三分の一

16世紀西欧軍事史やテルシオについて書く。

【試抄訳】Sancho de Londoño著『古き良き規律への対話』①

1569年に死去したSancho de Londoñoにより書かれたと思われる『古き良き規律への対話篇』の試訳兼抄訳。 できるだけ原文の意味を失わないよう心がけたつもりだが、意訳せざるを得ない部分が多く、誤訳も多いと思われる。 とりあえず前半部分の各士官の役割及び古代ローマのレギオンとの比較部分の抄訳を載せる。 中盤・後半は後々。

Sancho de Londoñoについて簡単な紹介

Sancho de Londoñoは1515年ごろに生まれ、かの第3代アルバ公の下で対フランス、対トルコの戦争で軍人としてのキャリアを積んだ人物であり、 1567年に低地地方で『反乱』が勃発すると、ロンバルディア・テルシオを率いて低地地方に駐屯した。 ダーレンの戦いでは沈黙公の進軍を阻止する重要な役割を果たすが、翌年病気のため死去する。『対話篇』はこの死後に出版されたため、他の人物が手を加えた可能性、極端な場合はLondoñoの名前を借りて完全に創作した可能性もある。

Londoño自身はいわゆる『アルバのスクール』を学んだ軍人の1人であり、その軍事思想面にもアルバ公の影響を受けていると思われる。

『規律をより良く、より古く変化させる対話篇』

フェルナンド・アルバレツ・デ・トレド、アルバ公爵、陛下の代理人にして大将軍、かつフランドルにおける統治者 私は長年あなたの栄誉と共に多くの難事に軍人として取り組んでおり、かつ聖なる事業を世界に広げる戦争が始まった後では、その偉大な出来事の数々が聞き伝えられている

(兵士の規律とレギオンとの比較)

長い平和とわずかしか行われない軍事訓練が、良い規律を忘却に押しやることを疑ってはいけない。 多くの著者が彼ら自身が見たままの支配者か、またはそれらの時代においてあらゆる合意が得られる適切な用兵を書き、彼らの主たる組織が従順に、その地位を捨てることなく、戦争において優れた行動に関わるすべての行動に関する命令を邪魔せず、多くの時間を特に常に戦争に備えることができない王室に対し義務を果たすために使い、またはそうあり続けようとする試みを忘れることに少ない時間を費やしているとしても。

もし陛下が戦争において成功に導く方法か、または容易ならざる事態について進言される必要がある時、自発的に、もしくは様々な意見からなにを受け入れるかを決定するために、特に偉大な経験が必要とされ、他の大臣と比べてよりよく軍事術を理解し、かつ憶測で軍、行政、王国に対し重要な事柄を話させないように、誠実でより経験を積んだ大将軍が、攻勢や防御等の手段を選ぶだろう。

また、中隊を率いる中隊長たちは特に最も適した人材かつ軍事専門家として十分な資質を備えた人材を探し、推挙のために名前と事績が知られているか、同じ専門家からの十分な量の信頼できる情報によって知られている人物を選ばれなければならない。

中隊長たちは、兵士やそれらの給与のことで王を失望させなくするために、名誉を保つのに十分な給与を与えられるべきである。 彼らは名誉を、昇進を、彼らの良い働きに対する恩恵を、また同じように、怠慢や誤った行いには模範的にもたらされる正確な罰を望んでいる

その入念な選抜からレギオナリオスと呼ばれていたローマの兵士たちの間では、ある時間のうちに軍の任務につくものは少なく、かつ給与は誰の不満もなく満足させるに十分な量でなければならなかった。 このような給与は、毎月与えられねばならず、公式にそれが与えられる前には、兵士たちの中隊長によって知らされ、良く用意されねばならない。 また、昇級の希望、指令によって明らかとなる任務上の奉仕の栄誉と職務、それらと同じく─例え良い結果に終わったとしても─不服従に対する罰も保たれねばならない。 不服従やそれに追従させてしまうようなものを引き起こす原因は全て取り除かれねばならない。

疑うまでもなく、このような法の遵守がローマを世界の母とし、またスペインをも無敵とするだろう。栄誉を得るための争いでは自然なように、常に指導者に率いられ、秩序のある側が、秩序なく戦う側よりも良い戦いをするように、敗北は常に貪欲から来る不服従であり、そこでは勝利ではなく反抗を見るだろう。

(士官たちの職務)

各大臣はすべての権限を与えられねばならない。良い遠征ではその職務は必要とされねばならず、かつ遠征以外の重大な苦悩によって妨げてられてはならない。

中隊長(Capitanes)は、中隊の兵士たちと共に戦わねばならないため、彼らに受け入れなければならず、発生する異常をチェックしなければならない 兵士たちは扱わねばならない武装を見せなければならないが、しかし認められる理由なしで兵士を解雇してはならない。 兵士たちを傷つけてはならず、酷使してもならない。しかし許容できる時間的余裕のない場合は、犯罪の疑いに対して罰する事が望ましい 罰は剣を用い、相手を殺すことなくなされねばならず、武器の扱いによって必要な隊員に重傷を負わせることもなされてはならない。

同じ中隊の中隊長だけが、兵士に別の中隊へ行くための許可証を与える事ができる。 しかし、連隊や軍を去る許可を与えることはできない。 兵士が不満を覚え、中隊長が許可を与えることを希望しない場合、連隊長(Maestro de Campo)は同じ連隊にいなければならない理由、または他の連隊の中隊へ行かなければならない理由を明らかにする。 しかし軍を去る許可証を与える権利は大将軍(Capitán General)にのみある。

中隊長不在の場合、少尉(Alféreces)はまたは中尉(Tenientes)が中隊長として指揮しなければならない しかしその存在が兵士たちに歓待されてはならず、兵士に許可証を与えてはならず、兵士を罰してはならず、与えてはならず、宿舎を取り上げてはならず、火縄銃手(arcabuceros)の利益を取り除くことも、兵士を評価することもしてはならない 少尉の職務は旗手のみであり、より戦い続ける意思を強めるために兵士たちに愛情を注ぎ、加えて旗は結束を表すため、少尉は大きな事件を引き起こし、旗や中隊長の名誉を引き裂いてはならない。

軍曹は彼の中隊の兵士たちに、中隊長と上級軍曹の認めた命令を与えなければならない。 特に気をつけねばならないのは各兵士が中隊長に見せた武器を一部分でも無くさずに装備しているかである。 また、兵士皆を指揮下にある軍旗の元に行かせる事も含まれる。

もし軍が駐屯地にある場合は、上級軍曹(Sargento Mayor)、中隊長、都市総督(Gobernador)は、守備兵と歩哨を配置しなければならない。 歩哨を訪れる際は、必要な監視が行われているか、または行われていないかを確認するため、注意しなければならない。歩哨が配置にいないなどの状況では歩哨を罰する事ができる。 歩哨が信頼されているために軍や駐屯地の全体が眠れるためである。 しかし、危険が迫っていない場合でも、逃亡や不服従を犯した兵は裁判を受けさせるために捉えなければならない。 またもしその場で処罰することが望ましいなら、ハルバードを持った軍曹、または冷静な騎手(gineta)に行わせる。

伍長(Cabos de escuadra)は一つの隊を形成する25名の兵士の指導者である。 伍長は分散された戦友たちを許可の下で指揮しなければならない。 兄弟たちには不適切でない素晴らしい働きをさせねばならず、中隊長の指示する武器を装備させ、中隊長の許可がない限り宿泊地でも隊を解かず、悪い事態を招かないように、隊の中で起きたことや犯罪、伍長の過失による脱走は全て報告しなければならない。 しかしこれら兵長は彼の隊の兵士には訓戒や非難以上の罰を与えてはならない。 もし兵士がすべての武器に対して十分に義務を果たせない場合、兵士が宿所の主人を悪く扱った場合、兵士が冒涜またはキリスト教徒としてふさわしくない行いをした場合、女と同棲していた場合、賭の対象に武具を用いた場合はすべて叱責し、中隊長に報告しなければならない。

補給将校(Furrieles)、特に中隊付き補給将校は文字の読み書き、計算ができなければならない。 中隊長の指令に従って兵士たちを宿泊させ、隊ごとに領収書を発行しなければならないからであり、このために兵士たち全員のリストを作成しなければならない。 給与を管理する士官が査察を行う時、リストを見つけ、各兵士への支払い額と実際の金額の根拠を得なければならない。 また、補給将校は中隊長が望んだ場合はいつでも見せることができるよう、補給品、武器、その他中隊の兵士に配布された物資の書類を持たなければならない。

太鼓と笛は人々の心を高揚させるのみでなく、口で言っても伝わらないような命令を与えるためにも必要である。 この理由のため、太鼓手は、集合、行進、武装の準備、砲兵、呼び出し、返答、前進、転回、停止、命令の発令など、必要な演奏法すべてを知っておくべきである。 また、鼓手は要塞の駐屯軍や宿営地での振る舞い方、その他の事を他の人が送られない場合のために知っておくと便利である。

司祭は兵士の懺悔や秘跡のために最も大切であり、彼らは良き人生に通じており、どのように働けば良いか知っており、各テルシオの法廷に1人いるべきであり、福音の教義を兵士に説教し、他のテルシオの司祭と通じてトリエント公会議で定められた秘跡を行うため、名誉を保つのに十分な給与が支払われなければならない。

スペイン軍では少尉が軍旗を運ばないため、旗手(abanderados)は旗を持つのに必要となる。 しかし戦わない場合、中隊が警備に赴く場合、王または大将軍の面前を通過する場合には旗を持たない。 旗手は兵士から旗が見えるよう、旗を肩で担ぐのではなく常に上げて持たなければならないため、よく訓練を受けた、適正のある、力の強い者である必要がある。 旗手が旗を持つ時、旗は目に指令を伝える道具であると同時に、結合の、またそれに従う兄弟の証でもあり、権威の象徴でもあるため、旗手は常に旗を掲げていなければならず、引きずったり、旗を地面に触れさせたりしてはならない。

(兵士たちの武装と隊列)

その他の中隊の兵士は、以下のようにパイクを持つ胸甲兵、火縄銃兵、鎧を持たないパイク兵に分けられる。

それぞれの部隊は各兵士が隊形を組むこと、例えば部隊と兵士が騎兵または多数の歩兵に林や塹壕がない開けた場所で気付かれた場合に、中隊の両側に歩兵の強みでもあり軍の女王でもあるパイク兵を置くcuadrado de gente隊形に精通した方が良い。また敵がより多い場合に備えて、適した隊列の長さと幅を理解するべきだ。

別の戦隊に立ち向かう時、 兵士は兵同士の間隔をきつく閉じ、人と人の間を通ることができないほど間隔を詰めるため、パイクはその働きを成すことができる。 パイクは腹部の最上部の位置で握り、可能な限り腹部にパイクを近接させるために左手から左肘で支える。 右手は右肩に近づけられないため、右腕は可能な限り後ろに引き、拳で握り込む。

パイクが重すぎ、特に体格が小さい者や力が弱い者にとっては掲げることも操作することも難しいという者には以下のように答えられる。 パイクを肩で担ぐ時、その重さは20分の1よりも重く感じない。もし兵士が痩せていても、担ぐことができるだろう。

