三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

スペインはなぜ日本を「征服」しなかったのか

はじめに

先日Twitterにて以下のようなやりとりをおこなった。

この議論はいわゆる「イベリア・インパクト論」(またはその変形)に対して反論する中で、当時のスペイン軍が日本に侵攻する可能性を軍事リソースの不足から否定する立場の方に対し、私から軍事リソースは必ずしも不足していたとは言えないとする立場の主張を行ったものである。 ただしTwitterでは文字数の制限から説明不足になってしまった感があるし、何よりスペインが侵攻意図を持たなかった理由について述べていないため、改めて本稿で現時点の私の考えを論じたい。

なお私も相手の方も「イベリア・インパクト論」へ反対の立場をとる点では共通しているため、本稿では「イベリア・インパクト論」への是非自体は論じない。

また本稿で「スペイン人」に対して言及する場合、現在のスペイン国家を出身とする人物やその領域の政治権力のみでなく、16世紀後期から17世紀前半において、「スペイン帝国」に統治されていた地域出身の人物を指す。 つまり「スペイン人兵士」とはイベリア半島カスティーリャ王国領土内で雇用された兵士だけでなく、アメリカ大陸で雇用されたメスティソインディオイタリア半島で雇用されたミラノ人なども含む。 ただし「ポルトガル」についてはスペイン帝国に組み込まれる以前に日本との接触を持っていたため、混乱を避けるために「スペイン」とは別個に扱う。 またフィリピン諸島における先住民も同様に別個に扱う。

軍事リソース不足論の問題点

「軍事リソースが不足していた」と言う説明にはしばしば根拠として16世紀後期の相次ぐ破産宣言や80年戦争、英西戦争に伴うイングランド侵攻作戦(いわゆるアルマダ)が挙げられる。 しかし、この説明には重大な欠点が伴う。 英西戦争や80年戦争を理由にリソースが不足していた、とするならば、1604年の英西条約や1609年の12年休戦によりリソースが回復したとみなすことができる(実際当時も同様の議論が存在した)が、その際に日本に侵攻しなかった理由について説明することができない。

また、この不足論には侵攻に必要なリソースについて過剰に高く見積もる傾向がある。 南米において活動していたいわゆるコンキスタドールの部隊のうち、スペイン人が占める割合はいずれも小さく、中米やペルーに対し行われた遠征に含まれていたスペイン人は概ね100名以下に収まっていた。 またカハマルカにおけるコルテスの168名という人数は、中南米の「征服」活動の中で例外的に大規模と言えるほど、スペイン人は少人数であったのである。 中南米においてスペイン人はこうしたごく限られた人員のみで「征服」を行うため、アフリカ出身の奴隷や現地先住民との連合・同盟に強く依存していた*1。 政治的同盟・臣従関係を結んだ現地勢力の協力を得て、ごく少人数のスペイン人のみで「征服」活動を行う事例は後述するフィリピンやポルトガルによるアフリカ干渉などでも見られ、当時の定石であったと言っていいのではないだろうか。 実際に、フランシスコ・デ・サンデは1576年に、5〜6000人のスペイン人で中国を「征服」可能としている*2。これは現代と当時のスペイン人との間の認識のずれを示す事例であると思われる。

従ってリソース不足論の欠点は以下のようにまとめられる

  • ヨーロッパにおける戦争が和平・小康状態で安定していた時期、つまりリソースが充足されていた時期に侵攻されなかった理由について説明できない。
  • 中南米やフィリピンの例から、当時のスペイン人が日本侵攻に必要なリソースを小さく見積もる可能性を否定できない。

次項ではフィリピンを含む東南アジアにおけるスペインの軍事能力・動員能力から、スペインが動員可能なリソースを推定する。

フィリピンにおけるスペインの軍事能力

1565年5月にミゲル・ロペス・デ・レガスピによりセブ島に都市が建設されたことがスペインによるフィリピン「征服」の始まりとなる*3。 なおこの時にレガスピ自身は植民の勅許を得ていなかったものの、のちに獲得することができた。

レガスピはやがてモロと呼ばれたムスリム系住民及びビサヤ諸島の勢力と連合してマニラへと移動し、現地のスルタンであるRajah Solimanを敗北させマニラを占領した。*4 1573年に土着の「インディオ」に対しいかなる損害も与えてはならないとする「発見、新入植及び平定に関する法典」が公布される4年前であった。

レガスピによる「征服」以降、マニラにおける総督府は一貫してフィリピン諸島南部への進出をめざし、居留地の建設や軍事遠征を行い続けた。 こうした状況下において、ニュースペインからは1年あたり平均して160名弱の兵士が毎年マニラへと送られてきていた*5。 一見南米より派遣される兵士は極めて不足しているように思われ、当時もことあるごとに兵士の派遣を求めるなど、兵士不足という認識は存在した。だが実際にはフィリピン先住民の兵士を雇用することで数の不足を補うことが可能であり、数千人規模の遠征が当たり前のように行われていた。 1578年にはボルネオ遠征のために400名のスペイン人兵士、1800名の先住民兵士が派遣された*6。 1592年にルソン島北部山岳地帯に対して行われた懲罰遠征ではスペイン人120名に対し3000名以上の先住民兵士、1597年のスールー王国への軍事遠征ではスペイン人230名に対し先住民の兵士1500名、1638年には500人のスペイン人兵士と3000名の先住民兵士がホロ島で三カ月の攻囲を行っている*7

また、マカオを拠点とするポルトガル勢力と合同した軍事遠征なども行われていた。 1580年にスペインの侵攻により同君連合化した両国は、1581年のトマール条約で行政権の分離とイベリア半島外における2国間交易の禁止が定められたため*8、一体化こそしなかったものの、その領域は次第に曖昧になっていた*9

