兵が取るべき距離、偵察や歩哨の配置などに加えて、状況と必要な物資を判断し識別する能力、すなわち敵を防御するのに適した地形を選択し、物資と食糧を安全に野営地まで行き来させることは、比べるまでもなく、戦争においてこれほど重要なものはなく、これらの能力を発揮させるのは極めて重要かつ必要であり、彼(最上位の指揮官を指す)は戦争を行う土地について熟知し、地理学に通じておらねばならず、また街、都市、村々を地図に描き表す能力が必要で…*20

従ってクレフェルトの主張する補給のための管理機構の不在や略奪への依存というテーゼは、GerradやRogerの主張を踏まえる限り誤りである。

もちろんこうした兵士による自弁行為とそれらのための環境整備に依存した補給方法は完全ではなかった。Gerradは兵士相手に食糧・弾薬などを販売する給養人について以下のように述べている。

食料、武器、弾薬の支給は、定められた期限のうちに、任命された給養人によって慎重に兵士たちに分配されなければならず、また給養人*21やその他の職人たちが、兵士に対して彼らの給料日までその支払いを待つことが、必要となるだろう。 *22

これは給養人に対し支払いの延期を求める内容であり、取引に応じる商業者が存在しても*23給料の遅配やその他の要因で兵士の支払いが遅れがちになるという現実があったことを示している。 そして更に兵士の資金が不足すれば、商業者は取引を取りやめ、兵士たちは物資不足に陥っただろう。 その結果飢えた兵士による見境のない略奪が起きることは十分に予想できる。

近世ヨーロッパの軍隊において、物資の不足よりも資金の不足がより重要な問題として語られるのはこうした事情があるからである。

しかし資金の供給が完全に滞らない限り、管理された購買方式の補給は行軍中も機能したし、軍隊はそのおかげで数ヶ月に及ぶ攻囲戦や遠征を行うことができたのである。 なお『補給戦』の中では18世紀のマールバラが同様の方式を採用したとされているが、実際には16世紀には行われている。

近世の軍隊では極端に悪化した財政状況によって略奪が横行することもあれば、また略奪を行わなくても宿営は住民との間にトラブルを引き起こす種となった。 しかしそれらは補給制度が存在しなかったことを示すわけではないし、当時の軍隊が補給を略奪に頼っていたことを一般化できる証拠にもならないのである。

『河川依存』という神話

クレフェルトは近世ヨーロッパの軍隊の戦略的機動性について、以下のように述べている。

十七世紀の軍隊は補給戦からはほとんど無制限に自由だったのに対し、戦略的機動性*24は河川の流れ*25によって厳しく制約され*26ていた。このことは通常、河川を渡るのが難しいということとは関係がない。水路で運べるような補給物性は、陸上を引っ張るより船で運ぶ方が遥かに簡単だという事実のためである。このような特殊な理由は全ての軍隊に等しく当てはまるが、逆説的に言えば、補給物資をうまく調達する司令官になればなるほど水路に依存するようになるということであった。*p24

そしてクレフェルト自身によって、ここまでの主張が三点にまとめられ、代表的な例としてグスタフ・アドルフが挙げられる。

要するに十七世紀の軍司令官達が戦略の基礎を置いた基本的な兵站の実相*27は次のようであった。第一、食って行くためには移動し続けることが絶対必要 *28。第二、行動の方向を決めるとき、根拠地との接触を維持することにあまり頭を悩ます必要はない。第三、河川をたどり、できるだけその水路を支配することが重要である*29

ここでクレフェルトがあげる「兵站の実相」のうち、第一のものが誤りであることはすでに示した。 ここでは第三に挙げられているもの、すなわち「河川をたどり、その水路を支配すること」という主張について論じる。

一見して「河川をたどり、その水路を支配すること」という主張は奇妙である。

輸送のために河川を利用することがあった、というのは事実である。 しかし、輸送を受ける部隊が河川の経路を辿る必要はどこにもない。 河川輸送の場合、使用されるのは船であり、荷揚げ場で荷の積み下ろしと物資の集積あるいは運搬が行われる。 部隊に補給を行う際に必要なのは、荷揚げ場または物資が集積されている場所、つまり港を辿ることであって河川の経路を辿ることではない。 「河川の経路を辿ることが補給に必要」という発想は、河川輸送を根本から誤解しているとしか思えない。

1592年のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼによるルーエン救援の際の進軍経路を以下に示す。 パルマはアミエンに軍を集結させた後に南下を開始し、オマルで小戦闘の後にブレル川を渡河し、四日間でヌーシャテルを開城させベルコンブルに至った。

Omen, 1937 よりパルマの進軍経路を赤線で示した

この間アミエンからベルコンブルまで直線距離にして70キロを大砲を伴いながらパルマは河川に頼らず行軍している。*30 フランス北部の河川経路は大まかに東西方向なのに対し、パルマはスペイン領ネーデルラントから南北方向へ進軍する必要があったため、そもそも河川を根拠地からの補給経路として用いることは無理があったのである。 そもそも河川沿いにしか移動ができないならば、パルマはフランスに介入することすらできなかっただろう。

また行軍が河川を辿っているように見えたとしても、補給を河川に頼っていたと直ちに結論づけるのは単純化しすぎである。 以下の図は30年戦争におけるアルプス戦線においてロアン公ヘンリの取った行軍経路である。

まずヘンリはキアヴェンナに軍を集結させ、エンガディンよりカッサナの渡しを通ってリヴィーニョのハプスブルグ軍を攻撃した。 その後南下してティラーノに向かい、イタリア方面より北上してきたスペイン軍に対処するためモルベーニョへと下った。 その後再び北上しハプスブルグ軍の二拠点ベインおよびサンタマリアを攻略した*31。。

赤線でヘンリの進軍経路を示した

ヘンリがアッダ川源流沿いに軍事行動を起こしていることが確認できるが、これは補給を河川に依存していたからではない。 山地に囲まれた地形上、他に機動の余地がないだけである。 同様の事例として、河川沿いにのみ行軍可能な道路があるケースやランドマークや障害として河川を利用するケースが考えられる。 河川に沿ったように見える行軍経路のみを示されて、一切の検証を行わず「河川を利用した補給を行なっていたから河川沿いに移動していたのだ」と結論づけるのは極めて奇妙な論理が働いているように思えてならない。

