三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

フランドル駐留軍における多地域出身部隊の混成運用とその要因

近世スペイン軍はスペイン人のみから構成されていたわけではない。

スペインの方面軍の一つ、フランドル駐留軍にはドイツ人、ワロン人、イタリア人、アイルランド人、アルメニア人など、さまざまな地域出身者がスペイン軍に参加しており※1、スペイン人はむしろ少数派でさえあった。

本稿ではスペイン軍がなぜこのような多様な軍隊となったのか、フランドル駐留軍の運用とベルナルディーノ・デ・メンドーサの書籍からその要因を考察したい。

フランドル駐留軍の1572年から1647年までの歩兵の出身別構成を以下に示す。※2

フランドル駐留軍歩兵国籍別割合

ここに見られるように、スペイン人は休戦期間(1609年~1620年)を除いて常に少数派であり、歩兵の過半数はワロン系もしくはドイツ人の傭兵であった。

これらさまざまな出身地域の兵士たちは、理論的には地域ごとに連隊単位に編成されていたが、混成部隊が編成されることもあったようである。※3

野戦軍も軍全体と同様に複数の地域出身兵士からなる部隊が参加していた。

1572年のハールレム攻囲戦にはスペイン人の他にイタリア、ドイツ、ブルゴーニュ、ワロンの各地域から兵士が召集されていた。※4

またスピノラによる1606年の遠征にはスペイン・テルシオ三個、イタリア・テルシオブルゴーニュ・テルシオイングランド・テルシオ、ワロン連隊各一個、ドイツ連隊二個、アイルランド中隊五個で構成されており、※5

1643年のロクロワの戦いの際に、ドン・フランシスコ・デ・メロ率いるスペイン軍本隊はスペイン・テルシオ五個、イタリア・テルシオ三個、ワロン・テルシオ五個、ドイツ人連隊五個とブルゴーニュ人部隊を含んでいた。※6

1634年に出版された元スペイン軍アイルランド・テルシオ士官による本には、6ヵ国の兵士からなる戦闘方陣(battel square)の組み方が図入りで説明されている。※7

Gerret

実際にこのような6ヵ国の兵士が巨大な方陣を形作る事は行われていなかったものの、2か国程度の兵士が戦隊(battalion)を形成するということは行われていた。

都市における駐屯も野戦と同じく複数の地域出身からなる部隊によって行われていた。

1629年、ドイツ東部のリンゲンにはドイツ人中隊十二個、ブルゴーニュ人中隊四個、イタリア人中隊三個、ワロン系中隊二個、アイルランド人中隊一個に加えて騎兵と砲兵の小部隊が駐屯していた。※8

興味深いことに、アイルランド人中隊が所属していたテルシオの他の部隊は、直線距離にして300キロ以上離れたアントウェルペン近郊のザントヴリートやネーデルランド沿岸のオーステンデなどに駐屯していた。

このようにさまざまな地域出身の兵士たちの混成軍は指揮統制上の混乱や兵士・部隊間の軋轢など様々な問題を引き起こしたと考えられる。

それにも関わらず、スペイン軍が混成軍を率いた理由は何か。

外交官であり軍人でもあったベルナルディーノ・デ・メンドーサによって16世紀末に執筆された以下の記述は多様な地域出身の兵士から軍隊を構成する理由を以下のように記述している。

「現代において、国を守るためではなく他国へ侵略するために、一つの国からなる軍隊を形作るのは困難であり…

 特に人口が多く、消耗の激しい外国での戦争を継続させられるだけのより多くの兵士となりうる最低でも16歳以上の男の多い州でも、

 この場合は国の外へ出ていくことになり、軍隊の種々の事柄に適合するよう訓練させられる。

 多様な軍隊はこれらを分担されるが、疑いの余地なく一つの国からなる軍隊は…自分自身にすべてを依存しており、したがって彼ら自身の国の維持のためにより団結せねばならない。

 この予期されうる問題ばかりでなく、偉大な帝国が彼ら自身を増強、防護するときに、ひとつの国のみからなる兵士によって戦争を行うか、一部を他の国の兵士に置き換える軍隊について、効果の面から考えねばならない。」

「この場合、多くの王国と州を統治する強大なわが陛下は、一つの軍隊か、多様な軍隊かという選択から抜け出し…将軍たちの意見をもとに

 最も使いやすい部隊、戦争の形態、兵士を召集する州や領邦を選ぶことができる。」

※9

つまりスペイン軍は戦争継続のため、長期に渡って多数の若年男性を必要としていた一方、その供給源となる地域の人口動態を荒廃させてしまうわけにもいかず、打開策として兵士の供給先を複数の地域に分散させたのである。

しかし長期にわたるネーデルランドの戦争においては、これらの分散策も十分とは言えなかった。

事実、1643年の軍事勅令ではワロン系地域から「召集される兵士にマスケットの使用に耐えうる人材がいない」事を理由として、ワロン・テルシオの装備からマスケットが外され、1634年の軍事勅令によって一旦廃止されていたアルケブスが復活している。※10

スペインにおいても1630年代以降に一部地域で召集対象者の年齢上限が上昇していく傾向がみられ、※11軍隊への人材供給先を分散していたにも関わらず、メンドーザの予期していた問題が現実のものとなっていたことが示唆されている。