1606年にテルナテ王国に対して行われた遠征では、1604年にヌエバエスパーニャより800名の増援を受けていたため、遠征隊におけるスペイン人兵士は1400名を数えた。 この遠征隊には他にポルトガルのティドレ島総督もポルトガル兵士と共に加わっており、5隻のガレオン船と4隻のガレー船を含む34隻の船が使用されたとしている。*10

テルナテ王国に対するさらに規模の大きな遠征としては、1593年に行われた遠征が挙げられる。 この遠征ではスペイン人1000名を含む計9800名と100隻の船からなる遠征隊が組織されたが、遠征隊に組み込まれた中国人が反乱を起こし、マニラ総督が殺害されたため瓦解した*11

1615年のモルッカ諸島に対する失敗した遠征では、ポルトガルの助力が得られない状況であったが、スペイン人兵士2000名を含む5000名の軍隊と、ガレオン船10隻、ガレー船4隻を含む船42隻がマニラに召集された*12

ポルトガルマカオ総督府では、前述のトルデリシャス条約により希望峰を経由してインド洋を渡るルートを独占しており、このルートによってイベリア半島から増援を得ることができた。 このルートを使い、東南アジアに進出したばかりのオランダに対抗するため、1597年から1606年にかけて3度の増援がスペイン本土及び経由地であるインドのゴヤより行われた。*13

1637年のミンダナオ遠征では250名のスペイン人兵士と3000名の先住民兵士が現地の王と戦った*14。 1638年にはホロ島に対しスペイン人兵士500名、先住民兵士3000名からなる遠征隊が組織され、3ヶ月の包囲戦を行った*15

1570年代から1630年代にかけて、東南アジアにおけるスペイン軍の動員実績から判断すると、スペイン軍は最大で10000名弱の軍隊を組織し、遠征を行う能力を持っていた。 スペイン人の比率はヌエバエスパーニャからの増援の多寡によって決まり、最大で2000名を占めることができた*16

上記の数字は日本で同盟または連合により得られると考えられた兵力によりさらに増加することができる。 後述するが、当時の日本にはスペイン人が味方と見做す可能性のある勢力が多数存在していた。 スペインによる南米やフィリピンの「征服」の際、スペイン人の人数は決して多くなく、数の上では先住民の勢力が多数派を占めていたことが知られており、例えばマニラ「征服」の際にはスペイン人は110名ほどで、その他は全て現地の先住民だったとされる*17 つまりスペイン人自身が積んだ「征服」の経験から言えば、「征服」とは必ずしも数万の軍隊を必要とするような大事業ではなかったと認識していた可能性がある。 シャムやカンボジアへの軍事介入時に派兵されたスペイン人が120〜200名程度であったことからもこの認識が窺える*18

従って、スペインはフィリピンで最大1万人弱の軍隊を動員することが可能で、フィリピンから派遣するための複数の大型船を保有し、かつ同盟を組むことができるキリスト教勢力が日本には多数存在していた、といえる。 当時のスペイン人が日本を「征服」する構想を持っていた場合、リソースは十分に存在していたように見える。

しかし日本征服はついに計画すら存在しなかった。 これは中国に対する「征服計画」が何度も提言されていたことと比較すると差異は明らかである。

スペインに不足していたのは日本侵攻のためのリソースというよりも、日本を「征服」する意志と思われる。 つまりスペインにとって、日本は「征服」対象となるほどの戦略的重要性を持ち得なかったのである。

これを理解するためにはスペインが何を望んで東南アジアに進出し、スールー王国やテルナテ王国へ侵攻したのか、またなぜ明に対する武力侵攻計画を企画したのか、そして、スペインのアジア戦略において日本はどういう立場を占めており、東南アジアの諸勢力や明とは何が違ったのか、といった点を理解する必要がある。

スペインの東南アジアへの進出

スペインによる東南アジアへの進出は1520年代に遡る。 東南アジアで産出されるスパイスを巡るポルトガルとの政治的な争いを経た後、1529年にはサラゴサ条約により東南アジアでの両国の境界線が定められたものの、実際には境界線の解釈に関して曖昧な点が残されていたため、スペインはその後もモルッカ諸島への進出を試み続けた*19。 この努力はアンドレス・デ・ウルダネタらによるフィリピンからアカプルコへの復路の発見につながり、レガスピによるセブ島での植民都市拠点建設が行われる。*20

マニラはスペインによる「征服」以前から中国やモルッカ諸島の交易の結節点であり、その点がレガスピを惹きつけたと考えられる*21。 1570年代からはスパイスを東回り航路でヌエバエスパーニャ又はチリを経由しヨーロッパへ持ち込む構想のもとに繰り返しモルッカ諸島への進出が試みられた*22

また、スパイスを目的とした進出を行う一方で、近世期スペインによる植民事業は、支配領域の先住民に対する徴税と宣教を通した宗主権の拡大、つまり政治的な領土の拡大を志向していたという点で同時代に行われていた交易を中心とした同時代のイギリスやオランダによる「征服」とは異なる性格を持つことが指摘されている*23。 これを具体化するシステムがエンコミエンダ制や植民都市の建設であり、レガスピが勅許を得ないまま植民都市の建設に着手したのも領土的野心からであった。 植民開始後からエンコミエンダの総数は拡大していき、1591年には設置されるエンコミエンダの数は270に達したものの、土地所有者の政治的権力の増大が懸念されたため、17世紀以降マニラ総督府はエンコミエンダの抑制・回収に動く*24。 こうした拡張主義的な傾向が完全に達成されることはなかった。スペインの支配領域は地域的な偏りが見られ、ルソン島ですら空白地点が多数存在する。また、山岳地帯には金鉱山の存在が噂されており1570年代から侵攻構想が存在し、実際に何度も遠征が行われたものの、スペインがフィリピンを支配する時代に「征服」が達成されることはなかった*25