以上、クレフェルトの近世ヨーロッパに関する誤りを指摘した。 本稿では『補給戦』刊行以前のものである英語の資料のみを参考資料として用いた。 研究の進展により『補給戦』の記述の誤りが明らかになったというより、『補給戦』が執筆された時点で既に誤っていたということを示すためである。 これらの誤りが、単にクレフェルトが近世軍事史に対して専門的な知識を持たないことに由来する、とは考えにくい。 クレフェルト自身が高く評価し、かつ『補給戦』中で引用しているジェフリーパーカーの著作では、当時の軍隊が使用していた行軍中の購買方式による計画的な補給*32、兵士に対する給食制度*33、包囲戦とその長期化*34について述べられているにもかかわらず、クレフェルトはそれらの記述を全く無視しているからだ。

クレフェルトは近世期の補給方式について、パーカーの記述をあえて無視し、虚偽を記述する必要があったのではないか。 この前提に基づいて次項では『補給戦』全体の論述傾向からクレフェルトの動機について仮説を提示する。

『補給戦』をどう読むべきか

そもそも『補給戦』全八章のうち、近世に割り当てられているのは一章中の十数ページである。 クレフェルト自身も近世の描写に注力する必要をあまり感じておらず、この時代について実証に手間をかけるだけの理由もなかったのではないか。

おそらくクレフェルトは、あえて16世紀を最も原始的な時代として描くことに決めたのだろう。

『補給戦』を注意深く読むと16世紀から18世紀にかけて軍隊は「史上最も補給が劣悪」な状態から「その移動中完全に食糧を得るように 」*35なり、鉄道や自動車によって機動の自由が拡大され、ついにWW2のオーバーロード作戦において随所で事前の計画は崩壊しながらもその責任者の「兵站術」によって軍隊への補給が完全に達成される、といった構成になっていることに気づくだろう。 この構成ではオーバーロード作戦以前に完全に補給が達成された例が存在していては不都合であり、むしろ補給の暗黒時代であった16世紀より技術や組織の進化を経て徐々に補給の方法が発展していったとする発展史観的な叙述の方が適している、と考えたのではないか。

つまりクレフェルトが歴史的な実証よりも全体の構成を優先させたため、問題だらけの叙述となったのではないか、というのが私の結論である。

以上は単なる推測だが、原因が何であるにせよ『補給戦』の近世に関する記述に問題点が多いのは事実である。

しかしその記述が広まってしまったように見えるのは、単にクレフェルト自身の問題だけではないだろう。

そもそも『補給戦』はReynoldsの指摘通り事例集に近い体裁であり、この本から補給について体系的に学ぶこと一般化可能な教訓を導き出すこと自体に無理があるのではないか。

こうした前提を置くと、その内容を字義通りに受け取るよりは、挙げられているケースの解釈に対して批判的に、有体に言えば「間違い探し」をするように読む方が良いのではないか。

『補給戦』は今後も長く読み継がれるかもしれない。 しかしその中で現代軍隊*36として挙げられているのは1941年のドイツ国防軍であり、冷戦下において事例集として執筆された、という点は忘れてはならないだろう。

『補給戦』だけを読んで取り上げられている時代全てについて語ることができると思い込んでしまうのは大きな誤りである。

『補給戦』の代わりに何を読むべきか

では『補給戦』以外に何を読めば良いのか。 近世ヨーロッパ軍事史に関するごく狭い範囲ではあるが、いくつかの本を紹介する。

  1. The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567-1659
    ジェフリー・パーカー著
    1972年に第一版が出版されたスペイン・フランドル駐留軍研究の古典的名著。 フランドル駐留軍の構造・社会・維持のための努力を網羅的に解析した本であり、クレフェルトが引用していることからもわかる通り、ロジスティクスについての記述も多い。 ただし一部の記述についてはジョン・A・リン、Eduardo de Mesa等から批判を受けている。

  2. The Business of War: Military Enterprise and Military Revolution in Early Modern Europe
    David Parrott著
    いわゆる軍事革命論に対するリビジョニストとして知られるDavid Parrottによる近世ヨーロッパにおける戦争と商業活動についての著作。 当時の軍隊のロジスティクスを支えていた民間業者に関する記述が多く、また軍事史研究におけるリビジョニズム的な見解を取り入れることができる。 あくまで私見だが、この本で解説される軍隊・国家と企業の関係は、2010年台以降の軍隊・国家と企業の関係を見る上で相対化のための有益な視点の一つになりうるだろう。

  3. Italy 1636: Cemetery of Armies
    Gregory Hanlon著
    フランスおよびイタリア近世史の研究者であるGregory Hanlonが、あまり知られていない30年戦争の北イタリア戦線について、そのキャンペーンの一つを詳細に解析した著作。 他の著作とは異なり一つのキャンペーンについての本であるため、目標の選定や補給の実際的方法などについて得るところは多いだろう。 しかし兵士の心理的状況を再現しようと試みた箇所ではグロスマンを無批判に引用しており注意が必要。

以上三つの本を挙げた。 いずれの本も英語で書かれており、現代日本人のマジョリティにとってスペイン語やドイツ語に比べれば読解は容易だろう。

英語が読解できないにしても現代は機械翻訳もあるし、邦訳されるのを待つより英語を勉強した方が早い。

むしろ英語で読めるだけまだマシ。

以上。

*1:https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/reading_list.html

*2:例えば第一章最初の2ページに記述される軍隊の規模の拡大は、90年代より登場したリビジョニストらの研究によって現代では否定的に語られることの方が多い。

*3:原文:logistics

*4:Technology and Culture, Vol20. No.1

*5:原文:permanent station

*6:ただし「軍税制」と呼ばれるものについては法令による特別税や同盟を組む領主権力からの援助金の形式を取るものなど、その実態については様々であることに留意

*7:原文:enemy territory

*8:原文:embarked on operations

*9:原文:logistic system

*10:原文:having the troops takes whatever they required

*11:原文:The size of armies was now too large for it to be successful

*12:原文:the statistical data and administrative machinery

*13:原文:probably the worst supplied in history

*14:Geoffrey Parker, The Army of the Flanders and Spanish Road, 1972, p10-11

*15:Taylor.Frederick.Lewis, The art of war in Italy, 1494-1529, p14

*16:William Gerrad, The arte of warre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession, p15

*17:Gerrad, p52

*18:原文:the campe

*19:Gerrad, p236

*20:The theorike and practike of moderne vvarres discoursed in dialogue vvise., p151

*21:原文:victualers

*22:Gerrad, p149

*23:ヨーロッパにおいて存在しないと言うことはまず考えられないが

*24:原文:strategic mobility

*25:the course of the rivers

*26:severely limited

*27:原文: fundamental logistic fact

*28:原文: In order to live, it was indispensable to keep moving.

