三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

三十年戦争期の軍隊における女性

三十年戦争400周年企画に寄稿しようと思っていたら普通に年末まで仕事があり完成できなかったやつです。

 

 

三十年戦争期の軍隊に多くの女性が含まれていた事はよく知られている。

彼女らの大部分は非戦闘員で、行軍中は商人と共に小荷駄段列に加わっていた。小荷駄段列自体はしばしば非常に膨れ上がっていた事が知られているが、多くは民間業者で、軍隊または兵士と何らかの契約関係にあり、本稿の対象とする軍隊という社会の中に取り込まれていた従者や一時的なパートナー関係を結んでいた女性、兵士の妻などの実数はより少ない数だった可能性がある。*1

本項では、軍隊社会の中に取り込まれていた女性のうち、以下に挙げる三者を対象として女性が軍隊の中でどのような働きをしていたか、軍隊とどのような関係にあったのかを簡単に解説したい。

 

1.娼婦・Whore

古代より軍隊に娼婦はつきものの存在であった。しかし、30年戦争の100年ほど前に、娼婦の存在そのものを揺るがすある出来事がおきた。梅毒の誕生である。

当時は梅毒に対する有効な治療法が存在せず、不治の病として恐れられており、軍隊における梅毒の流行は兵力の減少につながった。

また規律の問題もあった。娼婦の存在は軍隊の規律を乱すと考えられており、多くの軍隊では娼婦の数を制限しようと試みた。フランスでは1587年にはロレーヌ公シャルル八世が布告により「結婚していない私的な関係の女性」を軍隊と同伴させることを禁じ*2 、スペイン軍は中隊あたりの娼婦を4人までと軍事勅令によって定めていた*3 。しかし、実際にこのような規定が厳密に守られることはなかった。

一方、不特定多数との性的交渉を持つ娼婦に対し、兵士個人と契約し、その兵士の身の回りの世話を請け負う女性たちもいた。彼女らは娼婦というよりもむしろ契約による期間限定の妻に近いが、前述の娼婦との区別は曖昧で、場合によっては同一視されていることすらあった。ジョン・A・リンはこの期間限定の妻を表現する固有名詞として「Whore」を提示しており、本項でもそれに倣う。

Whoreの役割には鎧や武器などの装備の維持や兵士の荷物の運搬(当時の兵士は自分で荷物を運ばず、徒歩の場合はもっぱらWhoreや従者に運ばせていた)、食料の調達、傷病兵の看護、そしておそらく性的交渉が含まれていたとされる。

また戦闘時には必要な弾薬を輸送したり、包囲戦時には塹壕を掘り、街が陥落した際には略奪を受け持つことすらあった。

ジェームズ・ターナーによれば行軍中のWhoreはしばしば「ほっつき歩く」存在であったらしい。一方で、彼はWhoreたちが整列して固有の軍旗を掲げながら行軍している様子を目撃している*4

 

2.妻

兵士や士官の妻である女性たちは軍隊の管理下では将軍や主要な士官の妻、下級士官や兵士たちの妻、というように夫の階級によって区別されていた。それぞれの妻たちは個別の階層に属しており、将軍たちの妻は馬車、中間の階級の士官たちの妻は馬上、下級士官や兵士たちの妻は徒歩で行軍していた*4

スペイン軍の場合、夫が死亡し、寡婦となった妻は、夫の財産をオークションにかけ、その対価を得る権利が認められていた。多くの場合、下級士官や兵士の妻は再び兵士と再婚することで軍隊の中での生活を続けていたらしい。しかし、将軍や上級士官の妻の場合は、再婚の選択肢の他に夫の遺領を相続することが認められるなどの事例も存在する。

兵士の結婚に対する是非は軍事理論家の間では分かれていたようである。

兵士の妻の境遇もまた不確かなものであり、Frances Drumundはスウェーデン軍に参加した夫と再会するためにイングランドからスコットランド神聖ローマ帝国まで旅をしたが、再会した夫は彼女との結婚関係を否定し、Drummondは異国の地において1人で資金もなく取り残されることとなった*5

 

