三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

トーマス・ロックリーの著作について

はじめに

本稿ではトーマス・ロックリーの著作およびTwitter上で見られる批判について記述する。

ロックリーへの中傷が拡大した経緯については以下のブログが詳しい。

nou-yunyun.hatenablog.com

上記のブログでは、たとえ「中心となる言説が伝言ゲームから変容した単純なデマ」であっても、目にした人間がそれを内面化したまま「不信感」と「懸念」という印象を残すことについて触れられている。

したがって本稿はロックリーの著作だけではなく、その著作に対する批判を含めて検証する。

なお、弥助の身分に関する批判は歴史研究者の平山優が具体的な基準を示す解説を行なっている*1

K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
なんか、織田信長に仕えた黒人の弥助の話題になっているみたい。彼に関する史料はかなり乏しいが、信長に仕える「侍」身分であったことはまちがいなかろう。出身の身分がどうであれ、主人が「侍」分に取り立てれば、そうなれたのが中世(戦国)社会。なんでそんなことが言えるかといえば、①信長より「扶持」を与えられている、②屋敷を与えられている、③太刀を与えられている、と史料に登場するから。「扶持」を与えられ、信長に近侍しているということは「主従の契約」「扶持の約諾」という重要な用件を満たしている。また、太刀を許されているので、二刀指であり、下人などではない(下人には刀指が認められていない)ことも重要。ましてや、屋敷拝領ならば、疑問の余地はない。宣教師の奴隷を、信長が譲り受けたところまでは、奴隷だったのだろうが、上記の①~③により、彼の意思によって「侍」分になったのだろう。本能寺の変時に、明智方が「動物」「日本人に非ず」などとして殺害しなかったというのは、それは明智が弥助を「侍」と認定しなかった(差別意識があったのだろう)だけにすぎない。身分が低い者を、主人が「侍」に取り立てることは、当時としては当たり前であった。そもそも、秀吉って立派な事例があるじゃんね。
午前2:47 · 2024年7月20日
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また弥助関連史料が以下のブログにまとめられた。

sleepcratic-republic.hatenablog.com

特に上記に付け加えることもないため、本稿では主にアフリカ人奴隷の日本における存在に関するロックリーの主張と批判について記述する。

「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」及び「African Odysseys:AFRICA, INDIA AND BEYOND IN THE EARLY MODERN WORLD」

『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』はロックリーが執筆し、2017年に太田出版より販売された書籍であり、全7章と後書きから構成されている。

この本は物語形式で語られる箇所と史料やインタビューをもとに歴史上の弥助や現代における弥助の受容について語られる箇所に大きく分けられる。 物語形式となっているのは、弥助の日本上陸から本能寺の変までが語られる第一章前半部と、弥助の出身地から本能寺後の人生までが語られる第七章の二つの章である。 それ以外の章では、インタビューをもとに現代の弥助像とその需要が語られる第三章を除いて、資料と著者の仮説に基づき弥助と弥助の生きた同時代の環境について語られる。

つまり最初に物語として弥助の人生の一部を取り上げ、ついで資料を挙げながら物語の根拠となるものを示し、足りない部分は仮説で埋めつつ、最後の第七章で弥助の人生そのものを物語として再構成する、という形式になっている。 こうした「歴史物語」的なパートと史実を解説するパートが混淆する形式は、日本においては珍しいものではない*2

ロックリーはこうした本書のスタンスについて、後書きで以下のように述べている。

私がこの本を書くに至ったきっかけは偶然だったが、書けば書くほど、それに値する題材だと実感した。しかし、執筆はそう簡単にはいかなかった。専門外の内容であり、また史料の数がきわめて少ないうえに、矛盾した記述や不正確な記述にあふれていた。難しい判断を迫られることも、子供の頃にしか使ったことのない想像力を駆使せざるをえないこともあった──弥助はどんな容貌だったのか?  彼の姿を見たとき信長はどんな反応をしたのか?  また、なぜ信長はその反応を示したのか?  つまり、この本の基となった弥助に関する論文を読んでくれた専門家の言葉を借りれば、こういうことになる。「君は最大主義者的手法を取っているように思う。同じだけの確率で〝ないかもしれない〟場合にも、だいたいにおいて〝あるかもしれない〟方を採用している。とはいっても、史料が不充分な場合には、そうでもしないと先に進めないだろう」。その言葉は、本書のスタンスを端的に表している。

つまりロックリーは本書が信頼性に欠けることを意識し、楽観的な願望が入り混じっていることを率直に認めている。

またロックリーは後書きにおいて、弥助について興味を持ち、調査するうちに近世における世界規模の人の移動へと興味が移っていったことを述べている。*3

その興味が反映されたのが2020年に出版された『African Rulers and Generals in India』に収録されたエッセイ「African Odysseys」であると見られる。 このエッセイはインド、中国、日本へのアフリカ人の移動に焦点を当てており、弥助は登場するものの主題ではない。 「信長と弥助」と共通する記述が見られるだけでなく、後述するリチャード・コックスの日誌など「信長と弥助」の内容を一部補完する要素も備えている。 こちらのエッセイでは「信長と弥助」に見られるような仮説は大幅に後退しており、先行する文献の内容をまとめたものとなっている。

ロックリーの著作は両者とも参考文献の記述をもとにしており、仮説はそれらと区別して書かれている。 また「信長と弥助」において、仮説が頻繁に現れるのは弥助が来日する以前の経歴である。 これは弥助に関する史料のほとんどが来日後のものであり、来日前の経歴は不明であるため、仮説で補う必要性があったためだとと考えられる。