*29:原文: it was important to follow the rivers and, as far as possible, dominate their course.

*30:Charles Oman, A History of the Art of War in the Sixteenth Century, p515-518, 523

*31:David C. Norwood, The struggle for the Valteline, 1621-1639: The alpine campaigns of the thirty years' war, p105-111

*32:Parker, 1972, p86-95

*33:Parker, 1972, p162-164

*34:Parker, 1972, p10-11

*35:p63

*36:原文: modern armies

近世スペインにおける常備軍の誕生

はじめに

近世ヨーロッパにおける常備軍組織の成立は軍事史において一つの契機と見做すことができる。 常備軍は領域権力を持つ国王により人事・財務・指揮統制を直接管理された即応部隊であり、それまでの貴族や民兵の混成によって成立した中世的軍隊とは決定的に異なる存在であった。

16世紀以降、ヨーロッパ諸国・地域は常備軍を維持する制度を発展させていくが、特にスペインはレコンキスタ以降に常備軍制度を発展させ、世紀の中盤以降に野戦病院システムや寡婦年金制度を備えたフランドル駐留軍、さらには現代軍隊へと発展していく。 この過程において、性質の異なる中世的軍隊からどのようなプロセスを経て常備軍が誕生したのか、という点は重要である。

本稿では中世期スペインから近世における常備軍の成立までの過程を追う。特にレコンキスタ終了直前からイタリア戦争にかけてのカトリック両王期に行われた軍事改革に注目し、さらにその後創設された編成単位─ルシオ─がどのような意義を持つのか、また中世的軍隊から常備軍への移行がどのような問題を引き起こしたのかを明らかにする。

中世期スペインの軍隊と貴族

スペインの中世はイベリア半島の大部分を征服したイスラム教諸勢力に対するキリスト教諸勢力の再征服運動に費やされた。 この時代において、キリスト教諸勢力の軍事力は主に二つの階層からなっていた。騎士と都市民兵である。

地域・時代により差はあるものの、中世スペインの騎士階層は平民騎士(caballeros villanos)と貴族騎士(hidalgos)の二つに大別することができる。

前者はキリスト教勢力によって新たに獲得された土地に再植民された平民を基盤とする階層であり、馬と武器を所持し、騎兵として戦うことができるのであれば、税免除などの特権を与えられた*1。 本来貴族階層とは異なり、血統ではなく馬と武装が所持できるか否かといった能力に基づく階層であったが、13世紀以降はしばしば世襲化し、戦闘の場所がイベリア半島北部の山間部から中央部の平原に移るにつれてレコンキスタにおける騎兵の数的な主力となった。 また12世紀終わり頃から都市の行政職は後述の貴族騎士と共に平民騎士によって占められ、その行政的権力もまた拡大していった*2 *3。 14世紀以降の内戦により、乱発された貴族位を手に入れ、税免除の特権を受ける者が現れたが、15世紀にはその反発により規制が強まり、貴族位を手に入れたものとそうでないものに二極化していく。*4

貴族騎士はいわゆる貴族階層である。この階層は二つのクラスに分けることができ、大貴族はricos hombres、中小貴族はinfanzonesまたは単にhidalgosと呼ばれた。 貴族騎士たちはその役割や経済力ではなく、血統によって定義される階層であり、中世初期は王の臣下として特別な軍役奉仕を負っていたが、カスティーリャ建国と同じ頃に聖職録に基づく土地や金銭の見返りの場合を除いてほぼ軍役が免除される立場となった。 それにも関わらずこの階層の騎士たちはむしろ積極的に軍役に服していた*5

この貴族騎士たちはレコンキスタが進展するにつれ平民騎士と同様に都市行政に入り込み、しばしば行政職を世襲化した。 さらに重要な出来事が12世紀頃に起きた。この時期に発生した相次ぐ内乱の影響で、各自の土地に散らばった中小貴族騎士や平民騎士が大貴族の庇護を求めた結果、より強力な貴族が誕生した*6。 1390年の議会では王からの年金の引き換えに軍役奉仕のための私兵を維持することが定められ、14世紀から15世紀にかけて行われた内戦を生き残った者はさらに権力基盤を強化していった*7

植民・再征服された国境都市は都市自身の防衛と王への軍役奉仕義務のために民兵を組織しなければならなかった。 民兵組織は騎兵や歩兵などは厳密には区分されておらず、民兵は都市の周辺区域からも徴収され、馬を用意できる場合は騎兵つまりcaballeros villanosに、用意できない場合は招集される地域ごとに歩兵に分けた部隊が編成された*8。 この時に最も重視されたのが招集される個人が的確な武装を用意できるか否かであり、都市が住民の財産を売り払うことで強制的に武装させることも可能であった*9。 遠征の際は都市民兵は総督の指揮下に入り、偵察*10、書記*11などの役職が定められ*12、給与は派遣元の都市評議会から支出されていた*13 また、アルフォンソ11世により創設された平民騎士の組織caballería de cuantíaは、15世紀には顕著な数の増加を見せ、グラナダとの国境付近で極めて高度に軍事化した社会を成立させた。1407年のバエザの兵員登録簿によれば、登録されている1774名の人口から、254名のcaballeros de cuantía、256名の弩兵、960名の槍兵を書類上は動員することができた*14。 一方で14世紀には騎兵の規律の弛緩が危惧されており、1337年のセビリャに対する布告では臆病さと武装について率直な不満が述べられている*15民兵の動員も完璧ではなく、1457年には招集対象であった弩兵のうち、実に70%以上が現れなかったという事件も起きている*16