戦隊の正面にはより長いパイクを配備せねばならず、また相手がパイクを捨てることも、有利な位置を占めることもなく戦えるよう想定以上を予測せねばならない。

鎧を持たないパイク兵は、火縄銃兵と共に簡易的に派遣される際や騎兵に向かない土地、鎧を着用したパイク兵が間に合わない時など多くの遠征に必要とされる。 我々が勝利した戦いでは、敵は多くの部分を打ち破られ、もし敵が決意しても、ドラムの音とともに現れる厳しい訓練を積んだ装甲槍兵によって敵騎兵は動くこともできず、銃兵単独で良い働きを行うこともできなかった。 そこで、各300人の中隊は40人の兜を着用した槍兵を含まなければならない。彼らなしでは弾雨やその他の投擲物によって、敵の要塞までたどり着けないからである。 戦隊において、この胸甲を纏い、一人一人が他の兵士と区別される槍兵たちは中央を占める。

いかなる正規の中隊でも、三分の一はアルケブス兵でなければならない。

砲兵はアルケブス兜を持ち運ばなくてはならない。 彼らは見栄え良く、安全で、恐れられねばならないからである。

アルケブス兵は全員各自の弾薬と弾丸を持たなければならない。 それらが必要になった時のためである。また弾丸は少なくとも3分の1オンスの重さがなければならない。 砲は4スパンと半スペインロッドの長さを持ち、先端は軽く、薬室は強くなければならない。

弾薬箱はイタリア人やドイツ人のように体の右側にかけ、スペイン人がやるように曲げないこと。 右側に持つことでより腰にすわり、頭を下げたり目線を下げたりすることなく箱を探れるからである。これは良い構えのためにはとても重要だ。

戦争に用いる全てのエスパーダは長すぎてはならず、腿の鞘から抜かれる際に簡単に抜けねばならない。鞘には低い位置にベルトをつけ、歩いたり走ったりする際に前後に揺れたり抜けないようにする。鞘を低く、緩くつけることはパイク兵にもアルケブス兵にも、それ以上に騎兵にとって不便である。

過去においては、現在見られるような4と半スパンを超える槍は見られなかった。

(テルシオとレギオンとの比較)

我々がテルシオと呼ぶものは、人数、序列、その他すべてが大きく異なるがローマ式レギオンの模倣物である。

ギオンは6100名の歩兵、730名の騎兵からなり、10個の部隊に分けられる。第一の部隊は歩兵1500、騎兵132からなり、他9個の部隊は歩兵555名、騎兵66名からなる。 レギオンは部隊5個からなる大隊2個からなり、レギオンの隊長は、レギオンを構成するAugustalesやFlavialesと呼ばれる他の部隊の隊長に法規を与えるため、tribuhendo que jusからTribunoと呼ばれる。他のAquilifersと呼ばれる士官や兵士はローマの旗章を運ぶ。彼らが皇帝の印章を運ぶ姿を想像して欲しい。Tesarariosは発せられた指令や皇帝か上位の指揮官の使者を運ぶ。Opcionesは大隊を注意深く巡り、苦しむ者や気力を失った者に治療を与える。CampígenosまたはAntesignanosは、軍隊の拡張のために働き、Metadoresは設営場所のために高貴な人の前を行く。 Armaturaaduplaresは通常の2倍の給料、または食料を受け取る者である。 Librariosは兵士の数を書物に記す。 Tubicines−トランペッター、Cornicines−コーニセン、Bucinatores−ホルンを持つ。 Mensoresは兵舎とその土地の正確な測量を行い、Beneficiariosは彼らの税のため、雇用され、先導役を務める。

ルシオはこのようなレギオンの模倣物として設立されたが、レギオンと等しい点は少ない。人数は公式には3000人のためレギオンではなくテルシオと呼ばれるが、実際には半分ほどで、上述のように1000人以上であり続けることは稀だが、かつては各テルシオは12個の中隊を持ち、現在もいくつかのテルシオはそれ以上の中隊を持つが、他のテルシオはそれよりも中隊の数が少ない。テルシオにはかつて3人の大佐(Coroneles)がおり、彼らは12個の中隊の3人の中隊長でもあった。

連隊長は護民官(Tribuno)とレギオンのの権限を持つのが常であり、我々の過去のCapitánよりもその権限は小さい。 中隊長は、頭巾を使用するべきでなく、部下の旗手、軍曹、伍長にも同様にするべきである。

倍の給料、または多くの給料を受ける兵はとても少なく、通常は多くの名声を得た特定のスペイン歩兵である。 中隊長自身は、より功績のある者を不愉快にさせないように、より高い給与を受け取るべきでない者を選ぶべきでない。

ルシオとレギオンの比較に戻ると、テルシオは多くの役職を失っており、必要な役職のみをそれらの中に内包している。

ルシオの連隊長はレギオンの完全な護民官が持っていた権力を持ち、彼のテルシオの中隊長、士官、兵士に指示し、正義を執行する。必要な書類はかつてのように全て彼ら─上級軍曹、鼓笛隊隊長、中隊長、監察官、補給将校─に、傷病兵の治療については医官や主任外科医に頼らなければならない。

上級軍曹はレギオンのTesarariosのように、連隊長より与えられた指令をテルシオの中隊長、士官、兵士たちに伝えねばならない。 上級軍曹は特に戦闘、行軍においては、どこに向かって移動し、どこで方陣を組むかなどを指示するため、常に多くのことしなければならない事柄があることから、部下として少尉または助手を持たなければならない。彼らは上級軍曹が連隊長に対しするように、与えられた命令に従わなければならない。 彼らは大いに勤勉であり、知恵があり、経験を積み、計算能力と理性をもち、任務がもたらす仕事に耐えられる人物でなければならない。

指令、方陣、守備、歩哨に対する不服従は、騎兵用鞭か指揮棒、剣で罰されなければならない。 しかし、軍に必要となるメンバーを殺してはならない。

鼓笛隊隊長(Atambores Generales)は隊列に下される指令全ての違いを理解しなければならない。なぜなら彼らが指令を聞き取れなかったり、理解できなかったりしたために、戦場で無数の勝利が失われる出来事が突然の事故を伝える方法を失ったために起こったからであり、これがレギオンの指揮官たちがトランペッターやその他の効果を持つ楽器を配備していた理由でもある。

各連隊長は1人のトランペッターを鼓笛隊隊長の補佐とする。軍の他の鼓笛隊や軍人の囁き声により、主要な鼓笛隊が指示を聞き取れない場合に、トランペットの様々な音によって指示を伝えるためであるが、テルシオの鼓笛隊全てが鼓笛隊の主要な音とトランペットの音の違いを理解しなければならない。

執行吏(Barracheles)または中隊長が遠征に赴くよう言われる時、兵士に恐れられることが必要となる。兵士が中隊長を恐れない場合は命令を無視し、裁判への恐れがなくては慈悲も乞わず、行軍中の囚人は容易に脱走してしまう。これが執行吏が脱走兵や命令なしに逃げ出す者、遠征に支障を来たす者の追跡に熱心な理由であり、このような者には厳格な罰を与えなければならない。 これらの職務をよく執行するために、必要なだけの騎兵と厳格な正義を行う道具類を持たなければならない。

連隊長と同じく、罪人を捉える廷吏、獄吏、死刑を含む刑の執行者やその他の刑罰を与える伍長は、失礼な扱いを受けてはならず、より多くの給与を受けてはならず、また名誉とされる職務を解かれてはならない。 絞首刑は裏切り、窃盗、叛乱に対してのみ執行されるべきで、その他の死に値する罪は斬首、囚牢、追放にする。

ルシオの先任補給将校はレギオンのmetatoresのように、行軍中にいつ宿泊するか知っておかなければならない。それによって、全ての中隊の補給将校にどこに泊まるかを指示しなければならない。 彼らは特に遠征では何度もテルシオがどこで宿泊するかの選択を行うため、赴く場所、時間の知識を持つ実用的な人間でなければならない。

医官と外科医はテルシオの苦しむ兵士や負傷した兵士を満足に治療しなければならない。

上述の士官たちは尊敬されるべき人々だが、連隊長の指示に対して怠慢にならないよう、連隊長個人に常に付き従い、部下として振舞わねばならない。

各テルシオは少なくとも3000名の人員がいなければならず、また、レギオンのように必要なもの───幾度も単独で野営し、または何マイル先まで何も見つからない場所を行軍し、敵軍を破り、銃職人や大工がいなければ作れない弾薬箱や、簡単に川を渡るための橋やその他同じように必要なもの───は全て軍の中になければならない。

イングランド軍事書籍に見る騎兵種と騎兵防具の変遷 1598-1671

本稿では1598年に出版されたRobert Barret著『The theorike and practike of moderne warres』から1671年出版のGeorge Monck著『Observations upon military & political affairs』までのイングランドで発行された軍事書籍5書から騎兵種と騎兵防具の変遷を追った。騎兵種と騎兵防具の変遷はしばしば16世紀から17世紀の軍事上の変化を表すものとされながら、その詳細はあまり知られておらず、何がいつどのようにどの地域で変化したのかを詳述した日本語書籍は意外とない。この文章はイングランド*1で発行された軍事書籍を対象に、何がいつどのように変化したのかを記述することを目的にしている。対象とした書籍の少なさや史料批判など問題は色々あるがとりあえずやっていく。記述形式として最初に軍事書籍の中から騎兵種と騎兵防具の変遷に関わる記述を時系列順に書き出し、次いで騎兵種の変遷と騎兵防具の変遷について記し、最後に結論を述べる。

イングランド軍事書籍における騎兵種と騎兵防具の変遷

出版年:1598年
著者:Robert Barret
The theorike and practike of moderne warres

Man at Armesはcuyrass of proof(防弾胸甲)とbeaver(顎あて)のついたclose helmet、gorget(喉当て)、pouldrons(肩甲)、vambraces(腕甲)、gauntlets(籠手)とtaisses(下腹部から腿を覆う防具、草摺)、鋼鉄で先端が覆われた強力な馬上槍と剣、鞍に取り付けたメイス…で完全に武装している(armed complete,)。 …このCōpanie of Ordinanceは数少ないが、質が高く、良い生まれの紳士(Gentles of good birth)であり、その突撃は凄まじい。

Lanciersの武装は前面がPistoll proofeであるペアになった良い胸甲、覗き見のついた頑丈なcask、肩甲には二つのl’ames、二つか三つはPistoll proofeな草摺を身につける。肩甲、腕甲、籠手、草摺、胸甲は軽い方が良いだろう。鋭く尖った馬上槍、良質なカトラス、短剣、鞍には皮のケースに一丁のピストルを持つ。

PetranellとPistolierはpistoll proofe(防弾)な胸甲とLancierのようなオープンブルゴネットと良い肩甲、右手の籠手で武装し、腕甲は身につけない。その代わりにLancierのものと比べてより安く、軽量な武装となる。上質なショートソードと短剣、スナップハンス式の一丁のPetranell(特徴的な銃床を持つ銃)、またはフランスで用いられているような長めのピストルと鞍に取り付けれられた革のケースか、ペアになったピストルをR•yttersのように(原文:as do the R•ytters)一つのケースに納めて持つ。彼らの働きは(原注:前述のLancierのように)敏捷な働きがほとんどであり、銃手による備えが十分でないパイク兵を苛立たせることにある。