参考文献もほとんどが論文等の学術資料であり、信頼性に欠けることを意識しつつも記述の妥当性に一定程度気を配りながら記述されたと考える。

「黒人奴隷」は流行したのか

「信長と弥助」には「黒人奴隷が日本国内で流行した」という記述が見られる。 本稿ではこの記述について、初めにツイッター上で拡散された誤読に基づく批判を取り上げ、次いで「流行」が存在した可能性について、ロックリーが参照したと考えられる先行研究をもとにしながら述べる。

「誤読」の拡散

いつ
@naturalbarance
今トーマスロックリーの本読んでるんだけど、ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんてそんなひどい嘘ある…?
午後6:47 · 2024年7月15日
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同ツイートに添付された画像

添付された画像は「信長と弥助」の13ページ目に当たる箇所である。 「ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんて」とは以下の記述を指すと見られる。

地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。

しかしこの記述を持って「日本全体でアフリカ人奴隷を使う流行」があったとは言えない。 この文章の直前で九州に言及しており、「地元」が九州を指すものと読み取れるからだ。

この当時は貿易商が九州沿岸にある港から離れることは滅多になかった。したがって弥助は内陸部に赴くたびに、大騒ぎを引き起こした。

直後のページでも「弥助が九州を沸かせた」という表現があり*4、これらの文章で舞台として想定されているのが九州であることがわかる。 つまり「日本全体でアフリカ人奴隷を使う流行した」というのは明らかに過剰な表現である。

「いつ@naturalbarance」というアカウントは、前述のツイートに対して以下のように説明している。

いつ
@naturalbarance
なんか見た。ロックリー氏の著書の例の部分って、『弥助が内陸部に行く度に話題になって、そっからアフリカ人奴隷が流行った。弥助はこの流行の草分け的存在』ってことが書いてあるのね。それって九州→京都間、つまり西日本で流行ったってことだなって読み方を私はして、
午後2:43 · 2024年7月22日
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前述したように、ロックリーは該当の文章の前後で九州のみに言及している。 「内陸部」という表現もその直前の「九州沿岸部」という表現と対になっており、「九州の内陸部」を示していると考えるべきである。 従ってここで示される解釈は誤りであり、「ホントに書いてる…日本でアフリカ人奴隷が流行したなんて」という解釈が誤読によるものであったことがわかる。

しかし当該アカウントのその他の投稿を確認する限り、明らかに悪意のない誤読であるといえる。 「日本でアフリカ人奴隷が流行した」という表現はロックリーの元の文章と比べて明らかに過剰な表現といえるが、画像を添付することでロックリーの文意を読者が検証可能にしており、自身の投稿を利用したロックリーへの中傷を止めるよう呼びかけてもいる。

いつ
@naturalbarance
ロックリー氏への誹謗中傷を扇動しているかのように見える動画制作の仕方はとても嫌です。
私のポストを引用するのは構いませんが、くれぐれもよろしくお願いします。(欲を言えばお知らせ頂ければありがたいです)
午後8:23 · 2024年7月21日
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ロックリーの著作を実際に参照し、引用元を明らかにした上で根拠となる画像を示し、結論に至るまでのプロセスを開示し、中傷を止めるよう呼びかけている点で、非常に誠実といえる。

他にも「信長と弥助」の画像を添付しつつ、「日本でアフリカ人奴隷が流行した」という表現を用いたアカウントは複数確認できたが、上記のような手順を踏んだアカウントは他に確認できなかった。

一方で、「日本で黒人奴隷が流行した」という記述を批判する投稿は、これ以降繰り返し発信され、拡散される。

ケイ
@ksk0628ps
アサクリ、話が凄い勢いで展開してる

ロックリーの「日本が黒人奴隷を流行らせた」というのは、おそらく世界史上最悪の歴史改竄やね

日本では鎌倉時代に定められた御成敗式目(要するに法律)で人身売買は禁止、奴婢も一定期間で解放するよう定められた

それ以降、日本に奴隷は存在しない
午後9:13 · 2024年7月16日
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しゃいん
@shine_sann
日本で黒人奴隷が流行していて、それを見た教会は反対したとか本に書いちゃう海外の超ド級のバカと、日本に奴隷はいなかったとかいう超ド級の防御ラインを設定しちゃう日本の超ド級のバカの、バカ頂上決戦が行われている。
ここはX。通称、バカッター。
午後8:42 · 2024年7月18日
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上記の他にもバックグラウンドの異なる複数のアカウントが同様の主張を発信・拡散していることが確認できる。 これらは全て誤読に基づいており、ロックリーへの批判としては適当でない。 興味深い点として、「日本が黒人奴隷を流行らせた」「日本で流行っている黒人奴隷に教会が反対した」など、文章が微妙に改変されながら再発信されていることが確認できる。

前述したように、ロックリーの文意は「九州の沿岸部の名士の間に、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うことが流行した」であり、「日本が黒人奴隷を流行らせた」「日本で流行っている黒人奴隷に教会が反対した」という主張ではない。 反対にロックリーはポルトガル人が来日以前からアフリカ人奴隷を使役していたこと、キリスト教修道会が奴隷制度の正当化に加担していたこと*5について記述しており、上記の改変によって加えられた文脈はロックリーの主張ではない。