上記の3者のうち、指揮階層という点から最も重要であったのが貴族騎士である。 13世紀のアルフォンソ10世は七部法典において下位の指揮官の任命と軍の機動を指示するcabdiello mayor、敵地で部隊を先導し統制するadalid、adalidから選出される歩兵指揮官almocadenesなどの役職を定めており、中でも特にadalidが重要視されていた*17*18。 新しいadalidの選出は12人のadalidの協議により定められるとされており、一見実力主義的な任命がされていたように思えるが、アルフォンソ自身は当時すでに世襲化が進んでいた平民騎士には懐疑的であり、こうした「士官」となるのは貴族騎士が想定されていたようだ*19

15世紀には古典復興運動の影響を受け、古代ローマギリシャの影響を受けた著述活動が行われるようになるが、この時点では古代ローマイベリア半島への侵略者として扱われたため、古代を規範と見做す動きは小さかった*20

レコンキスタ期の軍隊は、貴族の私兵、都市民兵、若干の王の直属の部隊で構成されており、前二者は独自の指揮階層と人事権を有していたため、王が管轄可能な範囲はごく限られていた。 この軍隊は大規模な動員を前提とし、外国人傭兵に依存しない戦争を可能にした。一方で、私兵を持ち、都市の行政職を占める貴族による反乱が頻発することにもつながったと考えられる。 そしてこの中世的軍隊は、即位直後に貴族による蜂起を経験したカトリック両王の時代に根本的な変化を遂げる。

カトリック両王」の軍隊

イザベラ女王及びフェルディナンド2世、すなわち「カトリック両王」の時代にスペインの軍隊は大きく変化し始める。 イザベラとフェルディナンドの結婚と、イザベラのカスティーリャ王即位により内乱の勃発により、カスティーリャ封建制秩序は混乱し、危機に陥った。この危機に対処するため、内乱中また内乱後も両王は封建制下秩序に基づく王権の復旧を図った*21

両王はまずカスティーリャに対する秩序回復のために、中世期に自発的に誕生した都市民兵組織であるHermandadを復活させる意向を示した。この意向は1476年の全ての都市に対し執政官の監督のもとで特別税を原資とし、Hermandadを組織させる施策につながる。こうして組織されたHermandadは住民100名あたり1人の軽騎兵及び150名あたり1人のMen-at-arms─騎士の供出と、定期的な評議会への参加が求められた。こうして王権とより強くつながったHermandadはそれ以前と区別してSanta Hermandadと呼ばれる*22

Santa Hermandadではそれまで乱立していた指揮階層の呼称が統一され、部隊を率いる者はcápitanすなわち中隊長と呼ばれるようになった。1480年にはSanta Hermandadは一個騎兵中隊あたり1名の中隊長が1名の旗手、4名の中尉と共に100名の騎兵を指揮するなど、標準化と指揮階層の細分化が起こっていた*23

一方歩兵についても1488年にセビーリャ市に対してHermandadから5000名の動員が命じられ、その翌年にはCapitanía General に指揮される12個中隊1万名の動員が行われるなど、これまでの中世的な都市民兵の動員とは異なる動きが見られるようになった*24*25*26。 歩兵の動員システムについても重要な提案がなされた。1487年のマラガ攻囲では大規模・効率的な動員システムの必要性が明らかになり、Alonso de Quintanillaの案を元にした改革が進行しつつあった。Quintanillaは各住民の収入に応じた武装の度合いを決め、各州の行政長官がその査察に責任を持ち、Hermandad評議会を通して王に対して報告する新しい民兵システムを提案した。この案では各都市から10人に1人の割合で住民が招集を受けた場合には即座に応じることができ、集合地点までの旅費などは都市の負担とし、それ以降の費用は国庫が負担することになっていた。*27。しかしこの提案が実現されるにはさらに時間を要した。

Hermandadの改革と共に、指揮官人事についても改革が進められた。カスティーリャでは14世紀以降、王に代わり軍事指揮権を行使するcondestableという役職が存在し、最高位の貴族が就任することが通常であった*28。しかしこの役職の権限は弱められ、独立して軍の指揮を取ることは認められなくなり、軍事行動の際は王と合流して行動することが求められるか、副次的な戦線を任されるだけとなった。

続いて側近や出納官の前線への派遣、軍事遠征の補給や給与支払いを査察し、コントロールするための王権直轄の監督官職の創設などを通し軍事面への王権の強化を強めた*29。 これらの施策はHermandadにも及び、Hermandadに対する王権のコントロールをより強めた*30

しかしグラナダ攻略までの軍隊にはHermandad、Santa Hermandadのような王権のコントロール下にある部隊だけではなく、貴族も多く含まれており、近世的な軍隊というよりは中世的な軍隊の特徴を色濃く残していた*31。 1487年及び1489年の戦役では騎兵9300名のうち7000名が、歩兵8200名のうち5300名が、火縄銃兵740名のうち424名が貴族の指揮下だったのである*32

こうした状況はグラナダ攻略以降に大きく変化し始める。 1492年以降は王室配下だろうと貴族配下だろうと関わりなく部隊の標準化が進行し始めた*33

元々カスティーリャではカトリック両王の時代に先駆けたフアン2世時に1000名規模の近衛部隊が存在していたが、その後衰退し、1470年台には近衛兵は存在していなかった。しかし1493年に2500名の主に重装騎兵からなる近衛騎兵隊が設立されると幾度かの改編を経ながら監察官や会計係などの役職が組み込まれていき、1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げた*34。さらにはこの部隊の兵士は任命される際には装備を自弁しなければならなかったが、任命後は装備の費用を王の負担で賄うことが期待できた*35。この近衛兵をスペイン初の常備軍と見る向きも存在する*36

近衛騎兵は1512年にはMen-at-arms26個中隊と軽騎兵17個中隊、歩兵一個中隊からなる組織へ成長を遂げ*37、1495年にはフランスとの開戦を控えてQuintanillaの提案の一部が採択され、各都市は2人に1人の割合で人員を供出することが決定され、直ちに勅令となった。この人員はHermandadの人員とは重複しないよう定められ、中世から続く兵員ソースとしてのHermandadの役割は事実上終わりを迎えることとなる*38

こうした臨時的な動員兵ではない恒常的な歩兵部隊がいつ誕生したのかは明確ではないものの、1497年には使用する武器によって区別される三つの部隊が存在していた。使用する武器とはランス、ハンドゴン又はクロスボウ、剣及び盾であり、1495年の勅令によって定められた「収入に応じた武装の度合い」と一致している*39。このことからこれらの部隊はQuintanillaの案に始まる新民兵システムによって生まれたか、影響を受けていた可能性は高い。