3.女性兵士

女性が戦闘や略奪に参加している例はしばしば見られるが、その多くは妻やWhoreのものであり、「兵士」という身分の女性は記録上極めて少ない。ここでは軍の憲兵記録に登録され、正規の兵士身分であった女性たちを兵士として定義する。女性兵士の詳細については後述する。

 

補助者としての女性

軍隊において、女性は兵士の補助者であると見なされていた。スウェーデン軍の将軍であったSir James Turnerは著書『Pallas Armata』で軍隊における女性について以下のように記述している*6

女性は男性の助手として創造された。軍隊において、女性は夫、特に追放された者や何度か重大な疑念を抱かれたために追いやられた者を除く、状態の悪い者にとっては偉大な助手であった。

彼女らは夫たちがその義務にある時、彼らを着飾らせ、火に燃料を加え、彼らのリネンを洗い、同じ事を他の者にもしてやる事で夫のために金を稼いだ。特に(軍隊に随伴する)キャンプの者たちにとっては、糧食や必需品を買うためにキャンプから数マイル離れた場所まで行ってくれる便利な存在であった。

 

実際には、女性の役割はTurnerが記した社会的な性的役割として区分される服の用意や洗濯、火の番や糧食の用意などだけではなくより広い範囲に及んだ。包囲戦時の防御物の構築・補修や略奪さえ行っていたとされる。

ジョン・A・リンは戦役中の軍隊の女性について、「その多くはライフパートナーでもあった」としており*7、こうした兵士と女性の関係は様々な記録に現れている。

 

例えばPeter Hagendorfはその著書の中で、マグデブルク攻囲戦中に妻から献身的な看護を受けたことを記している*8。『私の傷が包帯をしなければならないものであった時、彼女はまだ至る所が燃えている街へ向かった。彼女は私が横たわるための枕と傷を覆うためのタオルを求めていた。』

また、給料の遅配が当たり前のように行われていた当時の軍隊では、自らとパートナーのために何らかの方法で資金を調達するのは女性の重要な仕事とされていた。方法としてはTurnerが述べている洗濯や裁縫、料理以外に、略奪品の売却や商品の転売等の一時的な商人としての仕事があった。こうした商人としての仕事は、パートナーである兵士の協力があることもあった。

女性による略奪はごく一般的に行われていた。1636年のSan Juan de Luz攻囲戦では、兵士の妻たちが兵士と共に市門を攻撃し、市内で集団的な略奪を行った*9

マグデブルク攻囲戦では多くの女性が兵士と共に略奪に参加し、戦闘の死者からの略奪を行った。Peter Hagendrofはその様子を以下のように書き残している*10

多くの兵士とその妻が、死者から何か盗み撮れるものがないか探していた。…一時間半過ぎた後、妻が荷物を運ぶのを助けている老いた聖職者の女性を引き連れて街から現れた。彼女は4リットルのワインで満たされたタンカード(訳者注:取っ手のついた大きなコップのこと)を運んできた。加えて、銀のベルトと数着の服を運んできており、それらはハルバーシュタットで12ターラーで換金することができた。

 

逆に包囲戦などの際には女性は城壁の修繕や防御施設の構築などに駆り出されていた。1627年から始まったラ・ロシェル攻囲戦では、21個の中隊に編成された女性たちが、堡塁の修繕・強化、堀の修繕などに関わっていた*11

軍隊の女性たちが進駐地域の住民との関係を改善する事例もしばしば見られる。30年戦争期に一般的に見られた軍隊による収奪システムや兵士の一般家庭への宿営制は必然的に地元住民の対軍感情を悪化させ、様々な紛争を引き起こしていた。スウェーデン軍の場合、こうした状況において、主に裕福な家庭出身である士官たちの妻によって軍と地元住民の緊張緩和の努力が行われた。1633年のEichstattでは市内の城に立て篭もり降伏を拒否した守備隊によって、城内の避難民は囚われる事になったが、幾人かの士官の妻によってスウェーデン軍の護衛付きで避難することが可能になった。避難の際、女性は避難中の住民たちに付き添い、手を出そうとする兵士たちを諌めたとされる*12

 