出版年:1625年
著者:Gervase Markham
The souldiers accidence. Or an introduction into military discipline containing the first principles and necessary knowledge

旧流の戦争と火力の時代の前には、最も優秀なのは全員が貴族や騎士で構成されていたMen at ArmesまたはGentlemen at Armesと呼ばれる騎兵であった。…彼らは頭をclose cask、首には喉当て、Hargobus proofeな胸当てとそれよりは防護力の低い背当て、肩には肩当て、腕には腕甲、手には籠手、下腹部は草摺、膝にはCui?ses、足にはすね当てと全身を防具で覆い、ヴェルベット、サテン、S**ke、その他の備品とガードル、とハンガーを欲していた。攻撃のためにはguilt Swordと短剣、先端が鋼鉄で覆われた馬上槍、弾薬箱と数丁のピストル、戦斧を持っていた。

第二の騎兵はLaunciersまたはDemilaunciersと呼ばれ、全身をGentlemen at Armesと同じく覆っていた。 攻撃のために馬上槍、数丁のピストル、戦斧、剣と短剣を持つ。

第三の古流な騎兵はLight-horseと呼ばれ、ブルガネットか鉄帽と、喉当て、CuiratかPlate-coats、籠手か鎖の手袋で武装していた。 攻撃のために、細身の彫金されたピストルを一丁、または複数と剣と短剣を持っていた。

一般的な第一の主要な騎兵は、CuirassiersまたはPistol∣leirsと呼ばれ、これらの兵士はGentlemanの地位に当たることから最も高度な者たちでなければならず、また尊敬されなければならない。彼らは防具として喉当て、Cuirat, Cutases、小札またはGuard-de-Reine…肩甲と腕甲、左手の籠手、草摺、Cuisses(太ももを防護するため防具、腿当て)、兜…を持つ。攻撃のために、スナップハンス式の長いピストル数丁を持つ。

第二の、そして騎兵の多くを構成する兵科はHargobusseirsと呼ばれ、彼らは最良の自由農民か、活発で敏捷な体を持つ最良の使用人からなる..二等級の者である。これらの兵士は防具として、喉当て、胸甲、草摺、肩当て、腕甲…を持つ。攻撃のために、3フィートのHargobus(アルケブスの異体字であると思われる)と弾薬箱、良質な剣を持つ。

最後に騎兵を構成する兵種はDragonsと呼ばれ、騎乗歩兵の一種であるが、むしろlight Horsemenの後継であり、あらゆる戦争活動において素晴らしく役立てられている。彼らの防具は頰当て付き兜、良いバフコートであり、攻撃のために鉄製のDragon(Dragon用の銃器と思われる)を右肩に通した皮のベルトにもち、銃と鉄の輪で繋げられている。これらのDragonは16インチの銃身とマスケットの口径をもち、ファイアロック式かスナップハンス式である。彼らはまた弾薬箱も携帯する

出版年:1632年
著者:John Cruso
Militarie instructions for the cavallrie

Lancier 彼の武装はclose casqueまたは兜、喉当て、胸甲、 pistoll proof(原注:胸甲あらゆる部分を含む)であり、calliver proof(原注:placcateを加えることによる)な背甲、肩甲、脛当て、二つの籠手、tassets, cuissets, culets,またはguard-de-reinである。これらは全て体に合ったものになる。吊るし輪と帯のついた一振りの良い剣(硬く、よく切れ、鋭いもの)を胸甲に抜きやすいよう身につけ、長い裾のついたバフコートを鎧と服の間に着る。彼の馬上槍は以下の方法であることが望ましい:後端にかけてやや太く、先端は三叉かもしくはパイク状であり、強く鋭く作られていること、長さは約18フィートであり、もしそうでなければ歩兵や騎兵に対して小さな効果しか得られない。後端から2フィートには穴をあけ、槍をしっかりと保持し、操るために、革紐を通して右腕で固定する。右側の鎧の外には革の受け口を取り付け、槍の後端を差し入れて置く。鞍は見目麗しく、乗り手に都合よく合うように作られ、戦闘の衝撃(原文:the violence of a shock)に対しても乗り手を固定させ続けなければならない。その時に彼は二丁とは言わないでも一丁の、十分な口径と長さをもつピストルを、銃に重要なものやカートリッジと持つべきである。

Of the arming of the Cuirassier Cuirassierは全ての箇所に防具を纏い、腕の下にバフコートを騎兵槍のように身につける。・・・彼は銃身長18インチ、20口径のファイアロック式ピストルのケースを二つ持ち、鞍に吊り下げ、Lancierの持つような鋭い良質な剣を持たなければならない。 この種の騎兵は最近Lancierが以下に挙げる理由のために得難い時期に考案された。その理由として最初にあげられるものは馬によるもので、それは必ず良質であり、よく訓練されていなければならない。次の理由は彼らの給料が金銭の欠乏のため引き下げられた事、三つ目の、そして主要な理由として、学ぶためにより苦心と勤勉さが必要な槍を用いるための練習・訓練の欠乏がある。Cuirassierはこの槍からLancierを解放するためだけに考え出された。

Harquebusierはピエモンテでの戦争中にフランスで考案された。MelzoとBastaはどちらも(訳柱:Harquebusierが)武装していないか(ただし彼らは他の者によりこれが否定されていると認めている)、わずか(頭部と胸部のみ)な、しかし最も重要な箇所にのみ防具をつけているとしている。 しかし、低地地方連合諸州の勅令では、明白にHarquebusierがopen cask、喉当て、騎兵用の背甲および胸甲を身につけなければならないと命令しており、Captain Binghamは、低地地方においてpistoll proofな胸甲を配置した。その上戦争評議会によって議決された最新の指令によれば、Harquebusierは(上質なバフコートに加えて)Cuirassiersの装備するpistoll proof背甲と胸甲、兜を装備している。

Of the arming of the Dragon. Dragonはパイクとマスケットの2種類に分けられる。パイクはより運びやすくするために中程に革の紐を持つ。マスケットは銃床のほとんど端から端まで紐またはベルトが留められており、これによって背中にマスケットを吊るす事で左手で燃える火縄を持ち続ける事ができる。 ...Dragonは騎兵を補佐する特別な任務のために歩兵として発案された。

出版年:1639年
著者:Robert Ward
Anima'dversions of warre

Cuirassierは完全に武装し、pondrous armourが体を挟むのを防ぐために良いバフコートと共にCapapèを身につける…そして鞍には…両側に良質な、銃身18インチ、20口径または24口径のファイアロック式のピストルを入れたケースを取り付け、スパナと弾薬箱、剣をもち、敵と識別するため腕にスカーフを取り付ける。彼の戦争での役割は主に守備的なものになる。

これらの種の騎兵(訳注:HarquebuziersとCarbinesと呼ばれる騎兵を指す)はopen Caske、喉当て、Pistoll proofe以上の背甲と胸甲、体を打撲から守るための上質なバフコートで武装する。首からは革の紐を下げ、Cuirassiersのように弾薬箱とフラスコを繋げる輪に通す。

出版年:1671年
著者:George Monck
Observations upon military & political affairs

騎兵の武器は以下にあげるものである。 良い銃床を持つスナップハンス式の騎兵銃(原文:Carbine)、または銃身を騎兵銃の銃身の長さを持つマスケット—-これは単なるカービンよりも握りやすいと考える。そして長い縫いひだとベルトも持ったピストル数丁を収めるケース。 騎兵の防具は以下にあげるものである。 顔面を守るための三本の鉄の横棒を持つ兜、背甲と胸甲、この三つはPistol-proofである。左手には籠手または良質で長いバフグローブ。幅8インチの二重のもみ革でできたガードルはダブレットの下に身につけ、ダブレットに引っ掛け、一緒に留める。もみ革を見つけるのが難しいか高価な場合、未去勢の雄牛か去勢済みの雄牛の革から作る。

Dragoonの武器は以下にあげるものである。 マスケット一丁、またはスナップハンスをマスケットの銃身に取り付けたもの—-Dragoonが馬上でスナップハンスを扱う場合や夜間に敵に発見されないようにするにはより良い。Dragoonはマスケットを吊るすベルトと二本の負い革、長い裾のついたベルトを装備しなければならない。 また全てのDragoonはスワインフェザーを装備しなければならない。

騎兵種の変遷

Barretは騎兵をは3種類ないしは4種類に区分し、このうちMan at ArmesをGentleからなる全身を防具で覆った槍騎兵としている。これはおよそ30年後にMarkhamによって「旧流」と見なされており、Barretの時代にはすでに減少していたこの兵種は、1620年代までに姿を消していた。 一方で、同じく槍騎兵の一種であるLancierもMarkhamによって「旧流」の枠に入れられているが、Crusoは現役の兵種であるCuirassier等と同等に扱っている。これはMarkhamとCrusoがそれぞれ異なる情報に基づいて執筆したためと思われる。Crusoは執筆の際にGiorgio BastaやLodovico Melzoなど、イングランド国外の軍人によって1600年代初頭に執筆された騎兵の戦術教本を参考にしており*2、一方Markhamは1601年までに軍人としてのキャリアを積み、馬に関する専門的な著作を含む多数の著書を持つなどしていた*3。記述の差異はこうした2人の著者の背景に由来すると思われる。つまり2人のうちどちらかの記述が正しいかと言う観点ではなく、当時存在した騎兵の装備に関する様々な意見を反映したものと考えるべきであり、Lancierはイングランドでは見られなくなったが大陸では縮小しながらも戦力として存在していたのだろう。CrusoがCuirassierを「Lancierを槍から解放するために発案された」とLancierの後継兵種として扱っているのも重要である。Crusoよりやや遅くに出版されたWardの著書に、Lancierに関する記述が無いのもそのためと思われる。 Barretの著書に見られるその他の騎兵種のうち、Pistolierは短銃を装備する点から見て後のCuirassierに近く、もう一つのPetranellはHargobusseirs(又はHarquebusier、Harquebuziers)、もしくはDragonerと同じ兵種であるように見える。 MarkhamはDragoonを「騎乗歩兵の一種であるが、むしろlight Horsemenの後継であり」としており、Crusoも「Dragonは騎兵を補佐する特殊な任務のために歩兵として発案された」と述べていることから、この二者はDragoonを通常の騎兵と異なる騎乗歩兵としていることがわかる。しかしBarretはPetranellが騎乗歩兵であるのか騎兵であるのかについて触れておらず、単に機動力が高いSkermisherであるとしか述べていない。Barretの認識ではこの二種の兵種は未だ未分離であったと考えるべきだろう。 Markhamの言うlight HorsemanはBarretの言うPetranellそのものか近い兵種であり、1598年以降に騎乗戦闘を行う兵種と下馬戦闘を行う兵種に分離したと考えられる。
1671年のMonckはHarquebusseirについて触れず、馬上でスナップハンス式の銃器を扱うDragoonについて記述している。これはDragoonがもはや騎乗歩兵ではなく騎兵種として認識されていたことを示しており、この時点でHargobusseirとDragon両者が統合されていたか、Dragonが馬上戦闘を行うようになった結果Hargobusseirsが役割を失い消滅したと考えるべきだろう。