この時期において重要と考えられるのがGonzalo de Ayoraだった。Ayoraはルドヴィーコスフォルツァの下で歩兵戦術について学んだと考えられ、スイス傭兵と古典期の記録に影響を受けたと思われる。これらの結果としてAyoraは歩兵の武器教練を行っただけではなく、古参兵に対し、下士官としての訓練を施し、1505年には王の護衛兵として訓練していた100人の歩兵に対し1人の少尉、旗手、2人の軍曹及び2人の分隊長を配置した*40

国境沿いの要塞システムについても王権による管理強化が進められた。元々カスティーリャでは南部国境要塞は国庫による負担と王の監督によって維持されていたが、カスティーリャ両王即位前にこのシステムは放棄されていた。カスティーリャ両王はグラナダ攻略前にこのシステムを復活させ、さらに攻略後にはこのシステムを旧グラナダ王国領地に拡大させた。海賊対策を主目的とする沿岸部の要塞プランは1488年に現れたが、これらの要塞には王室の役人による定期的な査察、守備兵に対する給与の支払い及び監督義務が付随していた。そしてこれらの守備兵は、地元の市民・農民から募集され、王室に任命された中隊長によって統率されていた*41

人事権の統制はイタリア戦争を通してさらに改革が進んだ。 イタリア遠征の初期の指揮官であるゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの例からこうした強化策の一端が窺い知れる。ゴンサロは有力な貴族の家系に生まれ、第一次イタリア戦争でGran-Capitanの称号を受けていた。さらに第二次イタリア戦争でナポリ副王の地位を得て以降、ゴンサロは軍事だけでなく政治権力をも手にし元々強力であった権限をさらに強化した。しかしそのゴンサロでさえ、麾下の中隊の配置変更についての許可を国王から得なければならなかった*42し、ゴンサロの後任であるAyoraは王の護衛隊長であった。

こうした統制は1505年の勅令によりさらに強化される。レコンキスタ中には、ある役職についている人物が戦死した場合、その血縁の者が役職を受け継ぐことが認められていたが、1505年の勅令では下位の役職の者が受け継ぐことが定められた*43

実際に1504年〜1505年の休戦期間にはイタリア所在の部隊のうち、空白となっていた中隊長職を王室の任命によって決定する方法について書簡の往復が行われている*44。またAyoraに見られるように近衛騎兵隊は指揮官職の人材ソースとなりつつあった*45。 1503年の勅令では中隊レベルの士官の所掌範囲が定められ*46、指揮統制範囲が明確化された。

他に重要な改革としては中隊を統制するより上位の階層─連隊及び連隊長職という役職の重要性が広範に認識された点が挙げられる。 1488年の動員時点で同様の発想は見られるが、特に前述の書簡の中では連隊長職が王室による任命される必要性が話題に挙げられていた。 ただしこの期間に議論されていた連隊長職にあたる役職が率いる兵員は500名程度であったと考えられている。 Diego de Salazarはゴンサロ・デ・コルトバが各500名の中隊12個からなる6000名の部隊、いわゆるコロネリアを編成する意図を持っていたとするが、コロネリアが存在したのか、本当にゴンサロの意図なのかについては議論がある。 一方でゴンサロ・デ・コルトバは500名の部隊を4個合同で指揮する構想を1512年には確実に持っており、2000名という規模は後年のテルシオになんらかの影響を与えている可能性が高い*47

ルシオの登場

レコンキスタ以降の軍隊における部隊の編成・人事権の王権への集中化は、必然的に国家管理下の恒常的武装組織、すなわち常備軍の誕生と強化を促すものであった。

こうした流れの中で1536年には公式にテルシオが登場する*48。この部隊はSanta Hermandadや近衛騎兵に見られる中隊長、騎手、出納官といった役職に加え、Ayoraの改革に見られる古参兵からなる下士官を持ち、ゴンサロ・デ・コルトバが構想した2000名に近い3000名の部隊で、イタリア半島の要塞に駐屯する王権直轄の防衛部隊だった。 その構成員はHermandadとは異なり中隊長によって募集された人員で、徴募時には出納官の名簿に名前が記載され、王室から給与の支払いを受け、問題を起こした場合は勅令に定められた通り中隊長から罰則を受け、別の中隊に移る場合には連隊長の許可を受けなければならなかった。

つまりテルシオの登場は、イベリア半島における諸改革がイタリア半島に持ち出された結果と見做すことができる。

一個のテルシオを構成するのは複数の中隊であり、一個の中隊はさらに複数の分隊から構成されていた。 分隊esquadraは最低25名の兵士から構成され、これを率いるのは伍長─cabo de eaquadraであった。 中隊の士官は中隊長、軍曹、副官、旗手で構成されており、これに2人の鼓手、笛吹、従軍教誨師、出納官などその他の職務が存在した。 テルシオの士官は各中隊長の他、連隊長─maestre de campo、上級曹長sargento mayorとそれぞれのアシスタントが存在した。 また、連隊長は第一中隊の中隊長を、上級曹長は第二中隊の中隊長を兼務していた。 さらに、中隊のレベルでは第一分隊の伍長は中隊長が務めていた。 つまり、テルシオの連隊長は、第一中隊の中隊長でもあり、同時に第一分隊の伍長でもあった*49

連隊長は中隊長や上級軍曹の中から選出され、中隊長は副官や軍曹の中から、副官や軍曹は旗手や軍曹助手から選出された。 経験豊かな兵士は第一分隊に集められ、連隊長の参謀としての役割を果たした。

このような構造を持つことで、王権による兵員の管理と統制体制が確立され、理論上は即時に利用可能な軍事力が誕生したのである。 さらにこの構造は、役割の細分化による専門性の向上だけでなく、キャリアパスが明確化されたことによって軍隊内の地位向上が社会的地位向上に結びつく契機ともなった。

ルシオは現代軍制の特徴である連隊制の直接の祖先であり、改組を繰り返しながら現代まで続いている部隊も存在する。 もちろんカトリック両王の時代の一連の軍制改革はテルシオのような組織を最終目的としていたわけではなく、むしろその都度の問題に対処しようとする中で事後対応的に行われたものであり、結果的に現代にまでつながる軍制が誕生したにすぎない。