従ってこれらのアカウントはロックリーの著作を参照しないまま批判をおこなっている可能性が高いと考える。

ロックリーの主張の検証

該当の記述は第一章前半に登場する。 この箇所を含む第一章前半部分は歴史物語という形式をとっているため、すべての記述をロックリーの主張と受け取るのではなく、脚色があることを前提に考えるべきである。 一方で、この歴史物語に登場するその他の脚色やストーリーなどの根拠となる史料や仮説は後続の章において語られているため、この「黒人奴隷が流行」していたという表現にも何かしらの根拠が存在すると見られる。 先行研究においても、奴隷であったか否かについては触れていないものの、カフル人を配下にする「流行」に触れているものが存在している*6

実際に第三章において以下の記述が見られる。

一六一三(慶長十八)年から一六二三(元和九)年まで在日イギリス商館長を務めたリチャード・コックスも、その手記の中で、ヨーロッパ人貿易商だけでなく、有馬氏、松浦氏、島津氏に仕えたアフリカ系の人々(カフロ)にも触れている[9]。コックスの在任時には日本はおおむね平和だったこともあり、船乗り、使者、召使、奴隷として仕えていたと書かれているが、アントニーという名の松浦家の元奴隷をあるイギリス人が行政職で雇用したという記述もある*7

「流行」については触れていないものの、ロックリーがコックスの手記を元に九州大名に奴隷を含むアフリカ系の配下が存在していたと判断していることがわかる。

またこうした外国人奴隷の実態について、ロックリーは以下のように述べている。

当時の奴隷制度の形態は、現在、一般的に考えられている形態とは異なり、契約労働者に近いものだった。日本在住の黒人、中国人、朝鮮人奴隷たちは職業を持ち、所有者の家に養子として迎えられたり、家族の誰かと結婚したりすることもあった*8

ここでロックリーは外国人奴隷が奉公人や下人として日本社会に組み込まれていったことを想定していると見られる。 参考文献として挙げられているThomas Nelson, 『Slavery in Medieval Japan』では奉公人は債務奴隷の一種と見做されている。*9

奴隷とは動産又は財産であると見做され、権利を制限された人間を指すが、その実態は時代、地域に応じて多様な形態を取り、権利の制限の度合いも様々である。 例えばスペインやポルトガルの奴隷は、法的に定義される存在であり、国王による保護を受けることができた。 奴隷は法律上裁判権を有しており、自身の所有者を提訴し、「正当な奴隷」ではないことが判明すれば自由民となることができた*10

一方で一部の奴隷、特に債務奴隷は、しばしば動産ではないservitudeとの区分が曖昧であり、例えば同時代のフィリピン諸島のalipinsおよびoripusは債務奴隷debt-slaveと見做されてきたが、近年になって債務に基づくservitudeである、という見方が優勢になった*11

従って日本における奉公人が奴隷slaveとして見做されうるかどうか、といった問題が当然想起されるが、ロックリーではなくNelsonの問題なのでスルーする。

日本におけるアフリカ人奴隷の価値について、ロックリーは2020年のエッセイの中で黒人奴隷の価格について述べている。

アフリカ人奴隷の価格として請求される金額は法外なものになりえた。日本在住のあるスペイン人、ミゲル・デ・サリナスは(アントニーと呼ばれる黒人奴隷を購入するために)4000タイスを払ってでも手に入れたい、と語ったと引用されている。この価格は誇張されたものだが、コックスは1人の黒人奴隷に50レアル支払われた例に言及しており、これはモザンビークにおける黒人奴隷一人当たり5~7ローマンスクードという価格と比較できる。*12

ここでは黒人奴隷が日本では高価な存在であったことが述べられている。

ロックリーが根拠として挙げるコックスの日記を確認すると、1618年1月1日付の証文では「平戸の王」への貸付金が3000タイス、火薬半樽の価格が10タイスである。また1620年1月31日には自身の所有する船舶の食糧代として2000タイスを支払っている。 1615年2月22日付の記載では「Mats」という名前の少年が10タイスで売買されており、4000タイスという額がかなり高額であることがわかる。

一方「黒人奴隷に50レアル支払われた例」とは1621年1月28日付の記載であり、ここでいう50レアルとは原文では「50 R. of 8」、つまり50 Real de ochoであり、ペソに換算すると50ペソに当たる。*13 しかしここではcaffroではなくnegroという単語が使われており、アフリカ人ではない可能性が想起されるため、以下金額と合わせて検証する。

50 Real de ocho、または50ペソという金額について、1617年6月28日付の日記では、オランダ船レッド・ライオン号の船長及びその他の船員の衣服を作るための布の価値が総額「50 R. of 8」であると記載されている。 1619年12月23日付の日記には金の鎖に対し「1 C. x R. of 8」、110 Real de ochoを支払ったとしている。

1タイス=10レアル=1.2 Real de ochoという換算率*14で計算すると、50 Real de ochoは41タイスであり、「Mats」と比較して4倍以上高い。

ルシオ・デ・ソウザは長崎で取引されていた年少の年季奉公人の記録から、年季奉公1年あたり1ペソあたりが相場であったと仮定している*15。 またこうした記録では日本人奴隷は10〜12ペソで取引されていたことがわかる。

従って50 Real de ocho、または50ペソという金額は、4000タイスという金額に比べて大幅に低いものの、長崎における奴隷の値段としては高価である可能性が高い。