騎兵防具の変遷

騎兵の装備、特にCuirrasierに比例される騎兵種の防具は1598年のBarretから1639年のWardに到るまでほぼ変化がなかったと思われる。

Markhamが詳述しているCuirassierの防具はBarretが詳述するPistolierよりもLancierに胸甲の有無やCuirat, Cutases、Cutasesなど多くの点で共通しているが、これはCrusoの主張にあるCuirassierが誕生した経緯が「Lancierを槍から解放するためだけに考え出された」とある通 り、当初のCuirassierが「槍を持たないLancier」として考案されたためと考えられる。
WardおよびCrusoはCuirassierの防具を「to be compleately armed」「be armed at all points」と記述しているが、これは全身を防具で覆っていた事を示すものだろう。
一方でHaruquebusier、Dragonerの装備には変遷があったことがうかがい知れる。
BarretはPetranellは胸甲を身につけないとしており、MarkhamもDragonsの胸甲には触れず、兜とバフコートのみを記述している。しかしMarkhamはHargobussierが胸甲や肩当てを装備しているとしている。CrusoはHarquebusierについてMelzoとBastaが異論を認めつつもほとんど武装していないか頭部と胸部のみ防具を着用しているとしているが、低地地方の勅令では背甲を含む装備が規定されたとしており、Dragonについては防具に触れていない。WardはHarquebuziersおよびCarbinesに対し兜、背甲、胸甲を装備しているとしている。 これらの変化をまとめると1598年から1639年の約40年間の間にHaruquebuzierとDragonerは兜や胸甲の有無など身体の重要部について細かい変化があった可能性が高い。 最終的に1671年のMonckの著書ではCuirassierを含む騎兵の防具はごく簡素化され、胸甲と背甲、籠手、兜のみとなっており、Dragoonの防具については何も触れられておらず、ほぼ防具を持たなかったと推察される。

結論

本項で記述した騎兵種および騎兵防具の変遷をまとめると以下のようになる。

1598年において重要視されていたものの、すでにその数を減らしていた「Man at Armes」は約20年後までに消滅していた。Lancierの消滅はやや遅く、Crusoを信じるならばCuirassier(Barretの記述するPistoilerと同兵種である可能性もある)に統合された可能性が高い。 HaruquebussierおよびDragonは1598年時点ではPetranellという一つの兵種であったと認識されており、その後1620年代までに分離した兵種と見なされたが、1670年代には再び統合された兵種と見なされている。
Cuirassierの騎兵防具は1630年代中までは大きな変化が認められず、1670年代になって腕甲などが消え、胸甲・背甲・籠手・兜のみを防具として着用する事となった。一方で1630年代まで兜などの防具を有していたHarquebussierは1670年代にはDragoonと統合され、ほぼ防具を持たない兵種となっていた。
いずれの兵種も防具に大きな変化が起きたのは1640年代以降と推察される。

本稿の結論として以下を述べる。
騎兵種のうち「Man at Armes」は1620年代までに消え去り、「Petranell」は1620年代までに「Haruquebussier」、「Dragon」という二つの兵種に分離した。「Lancier」は「Man at Armes」よりは長く残ったが1630年代中にほぼ消滅したか、Pistolierの流れを汲む「Cuirassier」と統合された。この結果、1640年代頃には「Cuirassier」「Haruquebussier」「Dragon」の3兵種が存在した。その後1670年代までに「Haruquebussier」「Dragon」が統合され、騎乗歩兵と見なされていた「Dragon」は馬上で射撃を行う兵種へと変化した結果、1670年代初頭には「Cuirassier」と「Dragoon」の2兵種が残った
このうち「Cuirassier」は1630年代まではほとんど防具を変化させず、腕甲などで全身の多くの部位を覆っていたが、1640年以降に防具を失い、1670年代には兜・胸甲・背甲・籠手のみを着用していた。 一方「Haruquebussier」は1630年代中に細かい防具の脱着を経ていたが、1640年代以降、「Dragon」と統合される過程で防具を失い、1670年代には防具を持たない兵種となっていた。

*1:ググれば簡単にテキストベースの文献が出てくる上に英語だから翻訳しやすい

*2:Thomas M. Spaulding, "Militarie Instructions for the Cavallerie” The Journal of the American Military History Foundation, Vol. 2, No. 2

*3: MEDICAL USE OF A SIXTEENTH-CENTURY HERBAL: GERVASE MARKHAM AND THE BANCKES HERBAL

三十年戦争期の軍隊における女性

三十年戦争400周年企画に寄稿しようと思っていたら普通に年末まで仕事があり完成できなかったやつです。

 

 

三十年戦争期の軍隊に多くの女性が含まれていた事はよく知られている。

彼女らの大部分は非戦闘員で、行軍中は商人と共に小荷駄段列に加わっていた。小荷駄段列自体はしばしば非常に膨れ上がっていた事が知られているが、多くは民間業者で、軍隊または兵士と何らかの契約関係にあり、本稿の対象とする軍隊という社会の中に取り込まれていた従者や一時的なパートナー関係を結んでいた女性、兵士の妻などの実数はより少ない数だった可能性がある。*1

本項では、軍隊社会の中に取り込まれていた女性のうち、以下に挙げる三者を対象として女性が軍隊の中でどのような働きをしていたか、軍隊とどのような関係にあったのかを簡単に解説したい。

 

1.娼婦・Whore

古代より軍隊に娼婦はつきものの存在であった。しかし、30年戦争の100年ほど前に、娼婦の存在そのものを揺るがすある出来事がおきた。梅毒の誕生である。

当時は梅毒に対する有効な治療法が存在せず、不治の病として恐れられており、軍隊における梅毒の流行は兵力の減少につながった。

また規律の問題もあった。娼婦の存在は軍隊の規律を乱すと考えられており、多くの軍隊では娼婦の数を制限しようと試みた。フランスでは1587年にはロレーヌ公シャルル八世が布告により「結婚していない私的な関係の女性」を軍隊と同伴させることを禁じ*2 、スペイン軍は中隊あたりの娼婦を4人までと軍事勅令によって定めていた*3 。しかし、実際にこのような規定が厳密に守られることはなかった。

一方、不特定多数との性的交渉を持つ娼婦に対し、兵士個人と契約し、その兵士の身の回りの世話を請け負う女性たちもいた。彼女らは娼婦というよりもむしろ契約による期間限定の妻に近いが、前述の娼婦との区別は曖昧で、場合によっては同一視されていることすらあった。ジョン・A・リンはこの期間限定の妻を表現する固有名詞として「Whore」を提示しており、本項でもそれに倣う。

Whoreの役割には鎧や武器などの装備の維持や兵士の荷物の運搬(当時の兵士は自分で荷物を運ばず、徒歩の場合はもっぱらWhoreや従者に運ばせていた)、食料の調達、傷病兵の看護、そしておそらく性的交渉が含まれていたとされる。

また戦闘時には必要な弾薬を輸送したり、包囲戦時には塹壕を掘り、街が陥落した際には略奪を受け持つことすらあった。

ジェームズ・ターナーによれば行軍中のWhoreはしばしば「ほっつき歩く」存在であったらしい。一方で、彼はWhoreたちが整列して固有の軍旗を掲げながら行軍している様子を目撃している*4

 

2.妻

兵士や士官の妻である女性たちは軍隊の管理下では将軍や主要な士官の妻、下級士官や兵士たちの妻、というように夫の階級によって区別されていた。それぞれの妻たちは個別の階層に属しており、将軍たちの妻は馬車、中間の階級の士官たちの妻は馬上、下級士官や兵士たちの妻は徒歩で行軍していた*4

スペイン軍の場合、夫が死亡し、寡婦となった妻は、夫の財産をオークションにかけ、その対価を得る権利が認められていた。多くの場合、下級士官や兵士の妻は再び兵士と再婚することで軍隊の中での生活を続けていたらしい。しかし、将軍や上級士官の妻の場合は、再婚の選択肢の他に夫の遺領を相続することが認められるなどの事例も存在する。

兵士の結婚に対する是非は軍事理論家の間では分かれていたようである。

兵士の妻の境遇もまた不確かなものであり、Frances Drumundはスウェーデン軍に参加した夫と再会するためにイングランドからスコットランド神聖ローマ帝国まで旅をしたが、再会した夫は彼女との結婚関係を否定し、Drummondは異国の地において1人で資金もなく取り残されることとなった*5

 

3.女性兵士

女性が戦闘や略奪に参加している例はしばしば見られるが、その多くは妻やWhoreのものであり、「兵士」という身分の女性は記録上極めて少ない。ここでは軍の憲兵記録に登録され、正規の兵士身分であった女性たちを兵士として定義する。女性兵士の詳細については後述する。

 

補助者としての女性

軍隊において、女性は兵士の補助者であると見なされていた。スウェーデン軍の将軍であったSir James Turnerは著書『Pallas Armata』で軍隊における女性について以下のように記述している*6

女性は男性の助手として創造された。軍隊において、女性は夫、特に追放された者や何度か重大な疑念を抱かれたために追いやられた者を除く、状態の悪い者にとっては偉大な助手であった。

彼女らは夫たちがその義務にある時、彼らを着飾らせ、火に燃料を加え、彼らのリネンを洗い、同じ事を他の者にもしてやる事で夫のために金を稼いだ。特に(軍隊に随伴する)キャンプの者たちにとっては、糧食や必需品を買うためにキャンプから数マイル離れた場所まで行ってくれる便利な存在であった。

 

実際には、女性の役割はTurnerが記した社会的な性的役割として区分される服の用意や洗濯、火の番や糧食の用意などだけではなくより広い範囲に及んだ。包囲戦時の防御物の構築・補修や略奪さえ行っていたとされる。

ジョン・A・リンは戦役中の軍隊の女性について、「その多くはライフパートナーでもあった」としており*7、こうした兵士と女性の関係は様々な記録に現れている。

 

例えばPeter Hagendorfはその著書の中で、マグデブルク攻囲戦中に妻から献身的な看護を受けたことを記している*8。『私の傷が包帯をしなければならないものであった時、彼女はまだ至る所が燃えている街へ向かった。彼女は私が横たわるための枕と傷を覆うためのタオルを求めていた。』

また、給料の遅配が当たり前のように行われていた当時の軍隊では、自らとパートナーのために何らかの方法で資金を調達するのは女性の重要な仕事とされていた。方法としてはTurnerが述べている洗濯や裁縫、料理以外に、略奪品の売却や商品の転売等の一時的な商人としての仕事があった。こうした商人としての仕事は、パートナーである兵士の協力があることもあった。

女性による略奪はごく一般的に行われていた。1636年のSan Juan de Luz攻囲戦では、兵士の妻たちが兵士と共に市門を攻撃し、市内で集団的な略奪を行った*9