一方で、王権の管理下にある強力な軍隊の登場は新たな問題を引き起こすことにもなった。 中世的軍隊を支配し、近世においても社会的に強力な階層であった貴族が依然として常備軍内部に留まる一方で、恒常化した軍隊の中で長期に渡り経験を積んだ兵士たちは軍隊における欠かすことのできない存在となっていた。

やがてこの両者間では士官昇任を巡る争いが起きるのである。

理論上、テルシオの連隊長に任命されるには王の認可が必要であった。 しかし、遠隔地の場合、王の代理人として軍隊を指揮する総督─Generalísimoによる推薦が実質的な認可基準となっており、王によるコントロールが弱められる結果を産んだ。 また、既存の部隊の中隊長を新たに任命する場合、総督が任命権限を有していた。 しかし連隊長中隊長いずれも推薦や任命のための基準が17世紀まで存在せず、属人的な基準に頼っていたために必然的に縁故主義が蔓延った*50

こうした縁故主義により、長い経験を持ち、その資質を見出された結果昇進した経験豊かな士官と、社会的地位や上級指揮官との縁故、財産を背景に地位を手に入れた士官という二種類の士官が誕生した*51

このような士官選定に関わる問題は16世紀中頃から注目を集め始め、同時に盛んになったスペイン軍内部の軍事著述家による執筆活動の中で、士官の適性について議論が行われていく*52。 この議論の中では「縁故や財力により不適切な地位にある士官」、つまり主に貴族出身で十分な軍歴を持たない士官が攻撃対象となり、実力主義的な風潮が高まった。 しかしこうした風潮は必ずしも支配的になるまでに至らなかった。 1632年のオリバーレスによるスペイン軍人事制度の改革は、こうした論争の中庸を取り、士官への昇任に必要な年数を定める一方で、貴族出身者とそれ以外のもので必要な年数が異なっていた。 貴族出身者はより短い年数で昇任することが可能であったのである。

この中庸案は抜本的な改革となりうる可能性を秘めていたが、しかし、この時期には国家としてのスペインはすでに危機的状況を迎えており、この改革も挫折したため、ついにこの問題は解決されることがなかったのである。

まとめ

本稿では中世期から常備軍の成立に至るまでのスペイン軍事史を紹介した。

中世スペインでは貴族や財産をもつ市民が騎士となり、それ以外の民兵と共に軍事力となった。 いわゆる「戦争のために組織された社会」である。

やがて騎士たちは行政権力と結びついて行き、徐々に強力になっていき、王権との衝突が繰り返されることとなる。

カトリック両王期には半ば場当たり的な軍制改革が繰り返された。 都市民兵改革や要塞改革はそれぞれ別個の目的によって行われており、統一的な意思決定は見られない。

しかしその結果として1530年代には即応部隊であるテルシオが整備され、スペインは現代に続く常備軍制度を手に入れることとなる。

設立された常備軍の各部隊の士官・スタッフの役割と責任範囲は明確化され、専門性が求められた。 さらに軍隊内のキャリアパスが明確化されることで軍隊での昇進が社会的な地位の上昇につながるという発想が生まれることになった。

一方で、この新たな社会とも呼べる組織の中では、中世以来軍隊を支配してきた貴族たちと、新たに生まれた専門的兵士との間でついに解決することがなかった争いが生まれることとなったのである。

この争いについてもっと知りたい人は『Road to Rocroi』を読もう。

以上

*1:D.W.ローマックス, "レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動", p136-138

*2:D.W.ローマックス, レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動, p136-138

*3:Elena Lourie, A Society Organized for War p55-57

*4:Lourie, p74-76

*5:Lourie, p60

*6:Lourie, p63-64

*7:Ana Belén Sánchez Prieto , LA FORMACION DE UN EJERCITO NOBILIARIO AL FINAL DE LA EDAD MEDIA, La organización militar en los siglos XV y XVI, p173-175

*8:James F. Powers, Townsmen and Soldiers: The Interaction of Urban and Military Organization in the Militias of Mediaeval Castile, Speculum Vol. 46, No. 4, p648-649

*9:Lourie, p57

*10:tatalayero

*11:escribanoまたはnotario

*12:Powers, p654

*13:Miguel-Ángel Ladero Quesada, FORMACION Y FUNCIONAMIENTO DE LAS HUESTES REALES EN CASTILLA DURANTEL SIGLO XV, La organización militar en los siglos XV y XVI, p167

*14:Manuel González Jiménez, *LAS MILICIAS CONCEJILES ANDALUZAS (SIGLOS XIII-XV)", ibid, p233-235; 登録されている人口は家長男子のみを算出していると考えられる

*15:Jiménez, , p232

*16:Jiménez,, p237

*17:Lourie, p71

*18:Powers, p642

*19:Lourie, p70-74

*20:Thomas Devaney, Virtue, Virility, and History in Fifteenth-Century Castile, Speculum, Vol. 88, No. 3, p721-737

*21:Stewart, p31

*22:Stewart, p180-181

*23:Stewart, p42, p202

*24:Stewart, p184-185

*25:René Quatrefages, "Organización militar en los siglos XVI y XVI", La organización militar en los siglos XV y XVI, p12

*26:Francisco Arias Marco, "ACLARACIONESN TORNO A IAS CORONELÍAS Y LOS TERCIOS", ibid, p217-218

*27:Stewart, p191-193

*28:Stewart, p34

*29:前述の通り、カスティーリャでは軍役奉仕の見返りに金銭が支払われていた。Stewart, p33, p46, p89-90

*30:Stewart, p90

*31:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/dT8Oi6v

*32:Quesada, p162

*33:Stewart, p201-204

*34:Stewart, p90,p189-191

*35:Stewart, p146

*36:『De Pavía a Rocroi: Los tercios españoles (Historia de España nº 2)』Julio Albi de la Cuesta著 https://a.co/cR02Dm4

*37:Stewart, p189-191

*38:Stewart, p191-193

*39:Stewart, p139 なおこれより以前にスイス傭兵による軍事教練が行われている

*40:Stewart, p42, p137-138, p194-195, p205

*41:Stewart, p159-161, p202

*42:Stewart, p38-39

*43:Stewart, p159

*44:Stewart, p208

*45:Stewart, p293

*46:Stewart, p60

*47:Stewart, p208

*48:なお、これ以前からテルシオという名称を持つ部隊は存在していた

*49:Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, p233

*50:Fernando González de León, The Road to Rocroi, p17-35

*51:必ずしも後者のみが縁故主義の結果生まれたわけではない。上級指揮官からの庇護によりり士官に昇進した前者の例もごく簡単に見出すことができる。また後者が常に軍事的に無能であったわけでもない。後者の最も有名な例はアンブロージオ・スピノラである。