上記のスパイス及び領土的な拡張主義という動機から、スペインは1570年代よりフィリピン諸島南部への進出を図る。 この進出は、必然的に東南アジアの諸勢力、ボルネオ島ブルネイ、ホロ島のスールー王国ミンダナオ島のミギンダナオ、当時唯一のクローブ産出地であったテルナテ王国などとの対決を意味した。

1578年にスペインは当時東南アジアにおける交易の中心地点の一つであったブルネイの王位継承をめぐる争いへ介入し、軍事遠征を行う*26。 同年にはモルッカ諸島スールー王国への攻撃を行い、当時東南アジアで広く行われていた奴隷狩りの抑制と属国化を図った*27

しかしこれらの行為はブルネイスールー王国の反撃を招いた。 ブルネイは1578年の侵攻以降、スペインに対し島嶼部に居住する‘Camucones’と呼ばれる集団を利用して奴隷狩りを推奨することで積極的な代理戦争を行うようになった*28。 1575年にポルトガルを敗北させ、スパイス交易に強い影響力を有していたテルナテ王国は、ポルトガル連合王国化したスペインと敵対し、ミギンダナオ王国に対し軍事支援を行い、スペイン居留地への襲撃を行わせた*29。 1570年代からスペインによる侵攻を受けていたミンダナオでも、テルナテ王国の支援などにより1590年代から攻勢を始め、1595年にはヴィサヤ諸島居留地住民計1500人を奴隷として連行する*30

スペインもこうした奴隷狩りに対し、防衛艦隊の整備やマギンダナオとの外交交渉などを行うがいずれも失敗し、軍事遠征を行わざるを得なくなる。 1606年にスペインはテルナテ及び近隣のティドレ王国を攻撃し、首都を占領した。これはマギンダナオとの和平交渉を大きく進展させる効果を持つはずであったが、侵攻を指揮したマニラ総督アクーニャ・イ・ベハラノが毒殺を疑われる状況下で急死したことにより交渉は頓挫、1608年よりマギンダナオは奴隷狩りを再開した*31

東南アジアの諸勢力による抵抗によってスペインのスパイス交易やフィリピン諸島南部への進出は支障をきたしていた。 さらにスペインをより激しい抗争に巻き込む出来事が起こる。オランダの東南アジア進出である。

1600年のオランダによるマニラ包囲は、スペインにとっての東南アジアに新たな重要性を加える出来事でもあった。 スペインにとって、16世紀にはスパイスなどの奢侈品交易と拡張主義的野心を満たす場であった東南アジアは、17世紀にはオランダとの前線であることも認識されるようになった。こうした認識はモルッカ諸島への駐留などの軍事的行動を支える理論的根拠となった*32

オランダはスールー王国やテルナテ王国との同盟関係を結び、モルッカ諸島への進出を始めた。 1610年にはすでにモルッカ諸島内部に8つの拠点を有していた*33。スペインは1615年に反撃のための遠征を行うが失敗してしまう。 1618年にはオランダと同盟したスールー王国による襲撃が発生するが、王国内部の政変のため1624年にはスールー王国よりマニラへ和平のための使節が派遣される*34。しかしスペイン側ではこれを追い返してしまい、却って敵意を煽り立てることとなったため、両者の敵対は終わらなかった。

1619年ごろ、マギンダナオ王国は内紛により奴隷狩りを停止させるが、1630年代には新たな王カシール・クダラットの元でスペイン居留地に対し、再び奴隷狩りを行うようになった。さらにクダラットはスールー王国との同盟を成立させ、スペインではこれに対抗するため、ミンダナオ島サンボアンガに要塞を建築する*35。 1637年にはマニラ総督セバスティアン・ウルタード・デ・コルクエラによるミンダナオ遠征が行われ、クダラットは敗北するが、自身及び家族の逃亡とその軍隊の大部分の逃亡に成功する*36。 1638年にはスールー王国に対して遠征を行い、ミンダナオと同様に王の逃亡を許すが、家臣団を降伏させることに成功する*37

しかしこうした成功はすぐに終わってしまう。 クダラットはプランギ川北部に再び軍を集結させ、他の反スペイン派勢力との同盟により1642年にはスペインを撤退させ、元の領地を回復することに成功した*38。 ホロ島でもスールー王ブングスによる反攻が始まり、1639年にはスペインによる懲罰遠征が実施されるも抵抗は止まず、1640年にブルネイと共にマリンドゥケへの襲撃を行う*39

1644年には1637─38年の遠征による成果はほぼ失われていた。そしてスペインはついに外交姿勢を転換させ、東南アジアの諸勢力を対等の存在とみなすようになる。 1645年、ミンダナオ島における和平交渉では、それまでの交渉とは異なり、もはや相手をスペイン王の家臣として組み入れようとはしなかった*40。 同様の条約が1646年にスールー王国との間で結ばれた。しかし数年後にこの条約が破られると再び戦争が始まり、鄭成功の危機が高まった1662年には遂にミンダナオ以南からの撤退が始まる*41

スペインの東南アジアへの進出は、スパイスと拡張主義、宣教という動機が存在したが、実際に進出して以降は、反撃として行われたスペイン居留地に対する奴隷狩りやオランダというヨーロッパにおける敵の登場により更に対立が激化するといった様相を示した。 この結果、拡張主義の対象であった相手の自立と主権を認める1645年の妥協へとつながり、更に1663年にはミンダナオ以南より軍を撤退させることが決定する。 スペインの東南アジアへの武力侵攻は、複雑で多様な動機が存在した。

一方、実際には侵攻されなかったものの、「征服」の具体的な提案に至っていたのが明である。 なぜ明には積極的な「征服」策が繰り返し提言され、日本に対してはされなかったのか?