マグデブルク攻囲戦では多くの女性が兵士と共に略奪に参加し、戦闘の死者からの略奪を行った。Peter Hagendrofはその様子を以下のように書き残している*10

多くの兵士とその妻が、死者から何か盗み撮れるものがないか探していた。…一時間半過ぎた後、妻が荷物を運ぶのを助けている老いた聖職者の女性を引き連れて街から現れた。彼女は4リットルのワインで満たされたタンカード(訳者注:取っ手のついた大きなコップのこと)を運んできた。加えて、銀のベルトと数着の服を運んできており、それらはハルバーシュタットで12ターラーで換金することができた。

 

逆に包囲戦などの際には女性は城壁の修繕や防御施設の構築などに駆り出されていた。1627年から始まったラ・ロシェル攻囲戦では、21個の中隊に編成された女性たちが、堡塁の修繕・強化、堀の修繕などに関わっていた*11

軍隊の女性たちが進駐地域の住民との関係を改善する事例もしばしば見られる。30年戦争期に一般的に見られた軍隊による収奪システムや兵士の一般家庭への宿営制は必然的に地元住民の対軍感情を悪化させ、様々な紛争を引き起こしていた。スウェーデン軍の場合、こうした状況において、主に裕福な家庭出身である士官たちの妻によって軍と地元住民の緊張緩和の努力が行われた。1633年のEichstattでは市内の城に立て篭もり降伏を拒否した守備隊によって、城内の避難民は囚われる事になったが、幾人かの士官の妻によってスウェーデン軍の護衛付きで避難することが可能になった。避難の際、女性は避難中の住民たちに付き添い、手を出そうとする兵士たちを諌めたとされる*12

 

女性は兵士を精神的な面から支える役割も担っていた。当時の軍隊生活は現代と比較して極めて厳しく、給料の遅配や疫病の発生、戦闘などで容易に兵士やキャンプフォロワーたちは命を落とした。Bergen-op-zoom攻囲戦では攻囲者であったスペイン軍は6月から10月の間に攻囲軍の36%に当たる7400名を戦病死や逃走などで失っている*13。 また、Geoffrey Parkerは当時すでに心因性の病気が原因で除隊された兵士がいることを明らかにしている*14。こうした肉体的・精神的な危機に対して、宗教的な救済が試みられていたが*15。、パートナーであった女性も兵士を補佐する上で重要であったと考えられている*16

 

当然、兵士と共に行動していた女性にもこうした危機は共有されており、更に女性は性暴力や通常の暴力の対象でもあった*17

しかし、こうした女性たちがなぜ兵士の妻となり、または兵士と契約関係を結び、軍隊に参加したのかを把握することは難しい。確実なのは多くが貧困や家庭内のトラブルから逃避先に軍隊を選び、あるいは略奪品として一般家庭から略奪されてきた女性たちである事くらいである。

 

総じて補助者としての女性は軍隊において必要不可欠な存在であり、食料の調達や傷病兵士の看護、洗濯や裁縫、そして略奪を通した現金獲得などで軍隊を維持させる上で重要な働きを担っていたと言える。しかし一方で、当時の軍事理論家には兵士の結婚や女性の帯同について反対する意見もあった。

スペイン軍に参加していたGerat Barryは著書の中で兵士の結婚について以下のような反対意見を述べている。 *18

もし彼が義務を完全に果たしたいと思うなら、彼を結婚させるべきではない。...彼は必ず王たちの正しい行いにおける栄誉ある兵士としての義務を遂行する事を怠けるようになるか、もしくは一つの事だけに十分な勤めを果たし、他のものを諦めるため、彼の妻、子供をもつ事を諦めるかだろう。

 

また、スコットランド人傭兵Robert Monroも著書の中で妻を帯同させる事に反対している *19

我々の自然にとって、愛する人を失う事は深い悲しみとなる。

従って、兵士が妻を持つ事に対し、我々は我々の敵を前にした際に、義務を果たす障害とならない場所に妻たちを定住させる事は我々の責任となる。

 

これらの主張は兵士の女性パートナーを、義務の遂行の妨げになると見なしている点で共通している。つまり多くの軍隊が女性を常に戦場に帯同していたという実情に反しているように見えるこれらの主張は、当時の軍人の理想とするプロフェッショナル意識と、現実の人間集団としての軍隊との対立であると見ることができる。もちろん常に優勢なのは後者であった。

 

では、補助者という立場ではなく、直接の暴力行使者、つまり兵士となる女性はいなかったのか?当然いたのである。しかし彼女たち兵士としての女性は、極めて数が少ないと考えられており、実際当時の記録にも稀にしか現れない。次項ではそのような女性たちについて簡単に解説する。

 

兵士としての女性

当時の軍隊は男性社会であり、軍事的指導者は一部の例外を除いてほぼ全てが男性であり、その指揮下の兵士もやはりほぼ全てが男性であった。

稀に記録に残される女性兵士はほとんどが男装しており、男性と偽って軍隊に入隊していた。

女性が戦闘に参加する事例そのものはしばしば居住している都市が包囲された際に見られる。1622年モンペリエ包囲戦ではMoureteという女性が「胸甲と兜を身につけ」男性兵士を剣で殺害したとするパンフレットが残されている*20

しかし、一時的な戦闘参加ではなく、職業として兵士を選んだ場合、女性であることが発覚すると裁判にかけられるのが一般的であり、法的には女性兵士の存在は認められていなかった。

それでも女性兵士は存在した。1634年にヒルデスハイムの医師はマスケット兵の服装をした女性捕虜を発見している。女性はスウェーデン軍に所属していた。1629年には重罪のため死刑を宣告された捕虜の中にElizabeth Leechという女性がいたが、彼女はスウェーデンの外交官に軍務のため引き渡された *21

ルドルフ・M・デッカーとロッテ・C・ファン・ドゥ・ボルは著書「兵士になった女性たち」の中で16世紀から19世紀の間にオランダにおいて確認された男装して生活していた女性119例のうち、83例が兵士もしくは水夫であったとしている。その多くは水夫で、陸上兵士であった者は22例だけだったが、これは陸上で女性兵士になったものがその正体を隠しやすく、発覚しにくかったためであり、実数よりも過小評価されている数値であるとしている*22

 

カトリック国であるスペインにもまた女性兵士はいた。カタリナ・デ・エラウソは胸を潰し、男装してコンキスタドールとして活動した*23。 彼女は当時において例外的に社会的地位を認められた女性兵士であり、国王から年金を与えられただけではなく、教皇に接見し、男装し続ける許可を得ている*24

エラウソと同様に、死後に女性である事が発覚したトレインチェ・サイモンズは、その埋葬に軍の司令官ら有力者が出席し、父親によって記念碑が築かれた。

多くの女性兵士は彼女らほど幸運ではなかった。インドの要塞で勤務していたマリットヘン・ヤンスは女性であることが発覚すると直ちに本国へ送還されたし、バーバラ・ピーテルス・アードリアンスは結婚相手の女性に本当の性別を暴かれた後で追放刑を受けた*25

 

三十年戦争の期間中、女性が公式に兵士として召集されることはなく、たとえ深刻な人員不足に陥った地域であっても、兵士として召集されるのは男性に限られていた。スペインのサラマンカでは、1630年には40代以上の男性は軍務の免除対象だったが、1640年代には70代以上まで免除対象が引き上げられた。しかし召集されるのは変わらず男性だけであった*26

 

16世紀ごろから多数出版された「逆さまの世界」をモチーフとする版画や絵画は、兵士という職に対するジェンダーロール意識を強く示唆している。これらの作品では「召使いが主人を打つ」「男が馬を背負う」などの絵と並んで武装した女性が描かれており、女性兵士が当時の人々にとってどのような存在であったかを示唆している。

こうした女性を兵士として認めない認識は、補助者としての女性に好意的な見方をしていたTurnerにも共通するもので、軍事的な必要性というより、社会的な通念がその背景にあったと考えられる*27

 

まとめ

軍事指導者や軍事理論家は軍隊における女性の数を制限するために様々な規制を設けていたが、それにも関わらず多数の女性が軍隊に参加していたことは、女性が軍隊を維持するために不可欠な存在であった事を示している。にもかかわらず、女性は「戦う兵士」の補佐役に押しとどめられており、ごくわずかな例外を除いて兵士という職が公式に女性に解放されることはなかった。

一部の地域で極端な男性不足が発生し、必要な兵員を集めるのにすでに体力が低下した老人男性に頼るようになってもこうした風潮は改められなかったのである。

 

30年戦争期における軍隊は、軍事的必要性から女性の存在を必要としながらも、男性は戦い、女性は男性を補佐し、という社会的な性的役割から免れることができなかった。

三十年戦争期以後もこの状況は変化せず、ソ連などの一部の例外をのぞいて女性が兵士として認められる事はなかった。

 

状況が変化し始めたのはごく最近の事である。

 

 

 

*1 Army of Flanders p252

*2 Women, Armies, and Warfare p70

*3 Army of Flanders p150

*4 Pallas Armata p276-277

*5 Courage and Grífe p24-25

*6 Pallas Armata p277

*7 Women, Armies, and Warfare p90

*8 Women, Armies, and Warfare p123-4

*9 The Experience of Spain’s Early Modern Soldiers p34

*10 Women, Armies, and Warfare p147

*11 Women, Armies, and Warfare p207

*12 Courage and Grífe p33-34

*13 Army of flanders, p180

*14 Army of flanders, p143

*15 The Experience of Spain’s Early Modern Soldiers p30

*16 Women, Armies, and Warfare p114-117

*17 Women, Armies, and Warfare p92-94

*18 A discourse of military discipline p6

*19 Courage and Grífe p47

*20 Women, Armies, and Warfare p204

*21 The Bavarian Army, p40

*22 兵士になった女性たち p19-20

*23 Women. Armies, and Warfare p193

*24 兵士になった女性たち p182-183

*25 兵士になった女性たち p142-143, 109-112

*26 Army of Flanders p38-39

*27 兵士になった女性たち p181-182. Women, Armies, and Warfare p96-99

テルシオという語にまつわる誤解について。

ルシオ(tercio)という言葉を日本語版ウィキペディアで検索すると以下のような記述が見られる。

『テルシオ(tercio)は、1534年から1704年にかけてスペイン王国が採用した軍事編成。あるいはまた、その部隊の戦闘隊形。』

一読してわかる通り、ここではテルシオという言葉に対して二通りの意味が与えられている。

ひとつは編成単位として、ひとつは戦闘隊形としてのtercioである。

しかし、後者は歴史的には正しくない用法である。

実際にTercioが存在した16~17世紀期間中に、スペイン軍及びその他の国・勢力の戦闘隊形に対してtercioという名称が与えられた事実は確認できない。

同時代の史料は、tercioという言葉を常に前者の意味合いで使っている。

例えば1598年にロンドンで出版された『The theorike and practike of moderne warres』では巻末用語解説で、以下のように解説される。