*52:Fernando González de León, "Doctors of the Military Discipline": Technical Expertise and the Paradigm of the Spanish Soldier in the Early Modern Period, The Sixteenth Century Journal, Vol. 27, No. 1, p61-64

【試論】「従者」の比較軍事史

はじめに

近世ヨーロッパにおける軍隊と同時代の日本の軍隊を比較する際、武装から財政的基盤まで、多種多様な差異を見出すことができる。本来成立経緯も社会的背景も異なった組織同士を比較しているため当然ではあるが、一方で類似しているかのように見える構造もある。その一つが「兵士」に付き従い補佐する「非戦闘員」、すなわち「従者」の存在である。

ヨーロッパ、日本双方ともに近世以前から「従者」は一般的に見られる存在であり、同じように「戦士」に付き従う「家臣」としての性格を持ち合わせていた。しかし、両者ともに近世期においては「家臣」としてではなく、「兵士」に対する非封建的な「契約者」として現れる。この「契約者としての従者」には武具の整備、運搬などの役割や軍組織からの規制など共通する要素を見出すことができる。

こうした共通性について比較・考察を行うことで、例えばある軍隊が常備軍であるか否かといった、軍隊の性質に対する議論を行うにあたって何らかの知見を得ることを目標にしたのが本稿である。

本稿では常備軍的性質を持つ16世紀後期〜17世紀初頭のスペイン軍と、同時代の日本の軍隊の従者を比較し、軍隊組織が構成員である兵士に提供するモノと兵士が必要とするモノのギャップに着目しながら両国の軍隊の性質に対して考察を行う。

スペイン軍の「従者」

ここではスペイン軍の従者について取り上げるが、蹄鉄工や大工、小売の商人などは含まず、あくまで兵士と契約関係にあった従者のみを扱う。 近世期のスペイン軍において従者*1は公的には全ての兵士に帯同が認められていた存在ではなかった。

Sancho de Londoñoの著作では兵士300人あたり30人という数字が挙げられ *2、軍の規則では一個中隊あたりわずか3人しか認められていなかったものの、実際にはこれらの数字を大幅に超過する従者が存在していた*3。1577年のある騎兵中隊は兵士110名に対し従者が最低でも117名いた。ただしこれは平均よりもずっと従者の割合が高いと考えられている。同年低地地方を離れた退役兵5300名に付き従う従者は2000名ほどだった*4。 従者たちの役割は食料の調達・輸送、武具の清掃・維持・輸送などを担っていたが、その役割があまりにも重要であったため規定された人数を大幅に超過していたと考えられる。その他、中隊に配備された荷車の御者も務めていた。
従者たちは兵士と契約関係を結び、給与の支払いも兵士たちから受けていた*5。兵士が得た略奪品が運びきれない場合、従者に現金で売り渡すこともあったという*6
スペインに限らず当時のヨーロッパでは、従者は兵士に比べて年齢が若い傾向にあったが*7、中でもスペイン軍ではmochilerosと呼ばれる15歳以下の少年が含まれていた *8。 これら従者を保護し、また脱走を防止するために、スペイン軍では従者一人につき一人の監督者*9が付くこととされていた*10

行軍の際は従者たちは契約している兵士の隊列の後に追従し、野戦の際には一箇所に集められて待機していたらしい*11。ただし拠点防衛の際には前線の兵士に弾薬を補給する事もあったようだ。 野営地でも従者たちは兵士と宿営する場所が分けられていたらしい*12が、都市に宿泊する際は少なくとも一部の従者たちは兵士と共に都市を取り巻く城壁で休むことができたようだ*13

要約するとスペイン軍における従者は、兵士個人と契約し、兵士に対する様々な支援を提供し、見返りとして兵士から代金を受け取っていた。軍組織は従者の存在を公認しており、監督者を定めることで保護していた。戦闘が起きた際は従者は兵士とは別の場所に待機しており、平時には兵士とある程度距離を置いていたという事が言える。

日本の「従者」

16-17世紀の日本において、武家ではないが武家に何らかの形で奉仕を行う武家奉公人と呼ばれる階層が存在していた。武家奉公人足軽の証言をまとめたとする史料*14として「雑兵物語」があり、日本近世史の研究者根岸茂夫は「雑兵物語」に登場する人物たちの階層を以下4つに分類している*15

  • 前線における戦闘補助員としての足軽
  • 上級武士の供廻り及び身辺や乗馬の世話を担当する奉公人
  • 輸送用員としての矢箱・玉箱持ち及び小荷駄部隊の構成員
  • 騎馬の武士に付属する又者

このうち足軽は戦闘員であり、矢箱・玉箱持ち及び小荷駄部隊は個人との契約関係にはなく、戦場での補給の働きが主に期待されていることからどちらも本稿で対象とする従者とは見なせない。上級武士の奉公人は持鑓担、草履取などの役職が確認できるが、彼らは戦闘参加も期待されていた存在でもある*16ため、従者というより従騎士を思い起こさせる。一方又者は、一部に戦闘参加の記述がある者*17がいるが、「ご主人」から叱責されている事、鎧を身につけていない事、本人も「ためらい」を感じている事からあくまで例外的な行動であると思われ、また、又者に分類される人物によって来年の奉公先を選択する事が語られるなど、又者が「中下層の武家」と主従関係ではなく契約関係にある示唆がされている事から、本稿で取り扱う従者は、戦闘員である「又若党」を除く又者に限定する。「又若党」の左助は「ご主人」の「脇をかため」ることが想定されており、これは「若党」という役職が戦闘参加を期待されるものであったためと思われる*18。又者全てが非戦闘員ではなかったということを意味する興味深い記述である。

雑兵物語中において、又者の役割は武具の輸送・負傷者の搬送・馬の誘導*19などが挙げられている。おそらくこれらに加えて主人の食料や私物も又者によって輸送されていた可能性が高い。