明に対する派兵論

明に対する派兵論はスペインがフィリピンに到達したごく初期の段階から確認することができる。 この派兵論は1569年から繰り返し書簡の形で表明されてきた*42が、モルッカ諸島への進出に見られるような一貫した目標があると言うよりは、主張する人物によって異なる動機が存在したように見える。 例えば、マニラ総督フランシスコ・デ・サンデによる「征服」構想は、後述するイエズス会アロンソ・サンチェスのものとは性質が異なり、同一線上にあったとは考えられないと平山篤子は指摘している*43

スペインはフィリピン諸島への到来初期から明との交易を志向しており、セブ島からマニラへと拠点を移動させたのも明との交易を優先させたためであった。この時期に明はいわゆる海禁政策を緩めた時期にあたり、絹製品などの交易を目的としたスペインにとっては都合が良かった*44。 この交易はフィリピン諸島における中国系住民の急激な人口増加をもたらすこととなる。

こうした貿易は主に私的なものであったが、その一方でスペインによる明との公の関係は1574年に始まった。 これは海賊林鳳によるスペイン人居留地への襲撃に対処するため、林鳳を追跡してきた王望高との間に結ばれた条約で、スペイン側が捕らえた林鳳の船を燃やすことを承認する内容であった*45。 スペイン側はこれを機に中国側との公式な外交関係の樹立を図り、使節の派遣を行い始める。 しかし福建省使節に応える形でフランシスコ会修道士を使節として派遣する往還が始まったものの、1576年には林鳳の取り扱いを巡って福建省側が疑念を抱いたことから態度を硬化させ、両国の外交関係は一旦途絶えることとなる*46。 その間もスペイン本国ではフェリペ王の名代として使節を派遣することを検討し、実際に1580年と1582年の二度に渡って明皇帝への贈り物を伴う使節の派遣が実行されたが、結局のところ失敗した*47。 1575年から1580年までマニラ総督の地位にあったサンデは、中国の朝貢貿易にスペインが組み込まれる恐れからこの使節に強く反対し、結果として更なる使節の派遣を阻止することに成功した。 サンデの持つ強い反明ポリシーの動機は本人の持つ拡張主義的な資質や後述する中国人への恐怖心に由来すると思われるが、いずれにせよスペイン前総督グイード・ラヴェサレスが当初親善の目論見を持っていたのと対照的に、中国人に対する極めて強い猜疑心と敵意を持っていたことは間違いなく、王望高にすらその敵意を剥き出しにしている*48。 一方、スペイン王フェリペ2世は、中国への武力を用いた拡張政策に反対し、防衛的な政策を支持する立場であり、一貫して非暴力的な手段をとっていた*49

こうした状況下において、イエズス会士サンチェスが登場する。 サンチェスは1582年と1585年の二度にわたってマニラから中国への出張を行い、直に中国を見聞する機会を得ており、中国におけるキリスト教宣教が進まない現状を目にしていた*50。 この経験を基にサンチェスは二度にわたって明への武力侵攻を訴える報告書をマドリッドへ送付し、対明武力宣教論の主唱者となる。 サンチェスは報告書の中で以下の事項を戦争権限として挙げている*51

  • 外国人の入国の拒否
  • 宣教の拒否及び改宗者への迫害
  • 通商の拒否

平山は上記の点に加え、サンチェスの真意は明の独自性を認識し、キリスト教宣教は武力以外に行う方法がないと判断していたことだとする*52。 いずれにせよサンチェスの対明武力宣教論は、初代マニラ司教ドミンゴ・デ・サラザールなどの賛同者を得るものの、アレハンドロ・ヴァリニャーロやイエズス総会長クラウディオ・アクアヴィーヴァなどからの反発を受け、活発化していく対明私的貿易の中で退潮していく*53

しかしこうした友好ムードは、1593年に遠征中のマニラ総督が中国人の漕ぎ手によって殺害されるという事件以降反転する。スペイン人にとってフィリピン諸島に在住する中国系住民は、その資産や中国本土という後背地の存在、マニラ経済における存在感の大きさ、諸島住民に占める割合の急激な増加、さらには華南の都市文明を体得した「文明人」であるという点で「恐れ」の対象だったと平山は指摘している*54

スペインは1598年に再び明との外交交渉を持ち、福建省より沿岸の小島に滞在する許可を得て明本土との交易を図るが、自らの交易に支障が出ることを恐れたポルトガルの妨害などにより短期間に終わる*55

1603年には明より金の探索を目的とした使節が到来するが、マニラ大司教ベナビーデスはこれを侵攻のための偵察であると判断し、公に反対論を唱えた結果、スペイン人と中国系住民の間に緊張が高まり、マニラにおける第一次華人暴動が勃発する*56。中国系住民の死者は2万人を超えたと言われる。

この暴動後、一時福建省よりの貿易船が減少し、マニラ総督府は明による報復攻撃を恐れるようになった。 この恐れは後述する徳川政権を同盟視する流れへとつながる。

再び華人人口が増加した1639年には過酷な開墾作業に反発した第二次華人暴動が発生した。 この時マニラ総督コルクエラによって中国系住民の抹殺が指示され、実際に暴動に関与していない住民を含め2万6000名が殺害されたと言われる。中国系住民であるというだけで、暴動に参加するのに十分な理由であるとみなされていた*57

スペインは当初から明との外交関係樹立を望んでいたものの、2国間の私的貿易の隆盛とは裏腹に、スペイン人はほとんどの期間中国系住民に対して警戒心を抱き続け、両国の外交は常に様々な理由で挫折していた。 結局のところ、明が滅亡するまで両国の間に安定的な関係が樹立されることはなかったのである。

つまり、スペインは明との国交を望んでいたにもかかわらず、宣教が受け入れられない一方でマニラ経済を支配されるという恐れにより武力宣教論が登場し、その後も過酷な取り扱いに端を発するマニラ総督の殺害や華人暴動などで明に対する恐れ・不信は落ち着くことはなかった。 スペインにとって明は直接敵対はしないものの、油断のならない隣人であったのである。

では日本はどうか。 日本はキリスト教宣教を受け入れた一方で、豊臣秀吉による服属要求などの強硬的な外交が行われたという経緯を持つ。 スペインは日本との関係をどう認識していたのか?