またnegroという単語についても、日記を読む限りcaffroとnegroは区別せず使われているようである。 平戸領主松浦氏に支えていた解放奴隷AntonyまたはAnthonyはCaffroともnegroとも呼ばれている*16

従ってわずか2例ではあるものの*17、どちらもアフリカ人奴隷は日本において高価であった、というロックリーの見解を肯定するものと見做せる。

このような値段高騰の理由をロックリーは述べていないものの、移動距離の長さがその要因として考えられる。 ソウザはポルトガルへ渡った日本人や中国人の奴隷の価格が数百倍に上昇していたことを指摘し、要因として転売が繰り返されたことを挙げる。 後述する太平洋奴隷貿易においても、南米へ運搬されるアジア人奴隷の価格が高騰していたことがわかっている。

アフリカから日本へ運搬される黒人奴隷もモザンビーク、ゴア、マラッカ、マカオなど複数の奴隷市場で転売が繰り返されたことが想定されるため、同様に価格の高騰が起こり得る。

またコックスの日記上で確認できる日本人に仕える外国人の存在を確認したところ、日本人と主従関係または契約関係にある外国人は「Caffro」*18の他「Corean」つまり朝鮮人しかいないように思われる*19

従って日本において高価な存在であるカフル人を、おそらくは他の外国人より優先して雇用または購入の対象としていた大名や奉行が複数存在していた、という可能性がある。 例えばコックスらは朝鮮人通訳を雇用している一方で、イギリス商館が置かれた平戸を支配する松浦氏は、後述するようにコックスとのやり取りにおいてアフリカ人奴隷を使用している*20

通訳者のような専門的職務を果たす人材が必要なのであれば、雇用又は購入する外国人をカフル人に限定する必要性はないと考えられるため、カフル人の高価さや希少性が重視され、権威を示すディスプレイとして雇用された、という仮説は成り立ちうると思われる。

ロックリーはこうした仮説を物語の1パートとして採用したのではないかと考えられる。

「黒人奴隷」はどのように日本に到達したのか

上記の「流行」に関して、輸入経路から批判する投稿が見られた。 この項ではアジアの奴隷貿易に関する先行研究から、批判に含まれる仮定が成り立たないことを示す。 次いでロックリーの想定する奴隷の輸入経路について述べる。

「マニラ経由による黒人奴隷の輸入」という誤謬

やすゑ
@mammal11111
より正確に言えるのは、日本で黒人奴隷が流行ったらマニラ経由でスペイン人が嬉々として連れてくるはずなんですよね
でも黒人奴隷の商品としてのまとまった輸出は1570年代~1620年代の間には見られない。当時のマニラを専門に研究して、50年分の記録全部見たからこれは確実。
午後8:51 · 2024年7月18日
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とど丸@ウマ息子アグネスタキオン
@todomaru2
弥助絡みの黒人奴隷デマ
悪魔の証明要求の次の言い訳として記録は全部レイシストの日本人が削除したとか嘘と罪(誹謗中傷)を重ねてるらしいが
マニラ等中継地点の記録に日本人奴隷輸入の記録があるのに、黒人奴隷輸出の記録がないのはなんでだろうねぇ(棒
他国の記録まで消せますってか嘘吐きめ
午後0:05 · 2024年7月20日
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これらのツイートには二つの問題がある。 まず「マニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という仮定はマニラにおける奴隷貿易に関する先行研究から見ると明らかに成り立たないこと、次にロックリーの著作を参照しないままロックリーの著作を批判していると見られることである。

スペインによって黒人奴隷の対日輸出が行われなかった理由は明らかである。

まずそもそもトルデリシャス条約によりスペインはアフリカに進出することができず、同時に希望峰・インドを経由しアジアへ到達するルートが阻まれていた。 そのためスペインのフィリピン到達は南米と太平洋を経由して行われ、この航路は後にスペインが他国の領土を経由せずマニラへ到達できる唯一のルートとなる。 このルートを通してマニラ─中南米間の貿易が行われたが、イベリア半島及び中南米の産業を保護するため、隻数や運搬重量、物資の価格に制限が課せられるようになる。 こうした制限のうち、重量や価格はほとんど守られなかったが、隻数は守られ続けた*21

従ってスペイン人が黒人奴隷を「嬉々として連れてくる」ためにはアフリカ沿岸のポルトガル商人からアフリカ人奴隷を購入し、ついで中南米を経由し、アカプルコに達したところで年2隻に制限されたマニラ・ガレオンが来るのを待ち、その後に太平洋を横断する必要がある。

また、中南米では1574年に全「インディオ」の奴隷化が禁止されて以降、「インディオ」に当てはまらない奴隷、黒人奴隷やアジア人奴隷の需要が高まっていた。 中南米における奴隷の価格はアジアにおけるそれを遥かに上回り、メキシコシティでは奴隷1人の価格が400ペソに達した*22

この高騰は、アジアの奴隷をマニラ・ガレオン経由で輸出するビジネスの創出につながり、大量のアジア人奴隷およびアフリカ人奴隷が太平洋を超えて輸送されることとなる。

マニラ自体も単なる仲介地点ではなく、黒人奴隷の消費地でもあった。 1574年の「インディオ」奴隷化禁止の流れはフィリピンにも到達し、1583年にはイスラム教徒を除くフィリピンの「インディオ」は奴隷化が禁止されることとなる*23。 一方で、スペイン領フィリピンの維持には奴隷を欠かすことができず、極端な例では1621年のイントラムロスは人口のうち、三分の一が非自由民であった*24