戦国領主たちの間ではこうした従者=又者に対して様々な施策が取られていた。その多くは奉公人である又者が主人の許可なく契約を解除できないようにして従者の逃亡を抑止する性質のものや、または自領土の住人に対して従者としての契約相手を制限するなどの施策であり*20、これらは勢力間または武家間で従者を取り合う競争があったことや、より良い条件を求めて雇い主を選ぶ従者がいたことをうかがわせる。又者が広い範囲で必要とされていた事は確かであると考えられる。

上記の役割や施策はスペインにおいて見られるものと共通項が多い。一方で、戦闘の際に従者がどこに位置するかは大きく異なるように見える。例えば雑兵物語中で又草履取の加助は戦闘中の主人に弾薬の提供を申し出る*21など、主人のすぐ側にいるかのような描写がなされている。ただしこの描写には詳細が欠けており、何らかの防御構築物が存在したのかどうか不明である。

日本における従者について要約すると、中下層の武家と非封建的な契約関係を結び、様々な支援を提供する従者が存在していた。戦国領主たちはこの従者の存在を認識し、契約の制限や逃亡を抑止する規制策を取っていた。戦闘中の従者はしばしば前線で契約関係にある武家の側につき、例外的ではあるが戦闘に参加する事もあった。

考察

本稿では、スペイン・日本共に兵士と契約し、兵士に対し武具の輸送などの支援を行い、同時に兵士が所属する組織からなんらかの保護や規制を受けていた事を明らかにした。またスペインでは規定を大幅に上回る従者が存在し、日本では従者の契約関係を規制する法令が見られるなど軍隊が従者をめぐる競争関係にあったことを明らかにした。これらはどちらの国でも従者が兵士に対して提供する支援が軍隊にとって必要不可欠であったことを意味している。
問題はスペイン・日本ともに兵士個人と契約する従者とは別に、集団的な契約関係にある非戦闘員*22が存在しているのにも関わらず、なぜ従者という外部の存在に兵士と契約させていたか、という点にある。フランス近世史家のJohn A Lynnは従者について以下のように述べている。

従者は、国家が供給するモノと戦列の兵士が必要とし、または望むモノのギャップを埋めていた。((Lynn, p135))

つまり軍組織が兵士を支援する能力と兵士が期待する支援にギャップがある場合に「契約者としての従者」が現れるのである。Lynnは国家によって運営される軍隊について語っているが、すでに見たように日本における従者もスペインにおける従者と共通性が高く、Lynnの指摘は日本についても当てはまると考えられる。戦国領主や大名権力の軍隊に見られる兵士個人と契約する従者は、戦国領主や大名権力の軍隊が兵士に対し供給するモノと、兵士が必要とするモノにギャップが生じていたために存在したのである。

では、ギャップが生まれた要因は何か。 スペイン軍においては16世紀初頭から始まる軍隊の兵員増と組織改革に伴う常備軍化に対して武具の輸送や維持などの後方支援の能力が追いついていなかったことが挙げられる。
日本においては支援を必要とする兵士=中下層武家の増加が要因の一つとして考えられる。そもそも封建契約に基づく奉公人やそれを維持できる経済基盤の弱い武家の増加により、封建契約を持たない従者が生まれた、とする考えである。
この仮説が正しければ、日本においてもスペインと同じく軍隊において兵員の増加が起きていたと言える。 またスペインで起きていた常備軍化についても、日本では従者が容易に契約相手を変更できるほど中下層武家が恒常的に従者を必要としていたことから、同様に起きていた可能性があるが、この分野での研究の進展が必要である。

以上、本稿ではスペイン軍に見られた兵士個人と契約する従者と、日本における中下層武家と契約する又者の役割を比較し、両者の共通性からヨーロッパにおいて従者という存在が成立した要因の一部である兵員増という性質が日本にも存在した可能性を示した。 次項では、本稿では扱いきれなかった従者に関する未解明の課題とその意義を考えてみたい。

課題

主に本稿で取り上げられなかった課題は二つある。
一つは従者の戦場での位置がスペインと日本で大きく異なると考えられることである。スペインでは従者たちは戦場から隔離されていた一方で、雑兵物語の記述には、主人の側にいるような描写が多い。雑兵物語での記述では行われている戦闘が、会戦なのかskirmishなのか、野戦なのか攻城戦や防御構築物に拠った銭湯なのか、といった点が不明瞭なため、本稿では詳細に取り上げることができなかった。単純に戦闘様式の違いとみなすこともできるが、本来非戦闘員である従者を戦闘中に側に従えるのは合理的とは思えない。いずれにせよこの点の解明は戦闘様式の解明や戦闘文化の考察につながることが期待される。
二つ目はヨーロッパやアメリカでは広く見られる兵士の妻が従軍することが日本では見られない点である。ヨーロッパでは遅くとも14世紀には女性が軍隊に従軍しており、その大多数は戦闘よりも宿営地や行軍において活動し*23、 しばしば従者と同じような働きをしており、両者の役割は重複している部分も多い。日本でそうした存在が見られないのは、単に研究が進展していないという可能性もあるが、従軍期間の長さなどに起因する可能性もある。

*1:personas、bouches、mozosなど

*2:Sancho de Londoño, Discurso sobre la forma de reducir la disciplina a mejor y antiguo estado,p25

*3:Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, p150-151

*4:騎兵中隊はParker, p252、退役兵は同p151

*5:Londoño, p29

*6:Parker, Ibid

*7:John A Lynn, Women, Armies, and Warfare in Early Modern Europe, p34-35

*8:Pierre Picouet, The Army of Philip IV of Spain 1621-1665, p208

*9:los padres de mozos

*10:Londoño, p29

*11:Robert Barret, The theorike and practike of moderne vvarres, p101

*12:Barret, p104及びPicouet, p206

*13:Parker, p252

*14:証言がそのまま載せられているというよりは、 登場人物に著者の主張に沿った議論を行わせる対話編に近い性質の史料と思われる

*15:根岸茂夫, 近世武家社会の形成と構造, p20-23

*16:かもよしひさ, 現代語訳 雑兵物語, p75

*17:又草履取の加(嘉)助。かもよしひさ, p153

*18:藤木久志, 雑兵たちの戦場, p5

*19:かも, p153, p162, p196-197

*20:藤木, p120-123

*21:かも, p153-156

*22:スペインでは

*23:Barton C. Hacker, Women and Military Institutions in Early Modern Europe: A Reconnaissance, p643-644