日本との関係

日本とスペインの外交関係は1582年に平戸にフランシスコ修道会士が偶然漂着したことに対し、平戸領主松浦重信よりマニラ総督宛に書簡が送られたことに始まる*58。 これ以降島津によるイエズス会を経由した宣教師派遣要請や、また大村純忠によるマニラへの使節派遣など、九州大名による積極的な外交関係樹立の試みがなされるようになる。 スペインにとって日本はデマルカシオンの境界線上に位置し、ポルトガルとの紛争が予期されたことから、明とは異なり確たる外交や宣教の方針が確立されていなかった*59が、1587年にはマニラ総督より公式の通商許可を求める請願がスペイン国王宛に出されるまで関係は深化する*60

九州大名の積極的な宣教師の招致活動には、当時南米からの銀が流入していたマニラとの交易を求める動機があったと推察されているが、宣教師たちはこの接近を強く歓迎し、マニラにおいても九州大名をある種の同盟者とみなし、日本本土の日本人を対明武力宣教に従軍させる構想も現れた。その一方で、明に対する接近と同様にポルトガルからの反発をも招き、交易商品を狙った倭寇の活動も活発化した*61。 日本の主な輸出品には火薬の原料である硝石や剣などが含まれており、日本との交易がスペインの軍事行動を下支えしていたことがわかる*62

こうした関係に変化がもたらされるのが1591年の豊臣秀吉によるマニラへの服属要求である。 これは壬辰戦争へとつながる華夷意識に基づく強硬姿勢であり、マニラにおいて日本に対する警戒心を高める働きをした*63。 マニラ総督府は時間を稼ぐことを狙い、返答の使節を派遣するなどその後もしばらくマニラ─日本間で服属要求をめぐって使節の往還がなされた。 しかし、日本側書簡の原文とマニラ総督府で閲覧されたスペイン語に翻訳された文を比較した清水有子によれば、スペイン語翻訳文には日本側使節原田喜右衛門による意図的な改ざんが行われており、1592年及び93年の書簡では原文に存在した服属要求が総督府に伝達されなかったという。その結果、マニラでは日本に対し一定の疑念を抱きつつも、友好関係を維持するとした*64

1594年には日本使節長谷川宗仁によってマニラに対する軍事遠征の否定と交易を求める旨の主張がなされた*65

ただしその後はサンフェリペ号事件やいわゆる26聖人殉教などのキリスト教弾圧、さらには長谷川宗仁を総督とするマニラ侵攻計画などの情報がもたらされたことから、マニラでは再び日本に対する警戒が高まった*66

しかしこの警戒心も、秀吉の死とそれに続く徳川家康の台頭によって消滅する。 徳川家康イエズス会士を通して交易の再開をマニラに対して申し入れ、関東─アメリカ大陸間の交易を求めた。さらにマニラ周辺における海賊対策にも乗り出し、スペイン船の遭難にも対処したことからマニラ総督府によって高く評価された。 早くも1600年にはマニラ総督フランシスコ・テリョ・デ・グスマンによって日本との関係は「最良」と評価され、1604年には公式に年間4隻の交易がスタートした。さらに前年に中国系住民の暴動をきっかけとする住民虐殺を行ったスペインは、中国本土からの報復を恐れていたが、再び日本を同盟者と見做すようになる*67

こうした友好ムードは、1609年オランダが平戸に商館を設置して以降悪化し始める。 敵国であるオランダと日本の親交はスペインの太平洋航路が脅かされる可能性を示唆するものであり、マニラにとって受け入れ難いものだった*68。 1611年には家康よりフランシスコ会修道士フライ・アロンソ・ムーニョスがスペインへの使節として送られ、1613年にはインディアス枢機会議においてヌエバエスパーニャと日本との交易がポルトガルイエズス会からの抗議を振り切って認められたものの、返答の使節はようやく1615年にヌエバエスパーニャを出航した。 この間日本では1614年には伴天連追放令が発出されるなどキリスト教徒に対する弾圧姿勢が強化され、スペイン側に警戒心を呼び起こしていた。さらヌエバエスパーニャからの使節は秀忠への謁見すら許されず、この時点で両国の外交関係は「凍結」することとなる*69

一方で、この「凍結」後も朱印船貿易を含む交易関係及びマニラ発の宣教師の密入国は続けられていた*70朱印船及び私的な貿易船の到来は1630年代まで続く。 1624年にマニラ総督府は日本に対し使節を派遣するが、この際に使用されたのも交易船であった。この使節はスペインによる台湾進出を背景の一つとして持ち、派遣当初の動機には台湾を拠点とする日本交易計画の実現が含まれていた*71。その上、それまで使節として派遣されることが多かった宣教師の乗組禁止を言い渡すなど、日本に大いに配慮した使節であったが、秀忠への謁見すら許されることはなかった。 1625年には再度交易船に乗り組んだ使節が派遣されるが、この乗組員に過去に日本を国外退去となっていたヨーロッパ人が乗り組んでいたため、家忠の態度の硬化を招き、スペイン船渡航禁止令が発出され、両国の「断交」が成立した*72