女性は兵士を精神的な面から支える役割も担っていた。当時の軍隊生活は現代と比較して極めて厳しく、給料の遅配や疫病の発生、戦闘などで容易に兵士やキャンプフォロワーたちは命を落とした。Bergen-op-zoom攻囲戦では攻囲者であったスペイン軍は6月から10月の間に攻囲軍の36%に当たる7400名を戦病死や逃走などで失っている*13。 また、Geoffrey Parkerは当時すでに心因性の病気が原因で除隊された兵士がいることを明らかにしている*14。こうした肉体的・精神的な危機に対して、宗教的な救済が試みられていたが*15。、パートナーであった女性も兵士を補佐する上で重要であったと考えられている*16

 

当然、兵士と共に行動していた女性にもこうした危機は共有されており、更に女性は性暴力や通常の暴力の対象でもあった*17

しかし、こうした女性たちがなぜ兵士の妻となり、または兵士と契約関係を結び、軍隊に参加したのかを把握することは難しい。確実なのは多くが貧困や家庭内のトラブルから逃避先に軍隊を選び、あるいは略奪品として一般家庭から略奪されてきた女性たちである事くらいである。

 

総じて補助者としての女性は軍隊において必要不可欠な存在であり、食料の調達や傷病兵士の看護、洗濯や裁縫、そして略奪を通した現金獲得などで軍隊を維持させる上で重要な働きを担っていたと言える。しかし一方で、当時の軍事理論家には兵士の結婚や女性の帯同について反対する意見もあった。

スペイン軍に参加していたGerat Barryは著書の中で兵士の結婚について以下のような反対意見を述べている。 *18

もし彼が義務を完全に果たしたいと思うなら、彼を結婚させるべきではない。...彼は必ず王たちの正しい行いにおける栄誉ある兵士としての義務を遂行する事を怠けるようになるか、もしくは一つの事だけに十分な勤めを果たし、他のものを諦めるため、彼の妻、子供をもつ事を諦めるかだろう。

 

また、スコットランド人傭兵Robert Monroも著書の中で妻を帯同させる事に反対している *19

我々の自然にとって、愛する人を失う事は深い悲しみとなる。

従って、兵士が妻を持つ事に対し、我々は我々の敵を前にした際に、義務を果たす障害とならない場所に妻たちを定住させる事は我々の責任となる。

 

これらの主張は兵士の女性パートナーを、義務の遂行の妨げになると見なしている点で共通している。つまり多くの軍隊が女性を常に戦場に帯同していたという実情に反しているように見えるこれらの主張は、当時の軍人の理想とするプロフェッショナル意識と、現実の人間集団としての軍隊との対立であると見ることができる。もちろん常に優勢なのは後者であった。

 

では、補助者という立場ではなく、直接の暴力行使者、つまり兵士となる女性はいなかったのか?当然いたのである。しかし彼女たち兵士としての女性は、極めて数が少ないと考えられており、実際当時の記録にも稀にしか現れない。次項ではそのような女性たちについて簡単に解説する。

 

兵士としての女性

当時の軍隊は男性社会であり、軍事的指導者は一部の例外を除いてほぼ全てが男性であり、その指揮下の兵士もやはりほぼ全てが男性であった。

稀に記録に残される女性兵士はほとんどが男装しており、男性と偽って軍隊に入隊していた。

女性が戦闘に参加する事例そのものはしばしば居住している都市が包囲された際に見られる。1622年モンペリエ包囲戦ではMoureteという女性が「胸甲と兜を身につけ」男性兵士を剣で殺害したとするパンフレットが残されている*20

しかし、一時的な戦闘参加ではなく、職業として兵士を選んだ場合、女性であることが発覚すると裁判にかけられるのが一般的であり、法的には女性兵士の存在は認められていなかった。

それでも女性兵士は存在した。1634年にヒルデスハイムの医師はマスケット兵の服装をした女性捕虜を発見している。女性はスウェーデン軍に所属していた。1629年には重罪のため死刑を宣告された捕虜の中にElizabeth Leechという女性がいたが、彼女はスウェーデンの外交官に軍務のため引き渡された *21

ルドルフ・M・デッカーとロッテ・C・ファン・ドゥ・ボルは著書「兵士になった女性たち」の中で16世紀から19世紀の間にオランダにおいて確認された男装して生活していた女性119例のうち、83例が兵士もしくは水夫であったとしている。その多くは水夫で、陸上兵士であった者は22例だけだったが、これは陸上で女性兵士になったものがその正体を隠しやすく、発覚しにくかったためであり、実数よりも過小評価されている数値であるとしている*22