マニラにおける奴隷の中南米向け輸出及び消費という需要に応えたのが、アジア奴隷貿易のハブとなっていたマカオであった。 1581年のトマール条約によりイベリア半島外でのスペイン領土とポルトガル領土の交易は禁止されていたが、マニラ─マカオ・モルッカ間の交易は黙認され、その結果マニラはマカオにとって有力な奴隷の輸出先となった*25

つまり中南米の奴隷価格は「インディオ」を奴隷とすることを禁ずる反奴隷制政策によって高騰しており、マニラのスペイン人は中南米を経由して黒人奴隷を連れてくるのではなく、より近いマカオから購入していた。 更にそうして購入された奴隷は、アフリカ人、アジア人共に、奴隷価格が高騰していた中南米へと再輸出されるか、現地で消費されるという構造が存在した。

「日本で黒人奴隷が流行したらマニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という主張は、上記のような太平洋両岸の奴隷供給力の差によって生まれた太平洋奴隷貿易の構造から見て成り立たないと思われる。

太平洋奴隷貿易に関しては本稿で利用したTatiana Seijasによる著名な先行研究が存在しており、「マニラを専門に研究」した人物がこうした貿易の構造について知見がないのは奇妙に思える。 ただそもそもマニラ史研究自体非常に範囲が広いため、対日貿易にのみ焦点を当てて研究をおこなっていたとするなら理解できる。

なお、マカオの場合は太平洋奴隷貿易の起点であったマニラとはやや異なる事情から対日奴隷輸出が難しい状況にあったと見られる。

マニラを介して中南米と接続された奴隷貿易システムにおいて、日本は日本人奴隷のみならず中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給地点の一つに当たる。 ポルトガルマカオはこうした日本の奴隷輸出をほぼ独占していたが、マカオ対日貿易を俯瞰するとロックリーが述べる通り*26、中国との仲介貿易という側面が強い。 つまりマカオの交易船は中国産の品物を日本へと輸送し、代金として銀を受け取り、そのついでに空いたスペースに奴隷を積む、という交易をおこなっていた*27マカオの主な輸出品目であった中国産の絹糸の利益は高く、撚糸の場合60キログラムあたりの利益は45タエル以上、上質なものでは260タエルに達し、運搬される量は一度の航海で400〜500ピコ、すなわち22~30トンに達した*28。 更にマカオ総主教メルヒオール・カルネイロに主導された改革により、armação方式が導入された後、私貿易船は厳しい取り締まりを受け、マカオ─長崎貿易は実質的にカピタン・モール船による独占が行われることとなる*29

カピタン・モール船に集約された対日貿易では、奴隷のようにスペースを圧迫する積荷を大量に輸送することは困難だったと考えれる。

マニラでは1604年に朱印船貿易が開始されるまで、寄港する日本船によって貿易が行われていたが、これらの私貿易船によってマニラから日本へ運搬された物資の記録はごく断片的なものが報告書などの形で残っている*30。 それによると、マニラにおける対日貿易でもマカオと同様に、中国産の絹は鹿皮などのフィリピン諸島で生産された物資とともに対日輸出において重要な位置を占めていた*31

つまり、マカオは船内スペースと競合商品の存在から、マニラではより魅力的な市場である中南米とやはり競合商品の存在から、またそもそも日本が奴隷の供給地であるという需給の点から、奴隷の対日輸出に障壁が存在していたと言える。

ロックリーの主張

ではロックリーは奴隷の輸入経路をどのように想定しているのか。 実はロックリーは黒人奴隷が商品として輸入されたとは考えておらず、来日した商人などの従者や家内奴隷が売却されるケースを想定している。

ポルトガル人などの外国人は、本国から弥助のような奴隷や召使を連れて来日し、なかには日本人に売り渡される奴隷もいた。

ロックリーは実例を挙げていないものの、例えば1611年に来日したスペイン使節ビスカイノは船の修繕費を捻出するために黒人奴隷を売却する計画を立てており、ロックリーの想定に当てはまると思われる*32。 また弥助自身も、奴隷身分であったとすればこのケースに当てはまる。

ロックリーは1630年代までに日本に居住したアフリカ人を数百人程度と見做しており、ここには自由人や日本人に売却されなかった黒人奴隷を含む*33。 日本人に売却されたアフリカ人奴隷はこれ以下の数字になるため、ロックリーは日本人に所有されるアフリカ人奴隷を最大でも数百人以下と見做していたことがわかる。 これらのことからロックリーは日本人に所有されていた黒人奴隷は少数であり、商業的に大規模な奴隷の輸入は行われていなかったと見ている。

従って「マニラが黒人奴隷の対日輸出地点となる」という仮定は、それ自体が成り立たないばかりでなく、ロックリーに対する批判としても成立していない。

近世日本におけるアフリカ人奴隷の存在に関して、ロックリーの見解をまとめると以下のようになると思われる。

黒人奴隷は商品としてではなく、来日する宣教師や商人の従者として連れてこられ、そのうち少数が売却などの手段を通して日本人に所有された。 買い手となったのは主に九州沿岸部の複数の有力者であり、彼らは主に権威のディスプレイとして黒人奴隷を所有した。

またロックリーはこうした奴隷身分のアフリカ人以外に、自由身分のアフリカ人が居住していた点についても触れており*34、これらの記述に関して問題があるようには見受けられない。