野戦軍についても持続性からその混成運用が説明できる。

フランドル駐留軍は休戦期間を除いておおよそ6万人~8万人程度の兵員を有していたが、これら全てを野戦軍に振り向けられたわけではない。

1639年の場合、およそ77000名の兵員がいたが、そのうち33400名は200か所以上の拠点に守備兵として配置されていた。※12

これら守備隊と野戦軍は戦力を維持するため、定期的にローテーションを行っており、※13守備隊となった部隊は補充や訓練を行って戦力の回復と維持に努めた。

スペイン軍は多様な地域出身の兵士から構成されていたものの、それらの兵士たちは平等な扱いを受けていたわけではなかった。

兵士一人あたりにかけていた費用や会戦の際の配置からその序列を推察することができる。

最も費用を費やされていたのは当然ながらスペイン人であり、次いでイタリア人、ドイツ人、ワロン人と続く。

スペイン兵一人当たりの費用はワロン系兵士の1.75倍に及んだ。※14

会戦においてスペイン人部隊は常に「最も栄誉ある」位置とされる最前列最右翼に配置されており、最精鋭部隊であると見なされていた。※15

また、スペイン人部隊の左隣は常にイタリア人部隊が位置していた。これはバリーの陣形図にも共通する位置関係である。

1607年、1643年におけるスペイン野戦軍の編成が示すように、両者は軍全体の比率と比較して高い割合で野戦軍に編成されていることからも、

戦力として強く期待されていたことがうかがえる。

しかしスペイン人とイタリア人は軍全体で1万人強ほどの兵員しかおらず、両者のみで野戦軍を構成することは不可能であったため、

他の地域出身の兵士を野戦軍に組み込む必要が生まれた。

この時、仮に一地域のみを組み込むと、野戦軍が甚大な被害を被った際、ある地域出身兵士部隊だけ突出して兵員が少ないという事態を招くことが予想される。

その際は新たに新兵の補充を行う必要性が生まれるが、当時のスペイン軍の新兵訓練はスペイン人部隊・イタリア人部隊を除いて各部隊で直接行われていた。

そのため著しい損耗は部隊内で行われる新兵の教練などにも影響を与え、部隊の持続性を損なう可能性がある。

結果として、部隊を維持持続させるために、野戦軍も各地域ごとに分担させる方針となったと考えられる。

1629年の例に見る宿営地の混成は、スペイン軍内の序列及び統制の二点から理解することができる。

当時アイルランド人部隊は野戦において第二列最右翼に配置されるなど※16、スペイン軍内においてある程度の評価を得ていた。

そのため、守備を増強するために一部の部隊が配置されたと理解できる。

加えて、メンドーザは行軍中の宿営について次のように語っている。

「宿営所に2つの国の部隊を公平に配置することで、それぞれの部隊は一つよりも強くなる。

 …方陣をそれらの国を混成して方陣を形作る際、ひとつの宿舎に共に宿泊した部隊はお互いの兵士たちと知り合い、

 それに従って兄弟愛によって戦うために結束するだろう。」

※17

つまり宿営地における混成は異なる地域出身の兵士たちを結束させるために行われていたとも理解できる。

実際には戦力の増強かつ結束を高めるための手段として宿営地における混成運用が行われていたと考えるべきだろう。

本稿をまとめると以下のような結論に至る。

当時から戦争は人的資源を消費するものとみなされており、スペイン軍は兵士の供給源となる地域の人口構成の崩壊を招かないために

兵士を召集する地域を分散させた。その結果として多様な地域出身の兵士たちからなる軍隊が生まれたが、

兵士たちの戦力的な評価は一定ではなかったため、野戦軍の地域別構成比は全体の比率と一致しなかった。

また、新兵教育の場でもある各部隊を維持するために、野戦軍そのものも各地域出身の部隊に分担させる方針となった。

多様な地域出身の部隊間の結束を高めるため、あるいは戦力の補充として、宿営地においても多様な部隊が混成されることとなった。

このような各要因の結果として『多様な』スペイン軍とその運用が生まれた、と理解できる。

さらに理解を深めるため各部隊ごとの詳細な記録を調べてみたいが、現状確認できる各部隊にフォーカスした英語書籍はアイルランド人部隊を扱ったThe Ilish in the Spanish Armiesしかない。

近世スペイン軍ははっきり言って英米であまり人気がないため、どうにもならない感があるが、とりあえず何とかスペイン語学習頑張っていくしかない。

『やらなければ、始まらない』……のじゃ。

※1

Eduardo de Melo, The Ilish in the Spanish Armies,, p1/

Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567–1659 p25‐26.

※2

The Army of Flanders p231を元に作成。

※3

The Ilish in the Spanish Armies,, p13

※4

Roger Williams, The actions of the Lowe Countries., p87.

※5

Eduardo de Mesa, La pacificación de Flandes : Spínola y las campañas de Frisia.

※6

Stephane Thion, The Battle of Rocroi, p17-18.

※7

Gerat Barry, A discourse of military discipline devided into three boockes, p105.

※8

The Ilish in the Spanish Armies, p20 p75-76.

※9

Bernardino de Mendoza, Theorique and practise of warre, p31-33.

※10

The Army of Flanders, p235.

※11

The Army of Flanders, p38-39.

※12

The Army of Flanders, p9.

※13

The Army of Flanders, p29.

※14

The Army of Flanders, p236.

※15

The Army of Flanders, p27.

The Battle of Rocroi, p19

※16

The Ilish in the Spanish Armies, p90-91 p112 p206-208.

※17

Theorique and practise, p44-45.

参考書籍(アマゾン等リンク付き)

The Irish in the Spanish Armies in the Seventeenth Century

La pacificación de Flandes : Spínola y las campañas de Frisia

The Battle of Rocroi

The Army of Flanders and the Spanish Road

Theorique and practise of warre

The actions of the Lowe Countries

A discourse of military discipline devided into three boockes