『Tertio, a Spanish word, and is a Regiment of souldiers.』

ここではtercio(Tertio)は単にRegiment、つまり連隊を指すスペイン語であると解釈されており、戦闘隊形という意味は全く含まれていない。

戦闘隊形に近い意味をあてられているのはSquadronである。

『Squadron, a Spanish word, and is a great number of souldiers pikemen reduced in arraies to march and also is a certaine

companie of musketiers framed in order to march of fight, and is also a certaine number of men, aranged in order to march,

or charge.』

ではなぜ、歴史的には正しくない用法が日本語版ウィキペディアに載っているのか。

日本語版ウィキペディア軍事史に限らず歴史の勉強に使うにはあまりにアレだが、この問題に限っては日本語版ウィキペディアが原因ではない。

なぜなら、英語版ウィキペディアでも2016年4月10日まではtercioは

『…was an infantry formation made up of pikemen, swordsmen and arquebusiers or musketeers…』

と記されていたし、何より一部の研究者も、かつてはTercioを隊形とみなしていた(あるいは現在でも見なしている)からだ。

例えば2009年に出版された『The Thirty Years War: Europe's Tragedy』では

『The large square formation has become known as the tercio after the term used by the Spanish for their infantry regiments,..』

との記述がある。

アカデミックにおけるその代表例が20世紀中盤の近世軍事史研究の中で最も重要かつ議論を呼んだテーゼ、『軍事革命論』の提唱者であるマイケル・ロバーツである。

ロバーツは1956年に発表した『The Military Revolution』の中で、tercioを以下のように描写し、マウリッツとグスタフ・アドルフが採用した線形陣と対照させている。

『In spite of the massive, deep, unwieldy square of Spanish tercio, or the still larger but more irregular blocks of Swiss column, they(マウリッツとグスタフアドルフを指す) relied upon a multiplicity of small units ranged two or three line…』

ロバーツはこの箇所に脚注をつけていないため、どのような文献・史料を参照したのかはわからない。

しかし冒頭に挙げたような同時代の史料を参照していない事は確かであると思われる。

ロバーツの軍事革命論については詳しく触れないが、とにかくこのテーゼは80年代以降にジェフリー・パーカーによる批判と新たな軍事革命テーゼの提唱により激しい議論の対象となった。いわゆる軍事革命論争、Military Revolution Debateである。

パーカーは1976年に発表した『The ‘Military Revolution’ ―――A Myth?』の中でスペイン歩兵と tercioの関係について以下のように述べている。

『By the 1560s Spanish infantry on active service was normally made up of small, uniform companies of between 120 and 150 men, into tercios(or regiments)of between 1200 and 1500 men.』

パーカーと同じく、軍事革命論争に加わった他の研究者、ジョン・A・リンやDavid Parrott、I.A.A ThompsonなどもtercioをRegimentとして扱っている。

ロバーツとそのテーゼの修正主義者らによる記述がウィキペディアや『Thirty years war』に見られる混乱を招いたようだ。

これらの混乱も2012年にOsprey publishingからスペイン・テルシオに関する本が出版されたことで、英語圏では徐々にtercio=Regimentという解釈が定着しつつある。

ではそもそもなぜロバーツはこのような混乱を引き起こす記述をしたのか?

すでに述べたように、ロバーツは自身の記述に脚注などをつけていない。

またパーカーたちもロバーツの記述についてとくに詳しく述べていない。

だがGoogle scholarでひたすら1950年以前の数少ない文献を漁るうちに興味深い事実が判明した。

実は20世紀前半まではTercio=Regimentとする解釈が一般的であったのである。

1863年に出版された『Elements of Military Art and History』には以下の記述が見られる。

『Charles V. had solidly organized the tercios (regiments) of his infantry, which out of Spain usually numbered 3,000 men,

divided into fifteen companies of 200 men each; the tercio was commanded by a colonel of horse, or the senior captain』

また1888年に出版されたSir Clements Robert Markham著『"The Fighting Veres."』には以下のような記述がみられる。

『The best regiments of Spain were in the Netherlands, under such colonels, or maestros de campo, as Romero and Mondragon.

The "Tercio Viejo” under Mondragon, was so called because it included bands (" vanderas") of the time of the Great Captain Gonzalvo de Cordova

and of Charles V. The military training and experience of the soldiers were unrivalled, their appearance superb,

their bravery proved in scores of victories. This Tercio was broken up by the Duke of Parma,

and the men were distributed in other tercios, because their pride was considered excessive.』

1911年版ブリタニカ百科事典でも

『Probably the oldest line regiments in Europe are those descended from the famous tercios, whose formation marks the beginning of military establishments, just as the Landsknechts were the founders of military manners and customs.…』

との記述がみられる。

この頃まではtercioを明確にRegimentとして扱っていたことが読み取れる。

それが怪しくなり始めるのが1920年代頃からだ。

1924年11月29日にジョージワシントン大学で開催された大西洋諸国古代史連盟(The Classical Association of the Atlantic States)秋季定例大会における古代ギリシア研究者Oliver L. Spaulding Jrの原稿では次のような記述が見られる。

『The fire power of the phalanx was zero. Its auxiliaries remedied this defect only in part, ...its defense almost unbreakable. …its weakness was the flank, for its maneuvering ability was small, and it was difficult to change front or to refuse a flank.

…Its conspicuous modern representatives were the Swiss and German regiments, and the Spanish tercios.』

この原稿では古代におけるファランクスのような陣形の近世における代表例としてスイス、ドイツ連隊(ランツクネヒトを指すと思われる)に加えてtercioが挙げられている。

この原稿を書いたSpaulding Jr自身がtercioをRegimentであると考えていた可能性は高いと思うが、後知恵で言わせてもらえば、誤解を招きかねない表現でもある。

1936年にはかの(いろいろな意味で有名な)Sir Charles Omanによる古典的な書、『History of the Art of War in the Sixteenth Century』が出版されるが、tercioは

『unit』『one large regiment』

とも記述される一方

『almost we would say brigade』

とも記述されており、軍事行政上の単位であるのか戦術上の単位であるのかはっきりとしない。

おそらくこうした形で徐々に伝言ゲームが始まり齟齬が広まっていったのではないか。

齟齬が広まっていった背景には軍事史の欠陥としてしばしば言及される『実証研究の少なさ』があることは間違いない。

ロバーツが博士号を持つれっきとしたアカデミックの人間であるという事実は割と重い。

最後に私のお気持ちを表明しておきたい。

Tercioという語がいつの間にか全く異なる意味にすり替えられ、パーカーが50年以上前に歴史的に正しい用法を用いても今なお、歴史的に正しくない用法を用いている本を見かけるといろいろ暗い気分になる。

以上。

フランドル駐留軍における多地域出身部隊の混成運用とその要因

近世スペイン軍はスペイン人のみから構成されていたわけではない。

スペインの方面軍の一つ、フランドル駐留軍にはドイツ人、ワロン人、イタリア人、アイルランド人、アルメニア人など、さまざまな地域出身者がスペイン軍に参加しており※1、スペイン人はむしろ少数派でさえあった。

本稿ではスペイン軍がなぜこのような多様な軍隊となったのか、フランドル駐留軍の運用とベルナルディーノ・デ・メンドーサの書籍からその要因を考察したい。

フランドル駐留軍の1572年から1647年までの歩兵の出身別構成を以下に示す。※2

フランドル駐留軍歩兵国籍別割合

ここに見られるように、スペイン人は休戦期間(1609年~1620年)を除いて常に少数派であり、歩兵の過半数はワロン系もしくはドイツ人の傭兵であった。

これらさまざまな出身地域の兵士たちは、理論的には地域ごとに連隊単位に編成されていたが、混成部隊が編成されることもあったようである。※3

野戦軍も軍全体と同様に複数の地域出身兵士からなる部隊が参加していた。

1572年のハールレム攻囲戦にはスペイン人の他にイタリア、ドイツ、ブルゴーニュ、ワロンの各地域から兵士が召集されていた。※4

またスピノラによる1606年の遠征にはスペイン・テルシオ三個、イタリア・テルシオブルゴーニュ・テルシオイングランド・テルシオ、ワロン連隊各一個、ドイツ連隊二個、アイルランド中隊五個で構成されており、※5

1643年のロクロワの戦いの際に、ドン・フランシスコ・デ・メロ率いるスペイン軍本隊はスペイン・テルシオ五個、イタリア・テルシオ三個、ワロン・テルシオ五個、ドイツ人連隊五個とブルゴーニュ人部隊を含んでいた。※6

1634年に出版された元スペイン軍アイルランド・テルシオ士官による本には、6ヵ国の兵士からなる戦闘方陣(battel square)の組み方が図入りで説明されている。※7

Gerret

実際にこのような6ヵ国の兵士が巨大な方陣を形作る事は行われていなかったものの、2か国程度の兵士が戦隊(battalion)を形成するということは行われていた。

都市における駐屯も野戦と同じく複数の地域出身からなる部隊によって行われていた。

1629年、ドイツ東部のリンゲンにはドイツ人中隊十二個、ブルゴーニュ人中隊四個、イタリア人中隊三個、ワロン系中隊二個、アイルランド人中隊一個に加えて騎兵と砲兵の小部隊が駐屯していた。※8

興味深いことに、アイルランド人中隊が所属していたテルシオの他の部隊は、直線距離にして300キロ以上離れたアントウェルペン近郊のザントヴリートやネーデルランド沿岸のオーステンデなどに駐屯していた。

このようにさまざまな地域出身の兵士たちの混成軍は指揮統制上の混乱や兵士・部隊間の軋轢など様々な問題を引き起こしたと考えられる。

それにも関わらず、スペイン軍が混成軍を率いた理由は何か。

外交官であり軍人でもあったベルナルディーノ・デ・メンドーサによって16世紀末に執筆された以下の記述は多様な地域出身の兵士から軍隊を構成する理由を以下のように記述している。

「現代において、国を守るためではなく他国へ侵略するために、一つの国からなる軍隊を形作るのは困難であり…

 特に人口が多く、消耗の激しい外国での戦争を継続させられるだけのより多くの兵士となりうる最低でも16歳以上の男の多い州でも、

 この場合は国の外へ出ていくことになり、軍隊の種々の事柄に適合するよう訓練させられる。

 多様な軍隊はこれらを分担されるが、疑いの余地なく一つの国からなる軍隊は…自分自身にすべてを依存しており、したがって彼ら自身の国の維持のためにより団結せねばならない。

 この予期されうる問題ばかりでなく、偉大な帝国が彼ら自身を増強、防護するときに、ひとつの国のみからなる兵士によって戦争を行うか、一部を他の国の兵士に置き換える軍隊について、効果の面から考えねばならない。」

「この場合、多くの王国と州を統治する強大なわが陛下は、一つの軍隊か、多様な軍隊かという選択から抜け出し…将軍たちの意見をもとに

 最も使いやすい部隊、戦争の形態、兵士を召集する州や領邦を選ぶことができる。」

※9

つまりスペイン軍は戦争継続のため、長期に渡って多数の若年男性を必要としていた一方、その供給源となる地域の人口動態を荒廃させてしまうわけにもいかず、打開策として兵士の供給先を複数の地域に分散させたのである。