結論

東南アジアの諸勢力、明、日本を比較することで、この三つの地域・国がスペインにとって異なる意味合いを持っていたということがわかる。

東南アジアはスペインと最も早くに接触した地域であり、スペインにとってはスパイスの産出地であり、新領土の獲得先とも見られていた。またスペインに敵対する在地勢力は多くがイスラム教徒であり、スペイン居留地に対する奴隷狩りによって抵抗し、これに対処するために遠征や哨戒所の設置などの対策が行われた。さらに1600年以降はオランダの到来とその同盟により80年戦争という要素まで加わることになる。 つまり東南アジアにおけるスペインの軍事行動の動機には、スパイスという経済的動機、拡張主義、宗教対立、地域の安全保障、世界規模の戦争の一戦線という極めて多様な要素が存在した。

スペインは明との交易および宣教に価値を見出しており、当初は積極的な関係締結の働きかけをおこなっていた。 しかし明はキリスト教を受け入れることなく、交易の担い手であるフィリピン諸島に在住する中国系住民に対し、スペイン人は恐怖を募らせていた。 こうした背景の元でサンチェスによる明に対する武力宣教論が登場する。 この武力宣教論は一時マニラ司教らの支持を取り付け、フェリペ2世への謁見にも成功するが、結局のところ貿易の隆盛と共に放棄された。 しかし、貿易の隆盛と共に増加した中国系住民たちへのスペイン人の恐怖は放棄されることなく華人暴動とその後の虐殺を引き起こし、スペインの孤立感を強めていった。

スペインと日本の関係はこれらの地域・国とは異なる経緯を辿った。 東南アジアや明とは異なり、日本では地方領主たちによる積極的な関係樹立の試みがなされ、宣教師の招致活動が行われた。 これはスペインに強く歓迎され、日本をある種の同盟者と見る構想が現れた。 秀吉によるマニラ服属要求はスペイン側に一定の猜疑心を抱かせるが、秀吉の死去と家康の外交により再び友好国とみなされるようになる。 オランダの登場により関係が悪化し始めるのは1610年代である。 その後も交易関係については維持され続けており、完全な断交に至るのはようやく1620年代であった。

つまりスペインにとって日本は1610年代まで交易相手であり、しばしば潜在的な同盟国ともみなされていた。 キリスト教を受け入れ、積極的な交易関係を結ぼうとする国はアジアにおいて他になく、従って1610年代以前に日本に対し侵攻を行う積極的な理由は、拡張主義以外に見出すことができない。 そしてマニラ総督サンデの事例に見るように、当時すでに穏健政策を打ち出していたフェリペ2世が単純な拡張主義による侵攻を行うことは考えづらい。

1610年代以降、伴天連追放令などのキリスト教弾圧と外交関係の悪化が進展した時期は、東南アジアにおいてオランダの攻勢が強まった時期と重なる。 この時期も日本との間に交易関係は維持されていた。 1624年使節に見られる配慮からは、台湾進出のために日本側との交易が、また日本がもたらす軍事物資が重要であったことを示している。 そして台湾進出にはオランダへの対抗という要素が存在していた。 つまりこの時期スペインにとっての主敵はオランダとオランダと軍事同盟関係にある東南アジア勢力であり、日本への使節には戦略的な意味合いがあった。 スペインにとって日本は未だ交易関係にあり、軍事物資の供給元でもあったため、積極的に軍事行動をとる理由は存在しないと思われる。

1640年代はスペインにとってそれまで敵対していた諸勢力をも「対等」な存在と認識する転換期にあたる。 このような拡張主義が減退していく状況で、すでに外交関係も交易関係も絶たれていた日本に侵攻する動機はますます薄れたのではないか。

日本への侵攻に言及した人物は幾人か挙げることができる。 しかし実際の日本侵攻構想は、実際に侵攻を受けた東南アジアの諸勢力や、あるいは具体的な侵攻計画が語られた明とは異なり、書簡の中でわずかに言及されるだけに留まり、何ら次の段階を見ることがなかった。 その理由は、日本侵攻よりもはるかに重要性の高いモルッカ諸島やミンダナオなどの地域や、イスラム教徒、オランダ、あるいは明といった勢力が存在したためである、というのが結論となる。

以上。

余談

以下は本稿執筆中に思いついた余談。

もしもスペインが日本に侵攻するとしたら

逆にもしもスペインが日本に侵攻するとしたら、どのような状況がそれを可能にしただろうか。 まずスペイン本国が「インディオ」に対し融和的な処置をとる以前に接触がある方が蓋然性が高い。 次に日本側に何らかの事情でスペイン側の居留地を用意する勢力が存在した場合も同様に蓋然性が高くなる。

従って、シナリオとしては史実よりも数十年早くフィリピン諸島にスペイン勢力が到達した場合が想定される。 例えば1520年代に南米からモルッカ諸島を目指した艦隊がたまたまマニラやセブ島に拠点を建設し、交易を行い始め、日本側とも早期に接触していたと仮定する。 さらに日本側の九州戦国大名が、武器の輸入や南米産銀の魅力などの動機から交易を目的に九州のどこかにスペインに居留地建設と付近でのキリスト教宣教を認め、以降スペイン居留地が戦国時代の日本において一勢力として、エンコミエンダ制などを導入し、周辺勢力への侵攻や同盟を始める、とすると南米やフィリピン、アフリカで見られた様相と酷似してくるだろう。 ただしこの場合でも、日本にやってくるスペイン軍は、過半数が南米のインディオメスティソ、東南アジアの先住民からなる軍隊であった可能性が高く、実際に日本で組織される「スペイン軍」は現地で同盟・雇用下にある日本人が大半を占めていた可能性が高い。 そうしたローカル化されたスペイン軍と戦国日本の大名との戦争を単純にヨーロッパ対日本の争いと見ることができるかは疑問である。