総評

『信長と弥助』について

『信長と弥助』はグローバルヒストリーの観点から弥助という個人の人生を復元することを試みている。 弥助は来日以前の記録がほとんど残っていないため、著者は想像によってそれらの箇所を埋めているが、来日以後は概ね関連する先行研究や史料に基づいて記述されている。 また、近世におけるグローバルな人の移動という観点から弥助以外の来日アフリカ人についても記述されているが、こちらも大きな問題は見受けられない。

ただしロックリーの見解について、いくつかの疑問点は残る。 例えば弥助の位置付けについて、ロックリーは信長が弥助を召し抱えたのは「新しい知識の習得意欲や外国人を物珍しがる気質によるもの」と推測をしている*35

弥助に対する好奇心が弥助を召し抱える理由になったとするものだが、これには疑問が残る。

本能寺の変の際、信長が安土から引き連れてきたのは「御小姓衆二、三十人」だったとされる*36。 一方、信長公記では中間等を含めて50名以上の討死があったとしており、実際にはそれ以上の人数だった可能性が高い。 しかしごく少数であったことは間違いないと言える。

つまり弥助は安土からの上洛に付き従う少数の手勢に含まれていたと考えられ、これは信長と弥助が行動を共にしていた可能性を示唆する。 その一方で、ロックリーが主張する通り、弥助はこの時点では「小姓に過ぎない」存在であり、後年に召し抱えられた外国人とは異なり、重要な存在ではなかった*37

つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するなど、重要人物であるかのような振る舞いを見せるという矛盾した要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位は、信長が弥助に何らかの政治的な意義を見出していたために起きたのではないか。 そしてその背景には、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。

信長は宣教師との会見を通して旧来の「唐・天竺・南蛮」からなる国際情勢認識を更新させ、その過程で地球儀を使った地理の説明を受けている。 つまり信長は弥助の出身地について、正確な地理的理解を持つことができた。 こうした国際認識の変化の結果、信長はいわゆる「日本型華夷秩序意識」を持つに至り、大陸領土の征服を志向するようになったとされる。 こうした意識は国内では三職推任問題となって現れ、堀新は国内における信長の地位は「もはや律令官職体系上では表現することができなかった」とし、信長に対して「日本国王」という呼称を提案している*38

信長が弥助を召し抱えた動機には上記の要因、つまり信長の国際認識の更新と海外進出への意思、それらに伴う新たな地位の訴求という文脈があると考える。 つまり信長は自身の「日本国王」としての地位と権威を強調する意図で、新たに認識された夷狄のアフリカ人である弥助を召し抱え、帯同していたのではないか。

しかし本書最大の問題点は、ロックリーの主張そのものではなく、日本におけるアフリカ人の移入というテーマに関する学術的な先行研究がほとんど存在しない、という点であるように思われる。

例えば弥助以外にもコックスの日記に現れるAntonio/Anthony/Antonyという奴隷・解放奴隷は、松浦家とイギリス商館の関係において、伝言や書簡の取次などを行っている様子が確認でき*39、解放後に4000タイスという金額で、恐らくは年季奉公の交渉が行われていることから、明らかに重要な存在と見なされており、この人物についての研究が見当たらないのは割と驚きである。

学術的な研究が行われないまま執筆された一般書という立場が「信長と弥助」の評価を難しいものにしている。

ただし、今後そういった学術的研究が行われたとしても、(弥助の来日以前の経歴はともかく)日本におけるアフリカ人の存在について、ロックリーの主張の大部分は認められるのではないかと思われる。

SNS上で見られるロックリー批判について

一方で、本書に対するSNS上の批判はほとんどが誤読に基づくか、あるいは存在しない記述を問題にしているように見受けられる。 おそらく批判者のほとんどはロックリーの著作を実際に読まず、伝聞やネット上のミームに基づいて批判を行い、拡散者も同様にロックリーの著作を読んでいない。

実はこうした傾向はロックリーに対する批判が始まった当初から見られる。

三等船客
@1LdDv0sZ4GfNCp4
アサシンクリード はトマスロックリーの書籍を元にしてるとデマぶっこいてたアカウント、思いっきりツリーごとサイレント削除してんじゃなねーか。ファミ通のサイレント削除はタチが悪いと批判してたのにどうして。

午後1:03 · 2024年5月21日

7.7万 件の表示

このツイートに添付されている画像では、「 人間ジェネリック@DividedSelf_94 」というアカウントのツイートが1200万回近く表示されていることが確認できる。 元の投稿は削除されているものの、ツイートログサービス「ツイログ」にて関連する投稿を確認することができた。

twilog.togetter.com

人間ジェネリック@DividedSelf_94

炎上している「アサシンクリード・シャドウズ」、調べてみると日本人が思ってる以上にヤバイことになってることがわかった。

ほぼ資料が存在していない「弥助」を研究したロックリー・トーマスという在日の研究者が(ほぼ自分の想像で余白を埋めた)弥助の歴史本を刊行する→

posted at 01:15:32

人間ジェネリック@DividedSelf_94

アメリカで大ヒットし、そのロックリー・トーマスの本が資料扱いされて様々なメディアに翻案される→

→外国人の書いた本を資料にしてトンデモ日本ゲーが歴史モノとして作られている(イマココ)