しかし長期にわたるネーデルランドの戦争においては、これらの分散策も十分とは言えなかった。

事実、1643年の軍事勅令ではワロン系地域から「召集される兵士にマスケットの使用に耐えうる人材がいない」事を理由として、ワロン・テルシオの装備からマスケットが外され、1634年の軍事勅令によって一旦廃止されていたアルケブスが復活している。※10

スペインにおいても1630年代以降に一部地域で召集対象者の年齢上限が上昇していく傾向がみられ、※11軍隊への人材供給先を分散していたにも関わらず、メンドーザの予期していた問題が現実のものとなっていたことが示唆されている。

野戦軍についても持続性からその混成運用が説明できる。

フランドル駐留軍は休戦期間を除いておおよそ6万人~8万人程度の兵員を有していたが、これら全てを野戦軍に振り向けられたわけではない。

1639年の場合、およそ77000名の兵員がいたが、そのうち33400名は200か所以上の拠点に守備兵として配置されていた。※12

これら守備隊と野戦軍は戦力を維持するため、定期的にローテーションを行っており、※13守備隊となった部隊は補充や訓練を行って戦力の回復と維持に努めた。

スペイン軍は多様な地域出身の兵士から構成されていたものの、それらの兵士たちは平等な扱いを受けていたわけではなかった。

兵士一人あたりにかけていた費用や会戦の際の配置からその序列を推察することができる。

最も費用を費やされていたのは当然ながらスペイン人であり、次いでイタリア人、ドイツ人、ワロン人と続く。

スペイン兵一人当たりの費用はワロン系兵士の1.75倍に及んだ。※14

会戦においてスペイン人部隊は常に「最も栄誉ある」位置とされる最前列最右翼に配置されており、最精鋭部隊であると見なされていた。※15

また、スペイン人部隊の左隣は常にイタリア人部隊が位置していた。これはバリーの陣形図にも共通する位置関係である。

1607年、1643年におけるスペイン野戦軍の編成が示すように、両者は軍全体の比率と比較して高い割合で野戦軍に編成されていることからも、

戦力として強く期待されていたことがうかがえる。

しかしスペイン人とイタリア人は軍全体で1万人強ほどの兵員しかおらず、両者のみで野戦軍を構成することは不可能であったため、

他の地域出身の兵士を野戦軍に組み込む必要が生まれた。

この時、仮に一地域のみを組み込むと、野戦軍が甚大な被害を被った際、ある地域出身兵士部隊だけ突出して兵員が少ないという事態を招くことが予想される。

その際は新たに新兵の補充を行う必要性が生まれるが、当時のスペイン軍の新兵訓練はスペイン人部隊・イタリア人部隊を除いて各部隊で直接行われていた。

そのため著しい損耗は部隊内で行われる新兵の教練などにも影響を与え、部隊の持続性を損なう可能性がある。

結果として、部隊を維持持続させるために、野戦軍も各地域ごとに分担させる方針となったと考えられる。

1629年の例に見る宿営地の混成は、スペイン軍内の序列及び統制の二点から理解することができる。

当時アイルランド人部隊は野戦において第二列最右翼に配置されるなど※16、スペイン軍内においてある程度の評価を得ていた。

そのため、守備を増強するために一部の部隊が配置されたと理解できる。

加えて、メンドーザは行軍中の宿営について次のように語っている。

「宿営所に2つの国の部隊を公平に配置することで、それぞれの部隊は一つよりも強くなる。

 …方陣をそれらの国を混成して方陣を形作る際、ひとつの宿舎に共に宿泊した部隊はお互いの兵士たちと知り合い、

 それに従って兄弟愛によって戦うために結束するだろう。」

※17

つまり宿営地における混成は異なる地域出身の兵士たちを結束させるために行われていたとも理解できる。

実際には戦力の増強かつ結束を高めるための手段として宿営地における混成運用が行われていたと考えるべきだろう。

本稿をまとめると以下のような結論に至る。

当時から戦争は人的資源を消費するものとみなされており、スペイン軍は兵士の供給源となる地域の人口構成の崩壊を招かないために

兵士を召集する地域を分散させた。その結果として多様な地域出身の兵士たちからなる軍隊が生まれたが、

兵士たちの戦力的な評価は一定ではなかったため、野戦軍の地域別構成比は全体の比率と一致しなかった。

また、新兵教育の場でもある各部隊を維持するために、野戦軍そのものも各地域出身の部隊に分担させる方針となった。

多様な地域出身の部隊間の結束を高めるため、あるいは戦力の補充として、宿営地においても多様な部隊が混成されることとなった。

このような各要因の結果として『多様な』スペイン軍とその運用が生まれた、と理解できる。

さらに理解を深めるため各部隊ごとの詳細な記録を調べてみたいが、現状確認できる各部隊にフォーカスした英語書籍はアイルランド人部隊を扱ったThe Ilish in the Spanish Armiesしかない。

近世スペイン軍ははっきり言って英米であまり人気がないため、どうにもならない感があるが、とりあえず何とかスペイン語学習頑張っていくしかない。

『やらなければ、始まらない』……のじゃ。

※1

Eduardo de Melo, The Ilish in the Spanish Armies,, p1/

Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567–1659 p25‐26.

※2

The Army of Flanders p231を元に作成。

※3

The Ilish in the Spanish Armies,, p13

※4

Roger Williams, The actions of the Lowe Countries., p87.

※5

Eduardo de Mesa, La pacificación de Flandes : Spínola y las campañas de Frisia.

※6

Stephane Thion, The Battle of Rocroi, p17-18.

※7

Gerat Barry, A discourse of military discipline devided into three boockes, p105.

※8

The Ilish in the Spanish Armies, p20 p75-76.

※9

Bernardino de Mendoza, Theorique and practise of warre, p31-33.

※10

The Army of Flanders, p235.

※11

The Army of Flanders, p38-39.

※12

The Army of Flanders, p9.

※13

The Army of Flanders, p29.

※14

The Army of Flanders, p236.

※15

The Army of Flanders, p27.

The Battle of Rocroi, p19

※16

The Ilish in the Spanish Armies, p90-91 p112 p206-208.

※17

Theorique and practise, p44-45.

参考書籍(アマゾン等リンク付き)

The Irish in the Spanish Armies in the Seventeenth Century

La pacificación de Flandes : Spínola y las campañas de Frisia

The Battle of Rocroi

The Army of Flanders and the Spanish Road

Theorique and practise of warre

The actions of the Lowe Countries

A discourse of military discipline devided into three boockes

16世紀後期における坑道戦・対坑道戦

火薬の普及によって生まれた兵器・戦術は銃や砲だけではない。

火薬の爆発力はさまざまな兵器に利用され、中には大砲や銃と同じく重要な地位を占めるに至ったものもある。

そうした兵器・戦術の一つが地雷とそれを利用する坑道戦術である。

地雷を用いた坑道戦術がヨーロッパで初めて用いられたのは1439年のこととされる。

1487年には高名な建築家フランシスコ・ディ・マルティーニの指導の下、サルツァネッロ要塞に対する攻撃に使われている。※1

なお、地雷を用いない坑道戦術は中世から存在しており(クリスティーヌ・ド・ピザンの著作にも登場する※2)、地盤を崩すため、あるいは敵城内への侵入路とするために用いられていた。

15世紀末から16世紀前半を通して地雷がヨーロッパ中に普及していった背景にはこうした坑道戦術がすでに普及していた背景があったと考えられる。

16世紀後期の坑道戦術は特殊技能を持つ工兵によって実行されており、一般の兵士が参加することはなかったようだ。

1587年以前にスペイン軍に従軍した兵士によって書かれたとされる『The arte of vvarre』によると坑道戦術は砲兵の管轄であったらしい※3

閲覧可能な文献の中でおそらく最も詳細な坑道戦術・対坑道戦術の知見は『Inuentions or deuises Very necessary for all generalles and captaines, or leaders of men, as wel be sea as by land』に見られる。

この本は1578年に出版され、タイトルが示す通り、さまざまな軍事的発明品を記述した本である。この本では4つの項を使って坑道戦術・対坑道戦術を記述している。

まず最初に2項を使い、対坑道戦術が語られ、後半2項で坑道戦術が語られる、といった構成が取られている。

坑道戦術について語られる後半2項の記述をまとめると以下のようになる※4

・坑道は真っ直ぐではなくジグザグに折れ曲がる。

・爆破室の天井は火薬の樽よりも5~7フィート高く、上部にベントを持つ。

・折れ曲がった坑道を掘るため、あらかじめ坑道の入り口から目標地点までの距離を調べて置き、見取り図を作ってから掘る。

単純に直線形の坑道ではなく、ギザギザのものを推奨し、あらかじめ見取り図を用意するよう勧めるなど、すでにこの当時坑道戦術がそれなりに高度化していたことをうかがわせる描写がある。

一方、1594年にスペインで出版された文献を英語に翻訳した『Theorique and practise of warre』にはこれと異なる方法が記述されている。※5

『Theorique and practise of warre』の記述する坑道は

・坑道を掘るためにコンパスを用いる

・坑道の構造がジグザグとは書かれておらず、むしろ直線的なものと思われる

と、『Inuentions or deuises』のものとは異なる特徴を持っており、複数の異なる方法が試みられていたことをうかがわせる。

最終的には『Theorique and practise of warre』のコンパスを用いる手法が一般的となったようである。

また、『Inuentions or deuises』では爆破室は火薬樽よりも高い天井を取るべきだとしているが、『The arte of vvarre』ではしばしば起こる地雷の失敗が爆破室の天井を高く取っていなかったことにあり、爆破室は高くするべきだとのべている点から、周知の事実とは言えないまでもある程度広まっていた方法であると思われる。

『Inuentions or deuises』は対坑道戦術について、主にその探知方法を記述している。

・坑道の存在が疑われる場合、こちらからも坑道を掘り、地面の下で敵の掘る音を聞きつける。

・坑道の存在が疑われる場所の地面の上に水盆を置き、エンドウ豆を入れて地下で坑道を掘る動きを探知する。

『The arte of vvarre』もこれとよく似た方法を記述している。※6

私見のかぎり大きく異なる方法を推奨している文献は確認できなかった。

1589年出版の『A true coppie of a discourse』はJohn Norreysの遠征の際にある都市を包囲した際に坑道戦術を用いた様子を記述している。※7

それによれば、坑道が採掘可能な場所を見つけ、三日かけて坑道を掘ったが、十分な量の火薬をセットするに至らず、また突入路を形成することにも失敗している。

そこで翌日の深夜、改めて工兵によって坑道が掘られ、二日後には壁の下に到達した。この坑道に仕掛けられた爆薬によって「塔の半分が吹き上げられ」、歩兵の突撃が行われた。

しかし残った塔の半分が崩れ落ち、攻撃するはずだった歩兵のうち20~30人がその下に埋められてしまい、恐れをなした兵士たちは士官を見捨ててその場を離れてしまった。

士官たちはその日あるいは翌日中に救助されたが、結局この攻撃は失敗のうちに終わった。

1618年に出版された『The actions of the Lowe Countries』では1573年のハールレム攻囲戦における対坑道戦を記述している※8

それによると、発見された坑道の一つは防壁の下にまで達していたが、守備隊は地雷周辺に塹壕を掘り、地雷が爆発したあとの防御設備としたようだ。その結果攻城軍はこの坑道を使った攻撃を諦めることになった。