奇妙な交易品 ─カスティーリャ産ワイン─

マニラから日本への輸出品の一つにカスティーリャ産ワインが挙げられる。 このワインは単なる輸出品としてだけではなく、日本の権力者への贈答品としても利用された*73。 しかし、Tremml-Wernerはカスティーリャ産ワインが日本へ届けられるまで少なくとも2年以上の歳月がかかることを指摘し、著しく劣化し酢になっていた可能性を指摘している*74徳川家康に対してもこのワインが贈答されている*75が味の記載はない。 贈り物は儀礼であって実用ではない、ということを象徴しているのかもしれないが、そのことを日本側が承知していたのかは謎である。

宣教師による軍事力の報告はどこまで頼りになるか

日本に滞在した宣教師の書簡には、日本の人口の稠密さ、日本人の理解力の高さなどの強調が多く見られるが、フアン・ヒルはこのような主張の背景として、日本が宣教の有望地であることをヨーロッパに対し宣伝するという要素が存在することを示唆している*76。 また、宣教師は日本の軍事力についても好意的な評価をおこなっていることはよく知られている。 だがこれは日本が優秀な兵士を大量に供給できる点を強調することで、明や朝鮮に対する武力宣教が容易になるという、やはりヨーロッパに対する宣伝の主張が背景にあると考えるべきなのではないか。

従ってこうした宣伝には誇大な表現が含まれている可能性が高く、批判的な検証が必要なのではないか。

「征服」とは

ある地域を「征服」した、という言説は、しばしば実態を伴わないことが多い。 南米「征服」が完了したのがいつだったのか、断言できる研究者はいないだろうし断言する研究者がいるとしたら脳内が19世紀で止まっている。 フィリピンも同様で、スペインがフィリピン諸島南部を「征服」することはできなかったという事実にもかかわらず、しばしば「フィリピン征服」という言葉が当たり前のように使われる。 この言葉は、それが一体誰にとってのナラティブなのか、という点を踏まえて使ったほうがいい気がしている。

本稿執筆の動機のようなもの

冒頭に挙げたように本稿執筆のきっかけとなったのはTwitter上のやりとりである。 「スペインは日本を侵略しようとしていたが恐れをなして取りやめた」という内容のツイートやそれに対する反論のツイートがバズったり注目集めることは、これまでも何度か繰り返されてきた。 このように同じような内容のツイートが繰り返し何度もバズることはSNSではよく見られる。 私はこれは発信者とそれに対し反応する者の両方にメリットがあるからだと考えている。 つまり発信者は自己顕示欲や金銭的利益などを得られ、反応者も、発信に対する賛否とは関わりなく、どのような反応を返すのが正解かを知っているため反応しやすい。 またこうしたコミュニケーションは発信者・反応者共にごく短時間のうちに思考することなく行うことができるため、自然とつぶやきの数やリツイートの数が増えてあたかも大勢このコミュニケーションをおこなっている人がいるかのように見えやすい。

個人的にこういった発信と反応が定型化したコミュニケーションは飽きがくる。

なので定型から外れるためにこうしたブログを書いてみた。

このブログが新たな定型になるのも癪なので、定型化させないためにこのブログの検証方法を下に書く。

このブログで用いた参考資料は有償のものと無償のものに分かれる。 有償のものは図書館やアマゾンなどで入手・閲覧できそうなものしかなく、無償のものはオープンアクセス化された論文やJsotrに登録すれば読めるものしかない。 JsotrのViewerはかつて解像度の低いGif画像を表示するスタイルだったため、視力を削りながら画面を見つめる必要があったが、現在ではPDFで表示してくれるようになったおかげで可視性がかなり向上した。

以下参考文献の項で有償・無償それぞれの資料を記す。

参考文献

有償

フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ: 16・17世紀のイスパニアと日本 (叢書・ウニベルシタス 693)", 2001年, 法政大学出版局

平山篤子, "スペイン帝国中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ", 2012年, 法政大学出版局

清水有子, "近世日本とルソン 「鎖国」形成史再考", 2012年, 東京堂出版

Matthew Restall, "Seven Myths of the Spanish Conquest", 2003年, Oxford University Press

無償

Birgit Tremml-Werner, "Spain, China, and Japan in Manila, 1571-1644 Local Comparisons and Global Connections", 2015年, Amsterdam University Press
https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/31437

Stephanie Joy Mawson, "INCOMPLETE CONQUESTS IN THE PHILIPPINE ARCHIPELAGO, 1565-1700", 2018年
https://www.repository.cam.ac.uk/items/86f4162c-e896-482a-a128-af1d357cf941

Ethan P. Hawkley, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", 2014年, Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3
https://www.jstor.org/stable/43818483

Jean-Noël Sánchez Pons, "EL NERVIO DE LA GUERRA: PROYECTOS, REFLEXIONES Y PRÁCTICAS EN TORNO AL CLAVO MOLUQUEÑO, 1579-1663", 2020年, Historia Social, No. 98
https://www.jstor.org/stable/26932769

JOSÉ ANTONIO CERVERA, "La expansión española en Asia Oriental en el siglo XVI: motivaciones y resultados", 2017年, Estudios de Asia y Africa, Vol. 52
https://www.jstor.org/stable/44272654