 

カトリック国であるスペインにもまた女性兵士はいた。カタリナ・デ・エラウソは胸を潰し、男装してコンキスタドールとして活動した*23。 彼女は当時において例外的に社会的地位を認められた女性兵士であり、国王から年金を与えられただけではなく、教皇に接見し、男装し続ける許可を得ている*24

エラウソと同様に、死後に女性である事が発覚したトレインチェ・サイモンズは、その埋葬に軍の司令官ら有力者が出席し、父親によって記念碑が築かれた。

多くの女性兵士は彼女らほど幸運ではなかった。インドの要塞で勤務していたマリットヘン・ヤンスは女性であることが発覚すると直ちに本国へ送還されたし、バーバラ・ピーテルス・アードリアンスは結婚相手の女性に本当の性別を暴かれた後で追放刑を受けた*25

 

三十年戦争の期間中、女性が公式に兵士として召集されることはなく、たとえ深刻な人員不足に陥った地域であっても、兵士として召集されるのは男性に限られていた。スペインのサラマンカでは、1630年には40代以上の男性は軍務の免除対象だったが、1640年代には70代以上まで免除対象が引き上げられた。しかし召集されるのは変わらず男性だけであった*26

 

16世紀ごろから多数出版された「逆さまの世界」をモチーフとする版画や絵画は、兵士という職に対するジェンダーロール意識を強く示唆している。これらの作品では「召使いが主人を打つ」「男が馬を背負う」などの絵と並んで武装した女性が描かれており、女性兵士が当時の人々にとってどのような存在であったかを示唆している。

こうした女性を兵士として認めない認識は、補助者としての女性に好意的な見方をしていたTurnerにも共通するもので、軍事的な必要性というより、社会的な通念がその背景にあったと考えられる*27

 

まとめ

軍事指導者や軍事理論家は軍隊における女性の数を制限するために様々な規制を設けていたが、それにも関わらず多数の女性が軍隊に参加していたことは、女性が軍隊を維持するために不可欠な存在であった事を示している。にもかかわらず、女性は「戦う兵士」の補佐役に押しとどめられており、ごくわずかな例外を除いて兵士という職が公式に女性に解放されることはなかった。

一部の地域で極端な男性不足が発生し、必要な兵員を集めるのにすでに体力が低下した老人男性に頼るようになってもこうした風潮は改められなかったのである。

 

30年戦争期における軍隊は、軍事的必要性から女性の存在を必要としながらも、男性は戦い、女性は男性を補佐し、という社会的な性的役割から免れることができなかった。

三十年戦争期以後もこの状況は変化せず、ソ連などの一部の例外をのぞいて女性が兵士として認められる事はなかった。

 

状況が変化し始めたのはごく最近の事である。

 

 

 

*1 Army of Flanders p252

*2 Women, Armies, and Warfare p70

*3 Army of Flanders p150

*4 Pallas Armata p276-277

*5 Courage and Grífe p24-25

*6 Pallas Armata p277

*7 Women, Armies, and Warfare p90

*8 Women, Armies, and Warfare p123-4

*9 The Experience of Spain’s Early Modern Soldiers p34

*10 Women, Armies, and Warfare p147

*11 Women, Armies, and Warfare p207

*12 Courage and Grífe p33-34

*13 Army of flanders, p180

*14 Army of flanders, p143

*15 The Experience of Spain’s Early Modern Soldiers p30

*16 Women, Armies, and Warfare p114-117

*17 Women, Armies, and Warfare p92-94

*18 A discourse of military discipline p6

*19 Courage and Grífe p47

*20 Women, Armies, and Warfare p204

*21 The Bavarian Army, p40

*22 兵士になった女性たち p19-20

*23 Women. Armies, and Warfare p193

*24 兵士になった女性たち p182-183

*25 兵士になった女性たち p142-143, 109-112

*26 Army of Flanders p38-39

*27 兵士になった女性たち p181-182. Women, Armies, and Warfare p96-99