また別の防壁では、守備隊自身が地雷を仕掛け、攻城軍が侵入してきた際に地雷に着火し防壁ごと爆破する、といったことも行われた。

後者のような守備的な地雷の使用は、ヨーロッパで初めて地雷が使用された1439年にも見られる。

『A true coppie of a discourse』及び『The actions of the Lowe Countries』の記述からは、地雷を用いる坑道戦術が単に構造物の破壊のみを目的とするのではなく、侵入路としても用いるものであったことがわかる。

突撃路として用いるのであれば、『Inuentions or deuises』の記述するジグザグな坑道は不適格であると考えられる。

またこれらの記述からは坑道戦術の弱点も浮かび上がってくる。

坑道が察知されない場合ですら、地雷によって破壊された構造物に坑道や兵士たちが埋められてしまう、といった事態が起こり得たし、

坑道が察知された場合には、防御者が坑道出口周辺に防御設備を設けることで後続の兵士たちによる攻撃の影響を抑えることが可能だった。

火薬によって生まれた新しい戦術である坑道戦術も、同じく火薬によって生まれた新しい兵器である大砲と同様に、16世紀において試行錯誤と対抗策とのいたちごっこを続けながら発展・普及を遂げたのである。

※1

Christopher Duffy, Siege Warfare. p11

※2

Christine de Pisan, Here begynneth the table of the rubryshys of the boke of the fayt of armes and of chyualrye whiche sayd boke is departyd in to foure partyes .Capio・ xxxvij

※3

William Garrard,The arte of vvarre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession: drawne out of all our late and forraine seruices. p280

※4

William Bourne, Inuentions or deuises Very necessary for all generalles and captaines, or leaders of men, as wel be sea as by land: written by William Bourne. p50-53

※5

Bernardino de Mendoza, Theorique and practise of warre. Written to Don Philip Prince of Castil, by Don Bernardino de Mendoza. Translated out of the Castilian tonge into Englishe, by Sr. Edwarde Hoby Knight. Directed to Sr. George Carew Knight, p98

※6

The arte of vvarre, p285

※7

Anthony Wingfield, A true coppie of a discourse written by a gentleman, employed in the late voyage of Spaine and Portingale sent to his particular friend. p19-21

※8

Roger Williams, The actions of the Lowe Countries. p91

16世紀末におけるスペイン軍の射撃戦術

「私は『ex evolutionibus』にマスケット兵とアルケブス兵に継続的に射撃させるだけでなく、効果的に射撃させるための戦闘隊形を以下のように見出した。

一列目が同時に射撃するとともに、後方に下がり、二列目が前進し射撃、その後後方に下がる。その後、三列目も同様にする。こうして最後の列が射撃する以前に最初の列が装填する…」

1594年12月18日付ウィレム・ローデウェイク書簡

 

「私は『ex evolutionibus』にマスケット兵とアルケブス兵に継続的に射撃させるだけでなく、効果的に射撃させるための戦闘隊形を以下のように見出した。

一列目が同時に射撃するとともに、後方に下がり、二列目が前進し射撃、その後後方に下がる。その後、三列目も同様にする。こうして最後の列が射撃する以前に最初の列が装填する…」

1594年12月18日付ウィレム・ローデウェイク書簡

 

反復行進射撃、いわゆるカウンターマーチははウィレム・ローデウェイクのこの書簡に期限を求められることが多い※1

しかし実際にはそれ以前から複数の書籍が行進射撃に言及しており、カウンターマーチの起源をウィレム書簡に求めるのは適切ではない。

例えば元オランダ軍兵士Thomas Diggesが1571年に刊行した『An arithmeticall militare treatise named Stratioticos』で25人の部隊が行う「リングマーチ」について記しているし、

Thomas Stywardの1581年の著書『The pathwaie to martiall discipline』にも記述がある※2

 

当時オランダと戦争状態にあったスペイン軍も、ウィレム書簡以前に行進射撃を取り入れていたとみられ、例えばスペイン軍に14年間従軍した兵士が1587年以前に書いたとされる『The arte of warre』には以下のような記述がある。

「戦場が広く、平野であれば、銃兵はより大きく強くなり、敵に逆襲するには、(銃兵の)正面が発砲すると最後列に下がり、そこで再び装填し、再び敵との闘いに加わる」

「兵士たちは…隊列正面の第一列から横列の間を通り抜け、以下のように戦友たちの後ろにつく。」

図1

arte of warre p115

 

「これら三つの隊は、戦場に歩み入り、また横列の間を抜けて後退し、必要があれば他の隊を助けるか、最後列で装填し、再び前進して戦う。このようにして継続的に戦い、斉射を維持することができるだろう。

図2

 

a href="http://a3dayo.blog.fc2.com/img/img115-2.png/" target="_blank">arte of wa<rre p115-2

 

Diggesの記述はウィレムの物とよく似ており、90年代にオランダ軍が採用し始める射撃戦術がすでに80年代のスペイン軍に存在したことを示している。

しかしスペイン軍のこうした射撃戦術が注目されることはあまりない。

こうした書籍の中から、著者がスペイン軍に従軍しており、かつウェブ上で閲覧可能な1597年刊行、Robert Barret著『The theorike and practike of moderne warres』の行進射撃に関する記述から当時のスペイン軍の射撃戦術について考察したい。

 

 

 

『The theorike and practike of moderne warres』で最も具体的に行進射撃が記述されているのはP42である。

 

 

「第一列は3~4歩前進し、(槍兵の)右手の隊列は右へ半歩、左手の隊列は左へ半歩踏み出すことで銃を構え、火挟を起こす空間を空ける。そして第一列兵士全員が迅速に準備を終えたら、

マスケットを股杖にのせ、一度発砲し、その場に留まり、再び装填し、後続の列に前を行かせる。

第一列の前に出た第二列は…第一列と同じように発砲し、それから第ニ列の前に出た第三列も、第三列の前に出た第四列も同じように発砲する。他のすべての列がこの二重行進を行った結果、

最後の列には第一列が再び後に続く。」

 

この記述はウィレム書簡とも『The arte of warre』とも大きく異なり、前進しながら射撃することを想定している。

80年代から90年代にかけて、射撃戦術が変化していた可能性をうかがわせるが、推測の域をでない。

なおこの記述は1634年に出版されたGerrat Barry著『A discourse of military discipline』P134にほぼそのまま引用されており、イングランド及びアイルランド兵によって継続的に採用されていた可能性がある。

 

 

次いで著者は「イタリア人とスペイン人」が行っていた斉射を次のように記述している。※3

マスケット兵に斉射をさせるには他の方法もある。私はそれがイタリア人とスペイン人によって行われるのを見た。

マスケット兵を30~50人に分け…一列に3~5人の兵士が並び…マスケット兵たちは幾分か近すぎるほど密集して列の間を詰め、半月を描くように…転回し停止する。

そして素早くマスケットを股杖に乗せ、肩が触れ合うほど近づき…全員一度に発砲する。そして後退し、他の兵士に場所を譲る。」

 

この射撃法はウィレム書簡、『The arte of warre』、そしてBarretらイングランド人兵士が行っていたと推測されるもののいずれとも明確に異なり、銃兵同士が密着して行うことに特徴がある。

記述通りならば横列の兵士間に隙間を持たないために、後退する際は横列の隙間を抜けるのではなく、横列が転回して横にずれ、後退したものと考えられる。

これはイングランド人の射撃戦術がいわゆるrank by fileであったのに対し、スペイン人・イタリア人の射撃戦術がrank by rankであったことを示している。

 

 

 

 

ではなぜBarrettの部隊と「イタリア人とスペイン人」の部隊の射撃法は異なっていたのか?

 

この疑問を考えるには「イタリア人とスペイン人」の部隊と、書籍の著者らの部隊の差異を理解しなければならない。

当時のスペイン軍はスペイン人、イタリア人、ドイツ人、ワロン系住民、そして著者らのイングランド人と、複数の地域出身の兵士で構成されていた。※4

それらの部隊は現地で組織され、低地地方へ派遣されるか、低地地方で組織されるかのどちらかであったが、例外があった。スペイン人である。

スペイン人はスペインで組織されたあと、いったん海路でイタリアへ送られ、要塞で数年間訓練を行ったあとアルプス山脈とロレーヌ渓谷を通り、フランドルへ派遣されていた。

 

ハプスブルグ家は16世紀前半からイタリアにスペイン人部隊を駐屯させており、有事の際には即応軍として機能するこれらの部隊が低地地方の反乱鎮圧のためにも使われたのである。

低地地方へ派遣された部隊の穴埋めにスペイン人が送りこれ、数年後にその部隊が低地地方へ派遣された後に穴埋めとして再びスペイン人が送り込まれる、そうしたサイクルが成立していたのである。※5

 

 

その際、要塞で数年間訓練を受けるなかで採用された射撃戦術がBarretが記述するものであった、と考えられる。

つまり「イタリア人とスペイン人」の射撃戦術はイタリアにおいて発展した、「イタリア式カウンターマーチ」なのではないだろうか。

イタリアでは16世紀前半には古代ローマの軍事書などが軍人によって読まれており※6、また16世紀中盤まで続いたイタリア戦争の舞台となっていたため、射撃戦術が進歩する余地は十分にあったと思われる。

 

出来ればこの仮説を証明したいが、イタリア語・スペイン語の能力が極めて低いため、どうにもならない。

現実は非情である。

 

なお、ウィレム書簡ではrank by fileが記述されているが、1608年に出版されたexcises of armではrank by rankについても記述されており、スペイン軍からの影響をうかがわせる。

前述の仮説の検証とこの影響については今後の課題と語学習得の動機としたい。

 

 

スペイン軍に加わった初期のイングランド人は、元はイングランド王によって設立され、低地地方へオランダのために送られた部隊であった。

彼らはLier、Aalst Deventer Zutphenなどでスペイン軍に寝返った兵士たちだった。

その後、

 

 

 

『The theorike and practike of moderne warres』の「イタリア人とスペイン人」といった記述も、イタリア人部隊とスペイン人部隊のことを指している。

 

 

 

 

参考URL

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A01504.0001.001/1:5.2.17?rgn=div3;view=toc

https://quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx?c=eebo;idno=A04863

 

 

※1

桜田実津夫『物語 オランダの歴史』P42など。

 

※2

Geoffrey Parker,『The Limits to Revolutions in Military Affairs: Maurice of Nassau, the Battle of Nieuwpoort(1600)』The Journal of Military History, Vol. 71, No. 2 (Apr., 2007), pp. 331-372,p337

 

※3

なぜかこの記述はParkerの前掲論文では取り上げられていない。

 

※4

Eduado de Mesa,The Ilish in the Spanish Armies in the Seventeenth Century p9-10

Geoffrey Parker,The Army of Flanders and the Spanish Road 1567-1659 second edition p23-27

 

 

※5

Parker,Army of Flanders、p28,p50

 

※6

Michael Mallett and Christine Shaw,The Italian War p187