JOHN VILLIERS, "Manila and Maluku: Trade and Warfare in the Eastern Archipelago 1580 – 1640", 1986年, Philippine Studies, Vol. 34, No. 2
https://www.jstor.org/stable/42633589

Harry Kelsey, "Finding the Way Home: Spanish Exploration of the Round-Trip Route across the Pacific Ocean", 1986年, Western Historical Quarterly, Vol. 17, No. 2
https://www.jstor.org/stable/969278

ETHAN P. HAWKLEY, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", 2014年, Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3
https://www.jstor.org/stable/43818483

Carmencita T. Aguilar, "The Muslims in Manila Prior to Colonial Control", 1987年, Sojourn: Journal of Social Issues in Southeast Asia, Vol. 2, No. 1 https://www.jstor.org/stable/41056722

*1:Matthew Restall, "Seven Myths of the Spanish Conquest", なおアフリカ出身の奴隷のうち、ごく限られた人数ながら奴隷身分からの解放後にエンコミエンダを獲得した者もいる

*2:平山篤子, "スペイン帝国中華帝国の邂逅", p127

*3:Birgit Tremml-Werner, "Spain, China, and Japan in Manila. 1571-1644", p99

*4:Ethan P. Hawkley, "Reviving the Reconquista in Southeast Asia: Moros and the Making of the Philippines, 1565-1662", Journal of World History, Vol. 25, No. 2/3, p292

*5:Stephanie Joy Mawson, "Incomplete Conquests: The Limits of Spanish Empire in the Seventeenth-Century Philippines", p192

*6:Hawkley, p294

*7:Mawson, p157-158, p226, p235-236

*8:John Villers, "Manila and Maluku: Trade and Warfare in the Eastern Archipelago 1580 – 1640", Philippine Studies, Vol. 34, No. 2, p147

*9:1582年にはポルトガル領インドの救援に応えるようマニラ総督に対し勅令が発行されている。Jean-Noël Sánchez Pons, "EL NERVIO DE LA GUERRA: PROYECTOS, REFLEXIONES Y PRÁCTICAS EN TORNO AL CLAVO MOLUQUEÑO, 1579-1663", Historia Social, No. 98, p133

*10:Villers, p150-151, Pons, p134. グレゴリオ・F・サイデ, "フィリピンの歴史", p183-184

*11:サイデ, p179-180

*12:Pons, p139. サイデ, p185-186

*13:2度目の増援はカスティーリャ王国より船団の貸与を受けて行われた。

*14:Mawson, p234-235

*15:Mawson,p235-236

*16:なおフィリピン諸島の各地に設けられていた前哨基地に駐屯していた兵士はこの数字に含まれない

*17:Carmencita T. Aguilar, "The Muslims in Manila Prior to Colonial Control", Sojourn: Journal of Social Issues in Southeast Asia, Vol. 2, No. 1, p155

*18:サイデ, p165-171

*19:Pons, p132

*20:Harry Kelsey, "Finding the Way Home: Spanish Exploration of the Round-Trip Route across the Pacific Ocean",Western Historical Quarterly, Vol. 17, No. 2 , p158−163

*21:VILLIERS, p147

*22:Pons, p133

*23:Tremml-Werner, p49

*24:Tremml-Werner, p104

*25:Mawson, p145-146

*26:サンデ, p231

*27:Mawson, p227

*28:Mawson, p214-216.

*29:Pons, p133.w Mawson, p216-218

*30:Mawson, p221-223. HAWKLEY, p302

*31:Mawson, p230-232

*32:Pons, p144−145

*33:Pons, p139

*34:Mawson, p223

*35:HAWKLEY, p302. Mawson, p234

*36:サイデ, p236. Mawson, p235

*37:Mawson, p235-236

*38:Mawson, p236-237

*39:Mawson, p237

*40:Mawson, p238

*41:Mawson, p239-240

*42:サイデ, p161-162

*43:平山, p81-82"

*44:JOSÉ ANTONIO CERVERA, "La expansión española en Asia Oriental en el siglo XVI: motivaciones y resultados", Estudios de Asia y Africa, Vol. 52, No. 1, p196-198

*45:Tremml-Werner, p181

*46:Tremml-Werner, p182

*47:Tremml-Werner, p184

*48:平山, p81-82, p102-103

*49:Tremml-Werner, p186-187

*50:平山, p85-93

*51:平山, p131-132

*52:平山, p146

*53:平山, p91-96

*54:平山, p306-307

*55:Tremml-Werner, p189-190

*56:平山, p327-336

*57:平山, p377-388

*58:Tremml-Werner, p192

*59:レガスピによる航海の際にカール5世は日本に漂着した場合、紛争を避けるために可能な限りポルトガル人を回避するよう指示している。清水有子, "近世日本とルソン ─「鎖国」形成史再考─", p26

*60:Tremml-Werner, p194

*61:フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ", p7-13. 清水, p305-313

*62:Tremml-Werner,, p158-161. 清水, p305-308

*63:ヒル, p18-25. 清水, p140-141

*64:清水, p140-162

*65:Tremml-Werner, p196-197

*66:ヒル, p53-62. Tremml-Werner, p196-199

*67:清水, p56-67. Tremml-Werner,、p199-203

*68:清水, p67-72

*69:ヒル, p266-275, 455-464. Tremml-Werner, p207. 清水, p73

*70:Tremml-Werner, p226. 清水, p235-236,p99−130. 平山, p61

*71:清水, p245. 台湾進出自体もオランダへの対抗、中国の関税の回避、宣教という複数の目標が絡み合っていた。Tremml-Werner, p240

*72:清水, p253-259

*73:ヒル, p113

*74:Tremml-Werner, p152

*75:ヒル, p352

*76:フアン・ヒル, "イダルゴとサムライ", p267