一人の外人が書いた小説が日本の「史実」に成り代わろうとしてるの、ヤバイよ。危機感持ったほうがいい

posted at 01:15:32

人間ジェネリック@DividedSelf_94

なにがヤバイって、「歴史考証」で圧倒的な信頼を得ていたUbiソフトまでがこの想像と妄想だらけの本を素地に「日本」をゲームにしてしまってるということ。
弥助については資料が少なすぎて「よく分からん」としかいえないものなのに、それを想像で埋める彼の本が史実扱いになっている。

posted at 01:19:57

人間ジェネリック@DividedSelf_94

司馬遼太郎の本が史実扱いされてるようなものだよね。
それを日本人がコントロールしてメディア化するのならまだいいけれど、外国人が語る日本史をもとに外国人が日本を描き、無数のそれらが存在しない「過去の日本」の捏造を産み始めている。すでに”弥助像”は既存の資料からかなり歪んでいる。

posted at 01:23:26

人間ジェネリック@DividedSelf_94

x.com/OliverJia1014/…

ロックリー・トーマスの本には「弥助には子供がいた!(かも)」なんてことまで書いてあるそうなので、ほぼトンデモ本といっていいと思う。 彼の本にはこういった憶測がまるで史実のように書かれていると批判も多い。それがいまの「弥助」像のベースになってしまっている。

posted at 01:36:24

人間ジェネリック@DividedSelf_94

そもそも弥助の全資料を漁っても数十行か数ページというくらい資料の存在しない人なので、それが400pの本になるということがおかしい。つまり、ほぼロックリー氏の創作・想像なわけだが、メディアによる引用・孫引きの連続によって外国ではロックリー氏の歴史観が「史実」となってしまってる。

posted at 10:02:42

人間ジェネリック@DividedSelf_94

意図してない伝わり方をしているので付け足しますが、「国外での弥助の受容がヤバイ」という主題で「アサクリ」の話をしているわけではないです。
トーマス氏も歴史家として一説を投じただけで、彼の本が悪いというつもりもないです。ただ彼の「説」と「資料から読み取れる史実」の区別が国外では

posted at 11:33:13

人間ジェネリック@DividedSelf_94

(おそらく又引されるうちに)曖昧になっていて、クオリティペーパーですら混同して拡散しています。さらには氏のドラマチックな「説」をもとに>(自覚的にせよ無自覚にせよ)さまざまなフィクションの弥助が描かれた結果、創作・メディアの両面から偽史の弥助像が作られてしまっています。

posted at 11:33:55

人間ジェネリック@DividedSelf_94

外国の人がフィクションの弥助から史実の弥助に興味を持っても、そこで出会うのは確証の怪しい「トーマス氏の弥助」像・史なのです。これからさらにどんな尾ひれがつくかも分からず、日本人が日本史のコントロールが出来なくなっていることに末恐ろしさを覚えます。

posted at 11:34:06

ロックリーの「想像と妄想だらけ」の「歴史本」が「トンデモ本」であり、それが日本国外で「史実」となってしまっている状況が存在すると主張し、「日本人が日本史のコントロールが出来なくなっている」ことに恐ろしさを覚え、「危機感」を持つよう促している内容であったことがわかる。

ただしこれらのツイートではロックリーの著作のうちどのタイトルについての批判なのか明言されず、具体的なソースが提示されないまま「危機感持ったほうがいい」などの感情的な文言が使用されている。

ロックリーの「憶測」の根拠として示される弥助に子供がいた可能性は「書いてあるそう」と伝聞系で表現され、「トンデモ本」と結論している。 また、資料に「数十行か数ページ」しか記述のない人物についての本が400ページの本になることを「おかしい」と表現している。 仮説の提示を否定し、原資料の文字数から乖離した研究を認めない、という姿勢が示されているのは興味深い。 加えて批判の根拠を伝聞系で表現していることから、批判対象であるロックリーの著作を読んでいない可能性が高い。

なお、ロックリーの著作のうち400ページを超え、かつ弥助を主題とする著作は二冊存在するが、どちらも歴史書ではなく歴史物語のカテゴリに属するものと思われる。

ロックリーの主張によって「偽史」が作られたと断定し、「日本人が日本史のコントロールが出来なくなっている」との主張が見られるが、これはロックリーへの批判に度々見られるナショナリズムイデオロギーがかなり早い段階で確認できることを示す。

上記の事柄から、このアカウントによるロックリー批判は、ロックリーの著作を実際には読まないまま、伝聞を根拠にナショナリズムに訴える文章を加え、危機感を煽る文脈に構成し直して発信したものと思われる。

本稿冒頭に取り上げたアカウント「いつ@naturalbarance」のように、批判対象を読んだ上で、誤読や前提知識の欠如を意識できないまま批判してしまうのは避けられない行為であり、むやみに批判されるべきではないと考える。

しかしTwitter上で見られるロックリー批判者の場合、明らかに伝聞とわかるツイートの拡散、誤読とは全く異なるレベルでロックリーの主張とは異なる主張への批判を行うなど、そもそも批判対象である本を読んでいないとしか思えない行為が目につき、しばしば中傷をおこなっている例すら見られる。

つまり問題はロックリーやロックリーの著作にあるのではなく、ロックリーの著作を一切参照しないまま批判を行うインターネット上のロックリー批判者や、その拡散者の情報リテラシーの低さにある。

もしこれを読んでる人でそういったツイートを拡散した人がいるなら、実際に活用するかは別として、とりあえず下に紹介する偽情報対策のフレームワークとか覚えておいてほしい。

firstdraftnews.org

ロックリーの本読まずに事実に基づかない批判を発信した人がいるなら、まずSNSやめてロックリーの本読むところから始めるべきでは。

以上。

加筆修正箇所

8月30日にこのブログ記事に追記と既存の文章の修正を行った。 加筆修正をおこなった箇所は以下の通り

また弥助関連史料が以下のブログにまとめられた。


[https://sleepcratic-republic.hatenablog.com/entry/2024/07/30/225016:embed:cite]
つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するという、矛盾する要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位について、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。
つまり弥助は、重要でない人物であるにも関わらず、少なくとも上洛時には信長に付き従って共に行動するなど、重要人物であるかのような振る舞いを見せるという矛盾した要素を孕む存在に見受けられる。

こうした弥助の奇妙な地位は、信長が弥助に何らかの政治的な意義を見出していたために起きたのではないか。
そしてその背景には、信長の国際認識という文脈があるのではないかと考える。

参考文献

  • トーマス・ロックリー, 信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍(2017)
  • Thomas Lockley, African Odysseys: AFRICA, INDIA AND BEYOND IN THE EARLY MODERN WORLD(2020)
  • ルシオ・デ・ソウザ, 大航海時代の日本人奴隷 増補版(2021)
  • Thomas Nelson, "Slavery in Medieval Japan"
  • Tatiana Seijas, Asian Slaves in Colonial Mexico: From Chinos to Indians
  • Stephanie Joy Mawson, Incomplete Conquests
  • 岡美穂子, 商人と宣教師 南蛮貿易の世界
  • BENITO LEGARDA, JR, "Two and a Half Centuries of the Galleon Trade"
  • Birgit Tremml-Werner, Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644
  • Maria de Deus Beites Manso, Lúcio de Sousa, OS PORTUGUESES E O COMÉRCIO DE ESCRAVOS NAS FILIPINAS (1580-1600)
  • Lúcio de Sousa,The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan
  • Richard Cocks, Diary of Richard Cocks, Volume 1&2
  • 桑田忠親校注, 信長公記
  • 清水有子, "近世日本の形成と南蛮・キリシタン", 日本史研究 第七二六号
  • 堀新編, 信長公記を読む

*1:なお平山の解説に現れる「扶持」及び「近侍」といった要素はロックリーの著作にも登場する

*2:最近のものだと長尾剛著『女武者の日本史 卑弥呼巴御前から会津婦女隊まで (朝日新書)』が挙げられる

*3:ロックリー(2017), p234-p235

*4:ロックリー(2017), p14

*5:ロックリー(2017), p111, p146-148

*6:ルシオ・デ・ソウザ, 大航海時代の日本人奴隷 増補版(2021), p236. 原著は2014年に出版された

*7:ロックリー(2017), p104

*8:ロックリー(2017), p110-p111

*9:Thomas Nelson, "Slavery in Medieval Japan", p475-477. なお後述のようにdebt servitudeとの混同が考えられる。

*10:Tatiana Seijas, Asian Slaves in Colonial Mexico: From Chinos to Indians, p2, p54, p67

*11:Stephanie Joy Mawson, Incomplete Conquests, p38-39. もちろんこれはslaveよりservitudeの方が待遇がよりマシである、という話ではない。

*12:Lockly(2020),p154. 訳文はこのブログの筆者によるもの。

*13:ロックリーも使用されている通貨単位がReal de ochoであることを把握しており、注でpiece of eightであると明記している。

*14:岡美穂子, 商人と宣教師 南蛮貿易の世界, p339を元に算出

*15:Sousa(2018), p287-288

*16:この解放奴隷はミゲル・デ・サリナスが購入を希望した人物と同一人物である。1615年4月20日、1617年11月27日、1618年7月28日の項目を参照。

*17:元々奴隷の価格は史料に残りにくいことで知られている。

*18:Caffreの男性形。カフル人の男性を指す

*19:1617年4月19日付に日本人の有力者の子供を産んだ朝鮮人女性が登場する

*20:1616年5月5日付の日記には「Corean jurebasso」であるMiguellが起こした諍いについて記述されている

*21:BENITO LEGARDA, JR, "Two and a Half Centuries of the Galleon Trade",Philippine Studies, Vol. 3, No. 4 (DECEMBER, 1955), p352-359, p361-363

*22:Seijas, p73

*23:Birgit Tremml-Werner, Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644, p105

*24:Tremmle-Werner, p290

*25:Maria de Deus Beites Manso, Lúcio de Sousa, OS PORTUGUESES E O COMÉRCIO DE ESCRAVOS NAS FILIPINAS (1580-1600)

*26:ロックリー(2017), p113,p155

*27:Sousa, p23

*28:岡, p99-104, p339

*29:Michael Cooper, "The Mechanics of the Macao-Nagasaki Silk Trade", Monumenta Nipponica, p429-431

*30:岡本良知, "一五九〇年以前における日本フィリッピン間の交通と貿易", キリシタンの時代 : その文化と貿易, p551-560

*31:IbId, Tremmle-Werner, p143, p156-157

*32:村上直次郎 訳註, ビスカイノ金銀島探検報告, p155

*33:ロックリー(2017), p125

*34:ロックリー(2017), p129, p136

*35:ロックリー(2017), p128

*36:桑田忠親, 信長公記, p388

*37:ロックリー(2017), p74

*38:清水有子, "近世日本の形成と南蛮・キリシタン", 日本史研究 第七二六号, p33. 堀新, "信長公記とその時代", 信長公記を読む, p30-34

*39:1615年10月14日付及び1616年4月1日付